ルイ・フランシス ⑨
九
年が明けて、瞬く間に春を終える。
マルティーヌの中に新たに芽生えた命は順調に成長し、初夏を迎える頃には腹部はすっかり大きく膨らんでいた。
予定は七月の中旬ではあったが、男爵領にはすでにラピエール伯爵家から義母が駆け付けてくれている。マティルダを出産した時のことを思うと、夫人も心配なのだろう。
ロザリーヌとは違い、意地の悪いことを言わない母方の祖母が大好きなマティルダは、「お祖母ちゃま、お祖母ちゃま」と四六時中、義母にくっ付いて歩いている。今日もお気に入りの人形を片手に、生まれてくる赤ん坊の為に一緒になって沐浴の練習をしたり、用意したおしめを赤ん坊の部屋に運んだり、懸命に『姉』という存在になろうと頑張っていた。
そんな娘の姿を眺めながら、ルイは少々複雑な思いでいた。
マルティーヌの妊娠を告げた時、マティルダは素直に喜んだ。だが、「マティルダがいても赤ちゃん出来るの⁉︎」と驚いた顔は、ロザリーヌに投げられた言葉に、ずっと囚われていた証拠だ。
その後も喜びの合間に不安が訪れるようで、時折、ルイやマルティーヌに縋り付いて「マティルダはどこかに連れて行かれちゃうの?」と、泣きながら訊ねて来た。
その都度、ルイもマルティーヌも娘を抱き締めて慰めた。
七月に入ってすぐに、マルティーヌが産気づいた。
予定よりも僅かに早い。この時、ルイは要塞に詰めていた。
連絡を受けて休暇を前倒しにし、急いで駆け戻った時にはすでに出産は終わっていた。二人目だからか、比較的すんなり出産を終えることが出来たようだ。マルティーヌは寝台の上で、ルイを笑顔で出迎えてくれた。
妻を労っていたルイのもとに、産湯に浸かり綺麗になってお包みに包まれた赤ん坊が連れてこられた。
二人目の子は、明るい金髪に翠の瞳の男の子だ。
「あなたに似ているわ、ルイ」
疲れ切った掠れ声で、マルティーヌは愛し気に囁いた。
腕に抱き、寄せた胸元に、皺くちゃの赤ん坊の温もりを感じる。赤ん坊に触れた場所から、ルイの胸の内側に愛しいという感情が滲んで広がる。
「名前は考えてくれました?」
「ああ。『フランツ』という名を付けたい。シュトルーヴェ家の初代の名だ」
グルンステイン王家が地方の一豪族から、王国の王家へと栄達を遂げるにあたって、初代は武勇で活躍した。
その功績を認められてシュトルーヴェの土地に封じられ、初代シュトルーヴェ伯爵となった先祖の名がフランツであったのだ。それ以降、シュトルーヴェ家では時々フランツという名の当主がいた。
初代は大らかな性格で、多くの人に好かれる人物だったと語り継がれている。我が子にも、そのような人になって欲しいという願いがあった。
「可愛いなあ」
小さな命を抱き、ルイは呟きを溢す。
マティルダを初めて腕に抱いた時もそうだった。自分の息を掛けるのも憚れるほど、腕の中の赤ん坊は穢れを知らない。無意識のうちに声は囁くように小さく、頬を撫でる指先は産毛に触れるだけで精一杯だ。
「ルイ」
マルティーヌの腕が伸びて、いつの間にか溢れていた涙を、冷えた指先で優しく拭ってくれた。
「ありがとう、マルティーヌ。ありがとう……」
言葉が上手く出てこない。
それでも感謝の想いを伝えたいルイに、マルティーヌはオリーブ色の瞳を細めて微笑んでくれる。
その笑顔に、ルイの涙腺はすっかり崩壊してしまった。
腕の中のフランツに負けないくらい顔を皺くちゃにして、ルイはマルティーヌに抱き締められて泣いたのだった。
* *
アンリから手紙が来た。
二人目の誕生を報せる手紙を送ったばかりだったので、その返事というわけでは無さそうだ。
封を開けてみると、アンリの妻オーレリーが二人目を身籠ったという報せだった。心から喜ぶべき手紙だ!
嫡男であるクレールが生まれてから十年、アンリ夫婦の間にはなかなか次の子が出来る気配は無かった。アンリもオーレリーも、すっかり諦めていたところに、不意を突いて二人目が出来たのだ。
手紙の中のアンリの感激が目に見える。
「今年の暮れか年明けに生まれる予定なのね」
「すると、同期生にはなれないのか。少し残念だな」
それでも、めでたい事に変わりはない。
「アンリに御祝いの手紙を送らなくてはな」
「私からも、オーレリーに何か贈り物がしたいわ」
「それなら、近々商人を呼ぼう。その時にマルティーヌもマティルダも、欲しい物があれば注文をすると良い」
特に、マティルダは今年で五歳になる。貴族令嬢としての教育を始めなければならない年頃だ。そろそろ、きちんとした専用の食器を用意して、食事のマナーも学んだ方が良いだろう。
自分の名前が出たからか、マティルダは両親のもとへ駆け寄って来る。
フランツが生まれてからというもの、マティルダはお姉さん然とした、おませな態度が目立つようになっていた。今もハッと表情を変えて立ち止まったかと思うと、ペチコートの裾を摘んでしゃなりしゃなりと歩いては、ルイとマルティーヌの間にお行儀よく腰掛けた。
「お父様、マティルダは新しい御本が欲しいです。フランツに読んであげたいです」
言葉遣いも一変した。
ルイとマルティーヌだけでなく、使用人達も笑いを堪えるのに必死だ。マティルダだけが、澄ました顔でいる。
「マティルダは、きっとすぐに沢山のことを身に付けるでしょうね」
そう言ったのは、義母のラピエール伯爵夫人だ。マティルダと共にフランツの寝顔を眺めていた夫人は、孫娘の大人ぶった仕草に微笑んでいる。
「だって、もうこんなに上手に淑女の振る舞いが出来るのだもの」
マティルダがさらに得意気に胸を張った。
ルイ達はいよいよ我慢が出来なくなり、声を上げて笑ってしまった。
それから約半年後、一月八日にアンリ夫婦には次男が誕生した。
カレルと名付けられた男の子は、黒髪に濃紺の瞳というローフォーク家の特徴を受け継いでいた。顔立ちは、今は何とも言えないが、アンリに似ているだろうか。
カレルの誕生に際して、なんの悪戯か、ルイはオーレリーの出産に立ち会う羽目になってしまった。
シュトルーヴェ家の跡継ぎとして宮廷主催の新年の夜会に招待された翌日、男爵領に帰る為の挨拶にローフォーク家に顔を出したまさにその時、オーレリーが産気付いたのだ。
気付けば、ルイは馬に乗って王宮庭園から王都までを往復し、医師を後ろに乗せていた。
苦悶の呻きの中、一際高い悲鳴が屋敷中に響き渡り、ルイはビクリと怯む。だが、続く赤ん坊の産声に、アンリとクレール、そしてオスカーと顔を見合わせて、四人で抱き合って歓喜した。
生まれたばかりの赤ん坊を抱かせてもらい、やはり尊い命に心が震える。
そして、思った。フランツとこの子は、一体どんな人間関係を築くことになるのだろう、と。
きっと、年が変わらない二人は、ルイとアンリとはまた違う絆を結ぶことになる。ギュスターヴやオスカーとも違うのだろう。少なくとも、ルイはフランツの方がカレルを気に入るだろうという、根拠のない自信があった。
ルイ然り、ギュスターヴ然り、祖父のアルセーヌ然り、シュトルーヴェ家は何故か、みんなローフォーク家が好きだった。
「カレル、フランツと友達になってくれるか?」
すると、まるでルイの問いに応えるかのようにカレルは小さく頷いた。
勿論、偶然だ。ただの身動ぎがそう見えただけだ。
それでも、そんなことは分かっていても、ルイは嬉しくて堪らなかった。
* *
カレルが生まれた翌年、アンリの父オスカーは体調を崩した。
最初はただの風邪だと思われていたが、六十歳の身体は日増しに弱り、新しい一年が始まった一月のある日、朝の挨拶に部屋を訪れたアンリが寝台の上で静かに息を引き取っていた父を発見した。
連絡を受けて、ルイはマルティーヌと共に急ぎ駆け付けた。
王都郊外の教会で執り行われた葬儀に多くの人が参列したが、長らく仕えてきた王家の人々は参列しなかった。グルンステインの法律が特定の家臣の葬儀や結婚式に赴くことを禁じていたからだ。しかし、国王フィリップ十四世の名の下に『国家功労者勲章』の最高位勲章が送られ、共に棺に収められた。
棺の中で眠るオスカーは、昼寝でもしているかのように穏やかな表情だ。
胸の上で組まれた指は、子供の頃にルイの頭を撫でてくれた逞しさからは程遠く、沢山の皺が刻まれていた。
オスカーの妻はアンリが七歳の時に亡くなっている。ルイは覚えてはいないが、とても綺麗な人だったそうだ。オスカーは妻を大切にし、どんなに勧められても絶対に後妻を持とうとはしなかった。
オスカーの棺は、彼の妻の隣に埋葬された。
司祭の最後の言葉に目を瞑り、ルイは死者の冥福を祈った。
葬儀後、新年の祝祭と同時に、アンリはローフォーク子爵家の三代目当主となった。時を同じくして、王宮近衛連隊の副連隊長にも任命された。
オスカーの死後、近衛連隊の連隊長となったのはオスカーの甥だ。他家に嫁いだ姉妹の子でありローフォーク家の者ではないが、一門である。
アンリは年上の従兄の補佐をしながら、次の連隊長としての経験を積んで行くことになる。
新年祭から葬儀、そして叙爵と任命式を終えて、二月の始まりにようやくローフォーク家は家中が落ち着いたように見えた。
慌ただしい日々に多少なりと気も紛れたのだろう。北部の領地に戻らなければならないルイを、ローフォーク家の家族は笑顔で見送ってくれた。
そんな彼等の姿を眺めながら、ルイは葬儀後のアンリの言葉を思い出す。
オスカーの訃報を受けた時、ギュスターヴは着の身着のままローフォーク家へと駆け付けた。案内をされるまでもなくオスカーの部屋へと向かい、とうに冷たくなった手に触れて、静かに、ただ静かに涙を溢したのだそうだ。
ギュスターヴにとってのオスカーは、ルイにとってのアンリのような存在だった。華やかな王宮庭園の裏で蔓延る欲つくの悪事と企みに、幼い頃から幾度も巻き込まれそうになったギュスターヴの前に立ち、手を引いて導いてくれた兄だった。
岩のような頑固さと無粋な性格のギュスターヴを諌めることが出来るのも、フィリップ十三世亡き後はオスカーが唯一だった。
兄と慕った人の死は、ギュスターヴにとってどれほどの喪失を齎したのだろうか。
そして、もし自分がアンリを喪った時、父のように静かにその死を受け入れることが出来るのだろうか。
ルイは漠然と、そんなことを考えた。
九、終わり
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