第十一話〜⑦

 エリザベスは無言で歩み寄った。

 立ち竦むアデレードの、何かを握り込んで隠している両手に、そっと手を添える。

 少しの抵抗があったが、エリザベスの指は優しくアデレードの指を解き、その手の中にあった小瓶を暴き出した。


「公爵夫人、これは」

「お願い、見逃してちょうだい」

 搾り出した声は、手と共に震えていた。

「私がしなければいけないの……」

「アニエス様のことですね?」


 どうしてそれを、と言い掛けて、アデレードは力無く床に座り込んだ。

「シュトルーヴェ伯爵ね。あの方は、本当に何でも御存知だわ」

「いいえ。伯爵様は何でも知っているわけではありません」

 諦めた様子で項垂れるアデレードに、エリザベスは言った。


 配膳室の女中達が、二人の異変に気付く。

 良く教育をされている彼女達は、黙ってティーポットを手に取り、厨房へと引き下がった。

「公爵夫人。アニエス様の居場所を御存知なら、どうか教えて下さい。今、伯爵様はアニエス様を懸命に捜していらっしゃいます。一刻も早く、救出しなければいけません」

 アデレードは横に首を振った。

「私は何も知らないの。ただ、小瓶の中身をマリーが口にする物に混ぜるように言われて。そうしたら、娘は帰ってくると……」


「公爵様は誘拐犯と接触したのですね。小瓶を受け取ったのは、いつか分かりますか? その日、公爵様と行動を共にしていた近侍や、移動に使った馬車の御者達は、何か言っていませんでしたか?」

「私が小瓶を受け取ったのは、昨日のことです。主人がいつこれを手に入れたのかは分かりません。近侍も御者も、何も……」

 アデレードは、胸元で抱くように小瓶を強く握り締めた。


「あの屋敷では、私の味方は誰もいないの。誰に何を訊ねても、一人として応えてはくれない。私は母親なのに……!」

 はらはらと零れる涙が、顔を覆うヴェールを濡らしていった。

 躾けられた女中達も躊躇い戸惑う中、エリザベスはアデレードに寄りそう。


 慰めの言葉を掛けようとした時だ。

 俄かに廊下が騒がしくなり、アリシアが配膳室に駆け込んで来た。

 彼女は配膳室の状況を一目見るなり、事情を察した様子だった。一瞬、息を飲んだが触れることはなく、本来の目的を告げる。


「マリー様が産気づいたの。今、警備の方に宮廷医を呼びに行ってもらっているわ。公爵夫人、母の差配でお産の準備が始まっています。どうか、お手をお貸し下さい。厨房の方々は湯を沸かしてちょうだい。たっぷりね! 貴女方は清潔なリネンを用意して!」


 エリザベスとアデレード、そして配膳室の女中達にアリシアは指示を出してゆく。厨房係は夕食の下拵えを放棄し、鍋を洗って水瓶から汲んだ水を火にかける。女中達はアリシアと共にリネン室へと走って行った。

 エリザベスも立ち上がり、配膳室を走り出ようとした。だが、アデレードが床に座り込んだまま動けずにいる。

「公爵夫人、一緒にマリー様のもとへ」

 差し伸べるエリザベスの手を、アデレードは横に頭を振って拒絶する。


「わ、私は行けません。私は自分勝手な理由で、あんなに姉を大事にしてくれた弟の娘を、手に掛けようとしたのです。そんな人間が、神聖なお産の場に居て良いわけがありません」

「公爵夫人」

「お願い。私のことは放っておいて。私は、私は……!」

「アデレード様!」

 エリザベスは声を張って、床に膝を着いた。小瓶を抱え込むアデレードの手を強く握る。


「そう思うのであれば、どうかマリー様のお側に居てあげて下さい。マリー様はグルンステインに戻ったばかりで、心から頼れる人が少ないのです。国王陛下も王太子殿下も、お産の場に入ることは出来ません。陣痛で苦しむマリー様の手を握り、励ましの声を掛けることが出来るのは、アデレード様だけなのです!」

 涙に濡れる深い青い瞳を真っ直ぐに見据えた。

 アデレードは、戸惑いの表情を浮かべながらも、手の中の小瓶に視線を落とす。


「アニエス様のことは伯爵様が必ず解決します。ですから、アデレード様。どうか、貴女様も自分が今、何が出来るのかを御考え下さい」

 諭すように、エリザベスは優しくアデレードに語りかけた。

 アデレードは、もう一度小瓶を握り締めて瞼を閉じる。大きな涙が一粒、目尻から流れ落ちた。


「エリザベス嬢、貴女にお願いがあります」

「はい」

「シュトルーヴェ伯爵を、ここに呼んで来て下さい。伯爵には、デュバリー治安維持軍団長を動かすように、指示を出して欲しいのです」

「アニエス様のことでしたら……」

 アデレードは横に首を振った。

「伯爵に夫の足止めをお願いしたいのです。その間に、王宮庭園のグラッブベルグ公爵邸を捜査して下さい。夫の侍従、御者、アニエスの侍女、全員を取り調べて欲しいのです。屋敷の捜索は、公爵夫人であり、フィリップ十四世の娘である、私アデレード・アルフォンシーヌ・グラッブベルグが許可します」

 何かしらの、覚悟を秘めた瞳だった。

 エリザベスは頷き、立ち上がった。アデレードも伸べられた手を取り、立ち上がる。


 配膳室を出る際、アデレードが問うた。

「ねえ、私は、本当にマリーの手を握っても良いのかしら」

 打って変わって不安そうなアデレードに、エリザベスは微笑んだ。

「勿論です」

 その笑顔に、アデレードは鼻の頭を赤くして、苦しげに、眩しそうに両目を細めたのだった。



     *   *



 乱暴な足音と共に、フランツが大隊長執務室に現れた。

 勢いよく開いた扉が、戸口付近の書棚で調べ物をしていたドンフォンを横殴りに叩きのめしたのを見て、ローフォークは思わず立ち上がる。


 室内に押し入ったフランツは、跳ね返った扉の陰から頬を押さえて蹲るドンフォンが現れたのを気にも止めず、ローフォークに緊急の命令を下した。

「郊外のグラッブベルグ邸へ行け! そこにアニエス様がいる可能性がある!」

「⁉︎ どういうことだ?」


「王宮庭園で動きがあった。アデレード様が、さるに毒を盛ろうとしたんだ。幸い未然に防げたが、アデレード様はその貴人を殺害すれば御令嬢を返すと唆されていたようだ」

 毒をアデレードに渡したのは、グラッブベルグ公爵だ。

 公爵は現在、王宮の離宮の一室で近衛連隊によって拘束されている。王宮庭園の本邸には第一連隊の捜査が入り、毒を入手したであろう日の公爵の詳細な動きを使用人から聞き出した。

 そこで浮き上がってきたのが、郊外の公爵邸なのだ。


「敷地の構成も邸内の間取りも、お前が一番詳しい。シャテルに馬を用意させている。第三連隊の捜査に協力してくれ!」

 言い終わるまでに、ローフォークは執務室を駆け出していた。

 庁舎の正面玄関では、馬具を着け終えた愛馬がローフォークを待ち構えていた。

「お気をつけてっ」

 シャテルの見送りの声に手をあげて、ローフォークは馬腹を蹴った。


 郊外のグラッブベルグ邸は、第三連隊によって包囲されていた。

 正門では士官と屋敷の私兵が揉み合っている。第三連隊は、連隊長自らが指揮を執っているようだ。

 ローフォークは強引に人垣を掻き分け門前に立つと、私兵が止めるのも構わず腰から拳銃を抜き、錠前に向かって至近距離で撃ち放った。

 耳を劈く高い音が響き、破壊されて捻じ曲がった錠が地面に落ちた。すかさず、第三連隊が私兵を数で押し除け、敷地に雪崩れ込む。


「公爵の書斎は本邸の二階だ。見られたら拙い書類は書架後ろの隠し棚にある。第三連隊長殿!」

 部隊を率いて本邸内に乗り込もうとした第三連隊長を、ローフォークは引き止めた。

 アニエスがいるとしたら、敷地奥の別棟だ。

 そこでは過去、様々な悪夢が繰り広げられてきた。だからこそ、第三連隊を案内して走るローフォークは平静ではいられなかった。

 この誘拐事件の犯人に心当たりがあるからだ。

 アニエスを拐い、この屋敷で公爵と取引きをするような図太い神経を持った人間など、奴しか思い浮かばない。


 オリヴィエ・マートン。


 恐らく、本名は違う。

 幼少期よりグルンステインに潜入し、軍人となり、グラッブベルグ公爵の手駒として活動する中で、知り得た情報を国外の同胞に流していた男だ。

 公爵に近付いたのは、より高度な機密を獲る為か。それとも、グラッブベルグ公爵の栄達の闇に勘付いて、利用出来ると踏んだからか。


 いずれにせよ、アニエスを拐った犯人は、グラッブベルグ公爵にとって最も価値のある人間が誰かを知っていた。そして、公爵は脅迫に黙って従わざるを得ないほど、アニエス以外にも弱みを握られている状態なのだ。

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