ルイ・フランシス ⑦

     七


 ルイが男爵領へ戻って来られたのは、マティルダの誕生日の翌日だった。

 本来の勤務地である北部要塞に戻り引き継ぎを終えたルイは、身体を休めることもなく馬に跨り男爵領へと向かった。

 残暑の季節。夜通しかけて辿り着いた時にはすでに陽は高く昇り、明け方の涼しい空気もたちまち熱気となってルイを灼いた。


 太陽が中天からやや西に傾きかけた頃、やっとルイは家族の待つ領館に到着した。

 ルイの姿を認めた領館の門兵が一人邸に走り、前庭を通って館の玄関に着く頃には、使用人達が揃ってルイを出迎えた。

「あなた」

「マルティーヌ!」

 四ヶ月振りの妻との再会に感極まって、ルイは使用人達の前であるにもかかわらずマルティーヌを抱き締めて口付けた。


 使用人達は慌てて目を逸らすが、若い女中などは黄色い悲鳴を上げつつ、ちゃっかり凝視している。

「あ、あなた、ルイ。使用人の前です」

 息継ぎに唇を離すと、マルティーヌはすかさずルイの口に手を当てて抗議をした。

 ルイはその手を取り、手のひらにも口付ける。

「うん。知ってる」

「こういった事は、人前でするものではありません」

「良いじゃないか。俺達は夫婦だ」

「夫婦でも、です!」

 狼狽える妻が初々しい。ルイはマルティーヌの細い腰に回していた手を頬に当てて、オリーブ色の瞳を見詰める。


「会いたかった、マルティーヌ」

 恥じらいの訴えなどお構いなしのルイに見詰められ、マルティーヌは頬を染めて俯いた。

「もう少し、節度を持って行動して下さいな」

「無理だ。マルティーヌが魅力的過ぎる」

「もう、揶揄わないで下さいまし!」

 真っ赤になって怒る顔も可愛らしい。

 ルイはもう一度口付けて、マルティーヌを抱き締めた。

「ところで、マティルダは?」

「……マティルダはお昼寝中です」

 マルティーヌは少し困った顔で答えた。


     *   *


 愛娘の部屋に行くと、マティルダは侍女に付き添われて眠っていた。

 小さな顔の小さな睫毛や柔らかい頬に残る涙の雫に触れて、ルイは愛しげに溜息を吐いた。

「昨日は頑張って泣かずにいたのですよ。貴方が戦地から引き揚げたと聞いて、『今日は帰って来るか、明日の朝にはいるか』と、喜んでいたのです。『お誕生日だから、神様がお父様を自分のところに返してくれた』と」

 ところが、わくわくして早起きした今朝、父はまだ帰っていないと知って、マティルダは愕然とした。


 それでも、朝御飯の後には来るかもしれない、お昼御飯は一緒に食べられるかもしれないと、寂しそうにしながらも、誕生日に届けられた人形を着せ替えて遊んでいた。

 だが、時計の針が刻一刻と十二時に近付くに連れて口数が少なくなり、女中に昼の声掛けをされた瞬間に泣き出してしまった。

 マティルダは、『御飯いらない! お父様と一緒に食べる! あっちに持っていって!』と、今までに見たことの無い癇癪を起こして泣き喚いた。ルイの帰宅の報告を受けた時、マルティーヌはそんなふうにして泣き疲れて眠ってしまった娘に付き添っていたのだ。


「……そうか」

 娘の想いがいじらしく、ルイは涙の跡の残る頬にキスをした。

「悪いことをしてしまったな。もっと早くに要塞を出れば良かった」

「お仕事ですもの。仕方ありません」

 愛娘の誕生日に間に合うように帰国の希望を出していたが、どういうわけか許可がなかなか降りなかった。帰国をしたらしたで、職務上の都合で時間を取られてしまったのだ。


「だけど、休暇をもらえた。二ヶ月だ。その間は毎日一緒にいられる。マティルダも四歳になったし、旅行にでも行こうか」

「久し振りに、王都に行くのも良いかもしれませんね。ローフォーク家のお二人にも会いたいわ。この子の紹介もしたいし」

「そうだな。あ、そういえば……」

 ルイはあることを思い出した。


「俺、中佐になったよ」

 と、軍人としては最も大事な昇進の話をオマケのように報告する夫に、マルティーヌは苦笑したのだった。


     *   *


 王宮庭園のシュトルーヴェ家には、年に一度、ルイだけが義務として帰っている。その年の収支と領地民の暮らし振りを、父ギュスターヴに報告するのが目的だ。


 とは言え、一年の殆どを北部要塞で過ごしているルイには、領地や領民の日々の変化など詳細に分かりようもなく、帳簿に記載された数字や、代わって管理をしている家令、またルイの為に領民達と積極的に交流を行っているマルティーヌから得られる情報を告げているだけに過ぎないが。

 自分達が旅行の途中で、その目的がアンリ夫婦に会う為だったとしても、王宮庭園にまで来ておいてシュトルーヴェ家に寄らないわけにはいかない。数日、ルイ達はシュトルーヴェ家の邸に泊まる予定になっていた。北部の男爵領に移ってから四年振りのことだ。マティルダに至っては、生まれて初めて父方の祖父母に会うことになる。


「中佐になったそうだな。新たな役職には就けたのか?」

 報告書に目を通しながらギュスターヴが言った。

「いいえ」

 感情の籠らない素っ気無い返事に、ギュスターヴは表情を変えることなく、数秒、一瞥しただけだ。

「御期待に添えず、申し訳ありません」

「そうだな」

 嫌味のつもりで付け足した言葉を、一蹴された気分になった。

 ルイは苛立ちを含んだ溜息を吐く。


「父上が二八歳の時は大佐でしたか。アンデラとの国境部隊で連隊長をお務めだったと記憶していますが」

「准将で要塞司令官だ。碌に覚えてもいないことを口にするな。恥をかく」

 その言い方に頭に来たが、確かに知ったかぶって間違えたのはこちらなので、ルイは無言で返した。


 暫し、報告書を捲る音だけが書斎に響いていたが、再びギュスターヴがルイに話し掛けた。

「最近、カノヴァス公爵家からの接触はあるか?」

 不意を衝く問いに、ルイは目を丸めた。

「どうなんだ」

「……いいえ。少なくとも、私には直接は。マルティーヌからも何も聞いていません。カノヴァス公爵家が、何か」


「あの家に男児がいるのは知っているな」

「まあ、従兄弟ですから。確か、今年で長男が八歳で、次男が六歳……」

「三男は五歳だ。歳の頃はどの子も釣り合う」

 そこで、ルイは青褪めてギュスターヴを見た。

 ギュスターヴもまたルイを見ており、寄ってないことの無い眉間の皺がいつもよりも深く刻まれていた。

 母ロザリーヌが、早くもマティルダの結婚相手を捜しているのだ。


「正確な情報では無い。相手が必ずしもカノヴァス公爵家の者とも限らん。だが、来客の際にそういった話を度々していると、使用人から報告があった」

 ルイは長椅子に座った状態で頭を抱え込んだ。

「先程も言ったが、正確な情報ではない。だから、お前も良く調べてから行動しろ。ただ……」

 ギュスターヴは報告書と帳簿を閉じて、ルイに突き出した。

「打てる手は、先んじて打っておけ」

 父の手から帳簿類を受け取り、ルイは頷いた。


 やはり、この家は嫌いだ。

 ただ苦いだけの落胆が、ルイの心に絡み付いて離れなかった。


     *   *


 翌日、予定を早めてルイ達は王宮庭園を発った。

 一刻も早く、ロザリーヌからマティルダとマルティーヌを引き離したかったのだ。


 マルティーヌには昨夜の内に事情を説明した。

 やはりマルティーヌにもカノヴァス公爵家からの接触は無く、恐らくロザリーヌは密かに全ての段取りを整えてから、伝えるつもりだったのだろう。もしかしたら、伝えることすら考えていないのかもしれない。

 それさえも確かでは無いが、あの母ならやりかねないと思えるのが悲しかった。

 王宮庭園の屋敷にいる間、ロザリーヌはマティルダにとても甘い、優しい祖母だった。息子夫婦は憎くても、やはり孫は可愛いものかと思い、マティルダもすぐに懐いたので一安心していたが、このような魂胆が裏にあったのでは、傍には置いておけなかった。


 男爵領へ帰る馬車の中で、マティルダは不安そうに俯いていた。御喋りの好きな娘がずっと無言でいることが不思議で、もっとここに居たかったのだろうかと思い言葉を促してみると、マティルダは眉を下げてモジモジしながらこう問うた。

「マティルダは遠くに行っちゃうの?」


「いいや。みんなでお家に帰るんだよ。どうしてそんなことを聞くんだい?」

「だって、お祖母様がマティルダは遠くに行くのよって言ったから」

「?」

 意味が分からず妻とキョトンとしていると、マティルダはさらに言った。

「お祖母様がね、お父様とお母様に赤ちゃんが出来ないのは、マティルダがいるからだって教えてくれたの。マティルダが早くお祖母様の決めたお家に行けば、お父様とお母様には赤ちゃんが出来るんだって。一つのお家に子供は二人もいたらダメなんだって。だから、マティルダはお家から居なくなって、遠くに行かなくちゃいけないんだって」

 絶句した。

 なんという、とんでもないことを吹き込んだのか!


 あまりのことに唖然としていると、ルイが怒ったと思ったのか、マティルダは旅行の為に仕立てたコートの裾を握り、嗚咽をあげ始めた。

「マティルダは、お父様とお母様と、一緒にいたらダメなの? 遠くに行って、いなくなっちゃった方が、いいの?」

 ルイとマルティーヌは堪らず娘を抱き締めた。


「マティルダ、それは違うよ。そんなのは嘘だ。お祖母様は間違っている。お前は

何処にも行かないよ。ずっとお父様とお母様と一緒だ」

「でも、でも、マティルダがいるから、男の子が生まれないって。ホントは女の子じゃなくて、男の子が欲しいのに、マティルダがいるから、お父様もお母様も困ってるって、お祖母様は言ってたよ。だから、マティルダは、他所のお家の子供になって、お父様とお母様を、助けてあげましょうねって」


『あのババア……!』


 母親をそんなふうに思ったのは初めてのことだった。

 その話をしている間、母ロザリーヌはどんな顔をしていたのだろう。そんな話をされた後で馬車に揺られたならば、小さな子供が不安になるのは当たり前だ。

 怒りと失望に二の句を継げないでいるルイに代わって、マルティーヌが娘の亜麻色の髪を撫でた。

「愛しているわ、マティルダ。こんなに可愛い貴女を、どうして遠くにやれるかしら。貴女がいなくなったら、お父様もお母様も、とても悲しいわ」

「お父様もだよ。お父様もマティルダが大好きだ。大人になっても、ずっとずっと、一緒にいて欲しいよ」


 マティルダが生まれた時、マルティーヌは出血が多く命が危うかった。

 最悪の事態を考える必要を医者にまで示唆され、気が気じゃなかった。だが、そんな中、お包みに包まれた小さな小さな身体をこの手に預けられて、その軽さに驚くと同時に、マルティーヌと出会った時のように、世界がさらに鮮明に輝いて広がったのを実感したのだ。

 自分が背負った命と、責任の重さに胸がいっぱいになった。

 マルティーヌの容態に焦燥感を抱きながらも、自分を見失わずにいられたのは娘がこの世に生まれてくれたからだ。


「愛しているよ、マティルダ。お前を何処にもやったりはしない」

 マティルダは、円らな翠の瞳から大粒の涙をぼろぼろと溢した。小さな手で両親の上着を掴み、二人の頬に交互にキスをする。

「マティルダも、お父様とお母様、大好き。愛してる」

 三人は揃って鼻の頭を赤く染めながら微笑み、きつく抱き締めあったのだった。


 


                        七、終わり。

 

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