第十一話〜⑤

     *   *


「ねえ、エリザベス。貴女はどうしてシュトルーヴェ家に引き取られたの?」

 そのように問われて、エリザベスは顔をあげた。


 昼下がりのこと、午後のバルコニーで読書をしていたマリーは、それまで読んでいた本を閉じて膝の上に置いた。

 この日は朝から、アン王女は婚礼に向けて宮廷内の大聖堂で、改宗の儀式を行っていた。その為に対等な立場で会話の出来る相手がおらず、午前からずっと読書に耽っていたのだ。


 さすがに飽きてしまったのだろう。

 傍らで紅茶を淹れていたブロンシュを手伝って、マリーが希望する菓子を取り分けていたエリザベスは、突然の質問に戸惑った。


 この日、エリザベスは軍服ではなく、アリシアが急いで掻き集めて運び入れた、少年だった頃のフランツのお下がりを着ている。マリーもアンも、エリザベスの男装を大変喜んでいるからだ。

「構いません。私の質問に答えてちょうだい」

 言葉に詰まっていると、平民が皇族と口をきくことに躊躇いがあると思ったのだろうか、マリーはそのように言い、エリザベスはさらに困ってしまった。


 ブロンシュを見上げると、若草色の瞳を細めて優しく微笑んでいる。

 彼女の助けを期待して、エリザベスは経緯を話すことに決めた。

 出来るだけ、簡潔に。

「押し込み強盗に、遭ったからです」

 マリーは深い青い瞳を大きく見開いた。


「その強盗団は、王都の治安維持軍がずっと追っていた人達でした。フランツ様──第二連隊のシュトルーヴェ中佐が、その情報を事前に掴んで駆け付けて下さったのですが、間に合わなくて……。私はその犯人の顔を見ていたので、そのままシュトルーヴェ家に事件の証人として保護されたのです」

「貴女だけ? 御家族は?」

 エリザベスは小さく微笑んで横に首を振った。

「そう……」

 呟くと、マリーは膝上の本に視線を落とし、表紙を撫でた。


「ごめんなさい。事情があるとは知っていたけれど、そんな辛い理由だったなんて……」

「殿下が謝られることではありません」

「いいえ。軽々しく訊いて良いことではなかったわ。それなのに、答えてくれてありがとう」

 マリーは、大きな腹を抱えて立ち上がった。

 ブロンシュに助けられて歩み寄ると、おもむろにエリザベスを抱き締める。


 驚きふためくエリザベスの耳に、マリーの震える懺悔が届いた。

「家族を失うことがどれだけ辛く哀しいことか、分かっているはずなのに。浅はかな私を許してちょうだい」

 このカラマンの皇女は、十二年前の暗殺事件の目撃者であった。

 目の前で繰り広げられた惨劇は、幼かったマリーから当時の記憶を奪うほど、凄惨な有り様だったと聞く。


 両親を喪失した哀しみと眼前で起こった惨事への傷心を、心許す人々と共に充分に消化出来ぬまま、異国に送り出されたのだ。

 エリザベスがそうであるように、時折見る悪夢や、ふとした拍子に襲い掛かる苦しみを、きっと一人で耐え抜いたのだろう。

 そう思うと、エリザベスは思い掛けず、マリーを抱き締め返していた。


 と、お腹に小さな衝撃があって、エリザベスは慌てて身を離した。

 マリーを見ると、彼女は潤んだ瞳を微笑ませて、突き出た腹を撫でた。エリザベスとブロンシュが見ている前で、胸の下から流れるように下がる布地越しにマリーの腹の形が変わる。

 エリザベスが驚いていると、マリーはクスクスと笑った。

「最近、特によく動くの。これは、きっと足ね」

「分かるのですか?」

「なんとなく、よ」


「でも、殿下。そこに足があるということは、赤ちゃんはお腹の中で逆さまになっているのではありませんか? 赤ちゃんは苦しくはないのでしょうか」

 グイグイ動くマリーの腹を凝視しながら真剣に質問を呈する少女に、「まあ、エリザベス。赤ちゃんは頭から出てくるのよ。それが正常なの」と、ブロンシュが教えてくれた。

 エリザベスは驚愕の表情で二人を見上げた。

 その表情があまりにも可笑しかったのか、マリーとブロンシュは顔を見合わせて微笑んだ。


「旅の途中、何度もこの子は母のお腹を蹴ったわ。しっかりしろと言われているみたいで、だから私は気丈でいられたの。この子の為にも、皇妃には負けられない。私は必ず、この子をレオナールに抱いてもらいたいの」

 お腹の中にいるのは、大人の都合で結婚させられた夫の子だ。それでも愛おしく撫でる姿は、夫婦の間に政略を越えた絆があることを物語っていた。


 ふと、マリーは表情を曇らせる。

「彼女も、結婚を楽しみにしていたわ」

「彼女?」

 エリザベスは首を傾げた。

「私の侍女官だった女性よ。ロイソン子爵の御令嬢なの。ロイソン子爵は知っているかしら。確か、海軍の軍人だったと記憶しているのだけれど」


「ロイソン子爵でしたら、今はもう退役なされて領地にお戻りになっています。いずれ親戚から養子をお取りになって、家督をお譲りになるおつもりのようで……」

「そう、簡単にお会いすることは出来ないのね」

 そこで、マリーはハッと顔をあげた。


「そうだわ。ローフォーク子爵家はどうなのかしら。確か、子爵家は代々王家の守護を担っていたわ。子爵の奥様はアデレード伯母様の侍女官長だったはず。今でも伯母様の侍女官長でいらっしゃるのかしら」

 マリーは、暗殺事件後の諸事情を知らないのだ。

 ロイソンのことも含め、事件を切っ掛けにローフォーク家が王宮庭園を追放されたなど、微塵も思い付かないらしい。


「ローフォーク子爵家は……」

「先代子爵夫人は、今は王宮庭園には居られません。アデレード殿下が御結婚されて御役目を終えた夫人は、王妃ヴィクトリーヌ様の侍女官長であられたシャイエ公爵夫人と共に、シャイエ領でのんびり御過ごしです。現在、ローフォーク家を継いでおられるのは御次男様ですが、お仕事の都合もあって王都に住まいを移されておりますの」

 エリザベスに代わって、ブロンシュが澱みなく答えてくれた。


「そう、そうだわ。私、お祖母様の葬儀にも出られなかった」

 マリーは愕然としていた。


「では、今は近衛連隊長はどなたがお務めなの?」

「ローフォーク家の一門のかたで御座います。御次男様はまだ子供でしたので」

「けれど、今はもう大人になっているでしょう? 王都で暮らしているということは、今の御当主は近衛連隊に御勤めではないの?」

「ローフォーク子爵は治安維持軍の第二連隊に勤務しております。私の夫フランツの下で大隊長を任されておりますわ」

「そんな……」


 皇女の手を取り椅子に座らせると、エリザベスはマリーに訊ねた。

「どうして、御二人にお会いしたいと思われたのですか?」

「御礼を言いたかったの」

「御礼?」


「ええ。私、十二年前のことは断片的にしか覚えていないの。だけど、私とお兄様が在るのは、ロイソン子爵令嬢とお父様の護衛隊長がいてくれたからよ。二人が守ってくれたから、私は生きているの。その御礼を言えないままだったから……。ローフォーク子爵となら、お話しする機会があると思っていたけれど、王宮に御勤めでないのなら、無理よね」

 私は隠れていなくちゃいけない身だもの。

 マリーは消沈して項垂れてしまった。


 そんなマリーをどう慰めて良いのか分からずに、戸惑う。

 その時、中庭に面するバルコニーに、アリシアが紙の束を抱えて現れた。彼女の背後には、王家御用達のモード職人と何種類もの布地を運ぶ宮廷女中が続く。

 祖国への亡命に際して、マリーは身軽さと速さを最優先に考えていた。それ故に身の周りの物は最低限しか持ち合わせておらず、これからのグルンステインでの暮らしに不便であろうと、フィリップ十四世が職人の手配を命じたのだ。

 これに瞳を煌めかせたアリシアが、徹夜で夢中で書き上げたデザイン画をマリーに見せたところ大いに気に入られ、同席していたアンも揃いで数着を仕立てることになった。


 アリシアと彼女の背後の彩り豊かな布地やレースを目にして、マリーはやっと笑顔を取り戻した。

 マリーがアリシア達とデザイン画を元にあれこれ生地を選んでいると、大聖堂での儀式を終えたアンがマルティーヌ達侍女官と共に戻って来た。アンの隣にはシャルルもいる。


 留守中に何も無かったか、とマルティーヌに訊ねられ、マリーがローフォーク達に会いたがっている事を報告した。するとマルティーヌは頬に手を添えて、僅かな時間言葉を途切った。

 マリーの言動の意味を思案しているようだ。

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