第十一話〜⑩

「エリザベス!」

 伯爵は叫んだ。


 公爵のもう一方の手が拳を作り振り上げられるのを見て、咄嗟に懐から拳銃を取り出した。

 だが、外せば少女が被弾する。その迷いが、引き金を引くのを躊躇わせた。


 公爵の拳が、少女の顔面目掛けて振り下ろされる。

 間に合わない。


 一か八か、引き金に掛ける指に力を入れかけた──その時だ。

 伯爵の目の前で、グラッブベルグ公爵が宙を舞った。

 アッと言う暇も無い。

 離宮の廊下を縦回転しながら、公爵は華麗にエリザベスの頭上を飛び越えて行った。


 伯爵だけでなく、公爵を追っていた近衛兵も、忙しなくお産の支度に走り回っていた侍女官や女中達も、誰もが自分の目を疑った。

 派手な振動と共に離宮の廊下に背中から墜落した公爵もまた、背中の痛み以上に何が起こったのか理解出来ずに、茫然と天井を見上げていた。

 その天井との間に、ひょっこりと栗の実色の髪と瞳の少女が現れる。


「ご、ごめんなさい公爵様! 急に掴みかかって来るから、私、吃驚してしまって。痛くありませんでしたか⁉︎」

 オロオロするエリザベスは、本気で公爵を心配している様子だ。

 そこで漸く公爵は、自分がこの小娘に投げ飛ばされたことを知ったのだった。



     *   *



「少し落ち着かれたらどうです」

 副官ロシェットに言われて、フランツは絶え間なく踏み鳴らしていた足を止めた。

 憮然とした表情で副官を睨むが、ロシェットは涼しい顔で上官を見返す。副官の傍らでは、従卒のシャテルが心配そうにこちらを見上げていた。それを見て、フランツは口をへの字に結んだ後、金髪を掻いて短く空気の塊を吐き出した。

 第二連隊庁舎の東棟二階。

 踊り場の窓から、広場を挟んだ向こうの第一師団の庁舎を見遣る。


 アニエス救出の一報と共に、ローフォークの拘束の情報も齎されてから、すでに三時間以上が経っている。

 時刻は午後八時を回り、王都の空は夜の帳にすっかり包まれている。街には街灯が灯され、市民の姿は乏しい。忙しなく二つの庁舎を行き交う軍人の姿があるばかりだ。


 フランツは腕を組み、僅かな変化も見逃すまいと、広場向こうの第一師団庁舎を睨み付けた。

『逮捕じゃ無いだけ、希望があると思うべきなのか』

 焦燥が身の内で荒れ回る。

 アニエス救出の為とは言え、ローフォークを送り出したことを後悔した。現場にローフォークがいなければ、このような事態にはならなかっただろう。

 だが、アニエスは樽に詰められて庭に埋められていたと言う。公爵邸の変化に気付ける者がいなければ、見落とされ、窒息死していたかもしれない。

 フランツの判断は間違いではないのだ。

『知らないふりも出来た。けれど、カレルはもう逃げることをやめたんだ』


 では、自分は何が出来るのか。

 これ以上、親友をあの卑怯者の犠牲にさせない為に、何が……。


 ふと、視界に第二連隊庁舎の敷地に駆け入る騎影が入った。

 フランツは両目を瞠り、すぐ真後ろにある階段を駆け降りる。階段を降り切ると、ちょうど庁舎の正面ホールに鳶色の髪の軍人が飛び込んで来たところだった。

「ドンフォン」

「中佐」

 振り返ったドンフォンは、フランツを見付けて走り寄った。


「すみません、中佐。兄に見付かってしまって、追い返されました」

「そうか……」

 フランツはローフォークの拘束を受けて、宮廷の動きを探るためにドンフォンを王宮庭園へと送り出していた。彼の長兄が王宮近衛連隊で警備隊長を務めている為、何かしらの情報を得られることを期待していたのだ。


「ですが、幾つか動きはあった様子です」

 への毒殺未遂の容疑で拘束されていたグラッブベルグ公爵は、王宮近衛連隊の本部に身柄を移された。国王フィリップ十四世の御前で軍務大臣の尋問を受けていた公爵は、追い詰められて二人の前から逃げ出し、捕えられたのだ。


「今はどうなっているか分かりません。ですが、私が向こうに居た段階では、正式に逮捕されたという情報は得られませんでした」

「立場が立場だ。色々と忖度するところがあるのだろう。他には?」

「はい。ちょうど第一連隊の連絡役の方がいましたので、聞き出すことが出来ました。良いですか? 心して聞いて下さい」

 含みのある言い方に、フランツは眉を寄せた。ドンフォンは、一つ大きく深呼吸をする。


「公爵の書斎から、カレル先輩の兄君の頭部が見付かりました。軍務大臣閣下は、十一年前のローフォーク領での墓荒らしが、グラッブベルグ公爵の主導の下で行われたと見ているようです」

 その言葉の意味を理解するのに時間は掛からなかった。


 たちまち、身体の内が殺意に満たされた。

 全身が熱く、怒りに燃え滾る。

 フランツから溢れ出した殺気に、ドンフォンはたじろいだ。

「こ、公爵の逃走は、それが露見してのもののようです。ですが、逃走を阻止したのはコール准尉です」

「エリザベスが?」

 殺気は急速に鳴りを潜めた。


「ええ。走って逃げる途中、公爵はコール准尉を見付けて逆上して掴み掛かり、吃驚したコール准尉が勢い余って投げ飛ばしたそうです」

 公爵は、それは見事に宙を舞ったのだという。

 その光景を想像し、フランツはフッと口元を弛めて笑った。


 それを見て安堵したドンフォンは、しかし、すぐに表情を引き締める。

「中佐、いい加減に話してもらえませんか。今回の公爵令嬢の誘拐の一件、宮廷で起こった『とある貴人』への毒殺未遂と、どう考えても無関係ではありませんよね。コール准尉が突然王宮に召し抱えられたのも、それと関連しているのでしょう?」

 思わずフランツは渋面を作る。


「私は最初、コール准尉はアン王女殿下に召し抱えられたのだとばかり思っていました。ですが、先程赴いた宮廷は、毒殺未遂が起こったにしては雰囲気が違います。あれは、まるでお産の現場だ」

「待て、ドンフォン。お前、何処まで進入したんだ」

 部下の発言に驚いて、フランツは問うた。

 少なくとも、アン王女がいる離宮は近衛連隊によって厳重に固められている。そう易々と近付けるものではないはずだ。


「離宮の中に入りましたよ。シュトルーヴェ連隊長から軍務大臣閣下に伝言があると嘯いたら、あっさり通してくれました。顔見知りでしたしね。まあ、すぐに兄に見付かって看破されてしまいましたが」

 部下の図々しさに感服しつつ、呆れの溜息が出る。


「そんなことより、どうなんですか? まさか、アン王女殿下の御出産というわけではないでしょう? 離宮の表にはカラマン大使の馬車があったんですよ。コルキスタ大使の馬車ならともかく、こんな時間に、アン王女の離宮にカラマンの大使が何の用事があるって言うんですか。『貴人』とは一体誰の事です。中佐にも立場があるのは承知しています。ですが、公爵令嬢の誘拐と毒殺未遂は全く別の話ではない。カレル先輩は、とんでもなく面倒な事に巻き込まれたんじゃないんですか⁉︎」


 鳶色の瞳を真っ直ぐに向けられ、フランツは返事に困った。

 額を抑え、瞼をきつく瞑る。

 第一師団長のソレルは、かつて父シュトルーヴェ伯爵と共に先代ローフォーク子爵の処刑を阻止しようとして捕まった過去がある。その息子であるカレル・ヴィルヘルムが置かれた立場を分かっているから、無体な取り調べはしないだろう。


 だが……、とフランツは思う。

 ローフォーク自身が、事態を曖昧にすることを望まない。

 友人は、最後の覚悟を決めたのだ。


 フランツは意を決して顔を上げた。

「シャテル、大隊長と副官達を連隊長室に集めてくれ」

「はい!」

 シャテルは敬礼をして駆けて行く。ドンフォンもそれに続き、走って行った。


 忙しなく兵士達が行き交う大ホールに残ったフランツは、近くを通り掛かった兵士の一人にジェズを呼んでくるように命じた。


 自分も、全てを賭す覚悟をしなければ──。


 今一度、開けっ放しの正面玄関から第一師団の庁舎を睨む。

 やがて、フランツは踵を返し、ロシェットを連れて歩き出した。

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