第十一話〜④

     *   *


 その日の夕方、グラッブベルグ公爵の姿は王都郊外に構えた別邸にあった。

 公爵は黄昏の庭を、焦燥を含んだ足音を響かせて歩く。

 やがて、庭の奥まった場所で、広葉樹に囲まれてひっそりと建つ二階建ての小さな別棟に到着した。


 ノッカーで扉を打つと、ややあって使用人が顔を見せた。

 格式の高い公爵家には似つかわしくない、無精髭の初老の男だ。

 十年余りを下男として働いていた男は、その以前から公爵の裏仕事の手駒だった。下男は今まだ夕刻に差し掛かった時間帯にも拘らず、酒の匂いをプンプンさせながら、にやにやと品性の欠片もない卑しい笑みを浮かべて公爵を出迎えた。


「お一人で?」

 訊ねる下男の声に公爵を敬う気配は見られなかった。

 公爵はいとわしい表情を浮かべて下男を睨む。それを見て、下男はまばらに歯の抜けた口を歪めて、やはり下品に笑った。

「どうぞ」

 下男は公爵を小さな邸の中に招じ入れた。


 壁際の階段を二階へと昇り、右手の廊下を奥へと進む。

 やがて、下男はある一室の前で立ち止まり、扉を叩いた。

「旦那、公爵様が来ましたよ。旦那?」

 下男の呼び掛けに僅かな時間、沈黙が続いた。

 だが、じきに人の動く気配がし、内から扉が開いた。籠っていた不衛生な臭気が廊下に流れ出て、公爵は鼻と口を抑えた。


 細く開けられた扉の隙間から見える部屋内は暗い。

 眉間に皺を寄せ、公爵は慎重に扉を押し開いて室内に一歩踏み入った。鎧戸を閉め切った部屋は暗く、澱んだ空気が漂っている。部屋の隅に置かれた一本の灯火だけが、頼りなく視界の確保を助けていた。

「お父様……」

 闇の中に、ぼんやりと見覚えのある少女が浮かびあがる。

「アニエス‼︎」


 公爵は下男を押し退けて腕を伸ばした。アニエスも公爵に手を差し出すが、互いの指先が触れる寸前、小さな身体は横に引き倒された。身を庇う余裕もなく、アニエスは床に落ちて悲鳴をあげる。公爵が青褪めて駆け寄ろうとした時、下男によって背後から羽交締めにされた。

「離せっ」

 公爵は暴れるが、通常から力仕事をしている下男に敵うはずもない。


 倒れたアニエスが啜り泣く。

 そんな少女の身体には、腰にロープが括り付けられていた。公爵の目の前で、小さな身体がズルズルと床を滑って、部屋の陰内に消えてゆく。

 公爵は身を震わせて、呻いた。

「……お前の言った通りだ。マリー皇女が帰って来た……」

 部屋の奥の暗がりから、アニエスの泣き声に紛れて圧し殺した笑い声が聞こえてきた。

「儂に何をさせたい!」

 公爵は苛立ち、叫んだ。

 その問いの答えか、部屋の奥から小瓶が転がってきて、公爵の靴先で止まった。


「マリーの食事に混ぜろ」

「どうやって……!」

「そんなもん自分で考えろよ。稀代の名宰相様なんだから。自分でやるのが嫌なら、あんたの周りには疑いを持たれずにマリーに近付ける奴がいるだろう。そういう奴にやらせれば良いんだよ。第二連隊の連中にやった時と同じようにな」

 公爵の表情は強張った。

 そのことを知っているのは、ごく一部の使用人だけだ。


 昨年の十月、グラッブベルグ公爵は自領で起こった銃の密輸事件の所為で窮地に追い込まれた。その密輸事件の犯人とされたのが、政敵シュトルーヴェ家が保護する小娘の会社だったからだ。

 シュトルーヴェ家を追い落とそうとする者達の、伯爵家への中傷から始まった噂話は、瞬く間に同年の初夏に起こった強盗殺人事件に辿り着き、その真相を掘り返そうという動きに変化していった。

 結局、王都でレステンクール人が逮捕された事が切っ掛けとなり、銃の密輸だけでなく、トビアスやビウスでの噂話も、国内の混乱を狙った復讐者達の策謀という事で収まりを見せた。

 だが、同時に優秀な手駒も複数失った。

 そのいずれもが、公爵の足元を掬う秘密を握っている。


 手駒の中にレステンクール人が潜んでいたと知った時には、生きた心地がしなかった。また、ある意味で一番のお気に入りだったローフォークの離反は、人質の母親をまんまとシュトルーヴェ伯爵の陣営に奪われた結果だ。


 公爵の不運は何もかも、あの日に小娘に逃げられてから始まった。

 ローフォークが小娘を見逃した所為なのだ。


 その腹いせに、公爵は息子であるベルナールに毒入りケーキを運ばせた。

 致死量ではないが、まともに体内に入れば数日は苦しむことになる量だ。小娘などはあの世に逝ってくれても構わない。そして、ベルナールに毒を運ばせた事で、ローフォークにとって傷付けられたくない人物が、まだこちらにはいるのだと思い知らせる事が出来た。

 最終的に菓子を食べたかまでは公爵には分からない。

 だが、以降に何の情報も漏れ出てこなかったのは、第二連隊の連隊長が上手く情報統制をしたからか、毒の混入に気付き食さずに廃棄したか、どちらかだ。


 クククッと圧し殺した声が公爵を嘲笑った。

「従弟でも、伯母でも、会えるならマリー皇女は喜んで会うだろ。心配すんな。元々、条件は揃ってんだ。上手く口に入りさえすれば、最後はただの事故で終わる」

 その言葉の意味が分かるだけに、陰内から届く言葉に総毛立つ。


 公爵を羽交締めにしていた下男が、腕の力を弛めた。

 しかし、公爵は突っ立ったまま、いつまで経っても足元の小瓶を拾おうとしない。痺れを切らした下男が拾い上げて、公爵の上着のポケットに押し込んだ。

 公爵の手が膨らんだポケットに触れて、異物の存在を確かめる。

 やがて、影の中から靴音が響き、声の主が公爵の前に姿を現した。

 戸口から室内に差し込む夕陽が、男の特徴的な朱殷色の癖毛をさらに緋く不気味に染める。


 オリヴィエ・マートンは、青褪める公爵に顔を寄せて囁いた。

「ちゃんと出来たら御褒美をやるよ。とっておきの情報がある。これが明るみになれば、グルンステインはカラマンとの戦争、待った無しだ。それを取引材料に、あんたはフィリップ十四世を操って、この国をもっと好きに出来る。なんなら、ベルナール坊ちゃんを国王に出来るかもしれないぜ」

「……その情報が陛下を脅すことになるのなら、陛下は儂を始末なさるだろう。それに、シュトルーヴェ伯爵が黙っているはずがない」


 ローフォークもまたそうだ。

 どんなに虐げても、あの小僧は王家への忠誠心を失わなかった。

 もし、自分が国王を脅迫することになるのなら、ローフォークは己の身など顧みず、グラッブベルグ公爵に刃を向ける。それがきっかけで家が取り潰されようとも、自身が死を賜ろうとも、構わずに。


「帝国で継承問題が起こっていることは知っているだろう? カラマンの皇妃があんたを必要としている。自分の皇子の御世に帝国を繁栄させたいんだろう。あんたの政治手腕を買っているんだよ」

 そう言って、マートンが懐から取り出したのは、カラマン皇妃の署名が入った手紙だ。手紙には、マリーと子を殺害した暁には、ベルナールのグルンステイン王即位への推挙と、自分の皇子の妃にアニエスを迎えると記されていた。

「お前は……一体、何者なのだ……」

「俺は、俺だ。俺の本質はあんたも知っての通りだよ」

 クククッとマートンは笑った。


「やるか、やらないかは、あんたの自由だ。選ばせてやるよ。けど……」

 マートンは握っていたロープを強く引いた。足元でアニエスが倒れたので、強引に立たせて細い首にロープを巻き付けた。

 両端を掴み、引き絞る振りをして、公爵を見上げる。


「俺があんたに与えた選択肢は、『マリーを殺してアニエスを生かす』か『マリーを生かしてアニエスを殺す』か、だ」

 ううっと、アニエスの顔が引き攣る。

 飴色の瞳から止め処なく涙が溢れ、身体を震わせながら汚れたペチコートを握り締めた。溺れているかのように、はくはくと短く早い呼吸を繰り返した。

 お父様……。

 助けを求める声も、幽かだ。

「分かった。やる。必ずやる! だからその手を離せ!」

 公爵は苦渋に歪んだ顔で何度も頷いた。


 マートンは両目を細めて兇悪に微笑む。

 ロープから離した右手で廊下の奥を指差した。そちらはこの廊下の突き当たりで、壁には手入れを怠り埃を被った絵画があるだけだ。だが、その壁の向こうは、王都リリベットを挟んで王宮庭園がある。王宮庭園の中心には、マリーが匿われた宮殿があった。

 公爵は、喉を鳴らして唾を飲み込んだ。

「行けよ」

 マートンに命じられ、公爵は哀れな娘を残し、下男に払われるように邸を出て行った。


 公爵が去った邸の中で、アニエスは声を殺して泣き続ける。

 そんな様子を退屈な思いで眺めていたマートンは、公爵を送り出した下男が戻って来ると、ワイン樽、ズタ袋、その他諸々の小道具と馬を一頭用意するように言った。

「やっちまうんですか?」

 そう問う男に、マートンは啜り泣くばかりのアニエスを一瞥し、両目を細めて笑って見せた。

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