ルイ・フランシス ②

    二


 早く大人になりたい。

 父にも母にも、誰にも傷付けられずに済む場所に行きたい。

 そんな『逃げたい』という想いは、親しみを抱く唯一の幼馴染を追いかける、強い動機になった。


 アンリが士官学校に入学してから、ルイは勉学に夢中になった。

 学校から戻れば屋敷の私兵達と訓練を行い、週に一度の安息日にはアンリの家に行き、一緒に乗馬や剣の稽古に勤しんだ。

 勉強が楽しかったわけではない。

 アンリに追い付きたいという想いが、ルイを研鑽に明け暮れさせた。

 学問や武芸の修練に打ち込んでいれば、父は満足して殴ってくることもないし、母にも付き纏われることもない、という事に気付いたからでもある。


 安息日ごとにアンリに会えるのは士官学校第一学年までが限界だったが、第二学年になってからも、アンリは可能な限りルイに会いに来てくれた。


 ルイが幼年学校の第四学年に達した時、アンリは士官学校を卒業して正式に王宮近衛連隊に入隊した。

 かつての近衛兵団は、今は名称を改め王宮近衛連隊となっている。大まかに近衛親衛隊と近衛警備隊に分かれていて、その二つの部隊を取り纏めているのが、アンリの父の二代目ローフォーク子爵当主オスカーだ。

 これからアンリは、父オスカーと共に力を合わせて王家を守護して行くのだ。

 入隊前に見せてくれた、近衛連隊の白群色びゃくぐんいろの爽やかな上着に純白の長ズボン、腰に提げた真っ直ぐのサーベルと儀礼用の左肩に留められた白い片マント姿がとても格好良く、ルイの翠の瞳には目映く映っていた。


 アンリは親衛隊に配属された。

 ローフォーク家の人々は、特別に希望がなければその殆どが親衛隊に配属される。親衛隊は近衛連隊の中でも、特に忠誠心の厚い人格者が求められる部隊だ。そこで良く働いたアンリは二年後には中尉に出世し、フェルディナン王太子の第二子フィリップ・エドゥアール王子の身辺警護に就いた。


 同じ年、ルイは士官学校へ入学した。

 士官学校での生活は、想像とは裏腹に驚くほど快適だった。

 訓練は厳しい。座学も成績の悪い者は徹底した補習を受けさせられ、学舎内でも宿舎内でも立ち居振る舞いに教官の目が光り、先輩達の理不尽なしごきも受けた。

 それらに不満はあったが、それだけだ。

 幼年学校時代には有り得なかった、同い年の少年達との交友が、そこにはあったのだから。


 伯爵家のクセに自分より成績が上だなんて生意気だと、侯爵家の子に殴られることもあった。それに殴り返して、取っ組み合いの喧嘩になり、共に練兵場を周回させられるなんてこともあったが、ルイにとってはそれすらも嬉しくて楽しい出来事でしかなかった。彼とは、それがきっかけで友達にもなれたのだから。


 第二学年となり、後輩が出来た。

 第三学年になると、縦割りで班を作り、いよいよ士官としての実践的な訓練が始まった。


 ルイは基本的に学校での成績は良かった。中でも、部隊を組んでの集団戦、後方での指示出しを得意とした。それを「前に出てこない臆病者の尻すぼみ野郎」と馬鹿にする者がいたが、そういった輩は大抵がルイの戦術でコテンパンに伸された連中だ。

 ルイは彼等からの罵りを褒め言葉と捉えて、にこにこと笑って受け止めることにしていた。

 士官学校での三年は瞬く間に過ぎ去り、ルイは真朱色の軍服に袖を通す日を迎えた。


 士官学校を次席で卒業したルイは、王国北東部のシュテインゲン王国との国境陸軍に配置された。首席を勝ち得なかったことで父に打たれたが、特に反論もせず黙って聞き流していた。

 この頃のルイは、自分の家族というものをまるで他人のように見ていた。

 士官学校に入ってから休日の殆どを屋敷に戻らずにいたからか、より一層、両親に対しての感情が乏しくなっていたのだ。

 父のつまらない説教よりも、卒業試験で自分を打ち負かして首席を奪った同級生の戦略が頭に残っていて、如何にすれば攻略できたのかを考える方が重要だった。


 ルイが話を聞いていないと気付いたギュスターヴは、さらに腹を立ててルイを殴った。口端に滲んだ血を書斎の床に吐き出し、目を吊り上げる父を一瞥したルイは、無言で踵を返し書斎を出て行った。


 書斎を出たところで、母が心配そうな顔でルイを待ち受けていた。

「この人も可哀想な人だな」と、息子が遠地に向かうことを泣いて嫌がる母を見て、無意識に思った。


 家同士の繋がりとは、それほど大事なものなのだろうか。

 金や名誉の為に好いてもいない相手と結婚させられて、跡継ぎを一人産んだ後は顧みられることもない。貴族の子女の務めと覚悟をして嫁いできたのかもしれないが、ここまで蔑ろにされるとは思ってもいなかっただろう。

 王族公爵の家に生まれて、蝶よ花よと大切に育てられた人に、ギュスターヴという人間の妻を務めることは無理があったのだ。

 家がそんなだからか、母の生家であるカノヴァス公爵家との折り合いも悪くなっている。


 自室に戻る脚を止めて、ルイは泣きながら追い縋ってくる母を振り返った。

 家に帰ることを拒み続けている間に、母の身長を越えてしまった。

 母は相変わらず綺麗な人だ。きっとシュトルーヴェ家に嫁がなければ、こんなにいつも泣いていることも無かったのだろう。

 付き纏われるのは嫌いだったが、笑っている顔は嫌いじゃなかったのだ。

 ルイはずっと泣き続ける母を抱き締めて、翌日には任務地へと旅立った。


     *   *


 ルイが王宮庭園のシュトルーヴェ家に戻って来たのは、それから実に三年後の事だった。

 このかん、母親からは幾度も親不孝と嘆きの手紙が送られてきたが、生まれ育った家から足が遠退いていたのには、一応きちんとした理由がある。


 ルイが配属されたシュテインゲン王国との国境線では、一年を通して小競り合いが頻発している。

 シュテインゲン王国はグルンステインの北東に国境を接する王国だ。

 南北に長い国土を有し、東部にはカラマン帝国と国境を分つ雄大な山脈が寝そべっている。その山脈の過酷な環境が天然の要塞となり、カラマン帝国からの侵略を阻んでいた。

 その為、両国は長い間隣国でありながら戦争の歴史が殆ど無い。


 反面、国土の西側に長い海岸線を持っているシュテインゲンは、コルキスタ王国と頻繁に海上戦を行なっていた。また、シュテインゲンの北部は山脈地帯と同様に荒涼としていて、畑地に向いてはいない。

 そうすれば、シュテインゲンが国土を拡げようと考えるならば南に軍を進めるしかなく、グルンステインは南下政策を取るシュテインゲン王国と、絶え間なく刃を交えざるを得なかったのだ。

 だが、ルイが帰って来なかったのには、もう一つ、別の理由もあった。

 どちらかと言うと、こっちの方が真相に近い。


「また、しっかりとやられたな」

 変色した殴打痕を見て、アンリは呆れた。

 三年振りに訪れたローフォーク家の庭で、ルイは左目の下から頬にはっきり残る拳の痕に触れながら、バツの悪そうな顔で紅茶のカップに口をつけた。

 口の中に出来た切り傷に紅茶が染みて、顰め面になる。


「とにかく、出会い頭に先ず殴るっていう癖をどうにかして欲しいよ」

「今回ばかりは、文句は言えないんじゃないのか? 聞いたぞ、向こうで随分と派手に遊んでいるらしいな。支払いの請求が届いて、小父上おじうえはかなり怒っていたからな。中尉の給金では到底払えない額の『娼妓代』では、あの方が怒るのは当然だ。むしろ一発でよく済んだなと思うよ」


「一応、式までに痕が残らないように配慮したんだろ。顔中包帯塗れの参列客なんて、ローフォーク家に迷惑をかけてしまう。それより、どうしてアンリ兄さんが知ってるんだ。アイツの事だから、こんな阿呆みたいな話、誰にもしないと思っていたのに」

 ルイの疑問にアンリは肩を竦めて答えた。

「ギュスターヴ小父おじが、父と私に謝りに来たんだよ。『馬鹿息子がやらかした。帰ってきたら、我慢出来ずに殴るかもしれん』ってな」


「アイツが頭を下げる人なんて、オスカー小父と陛下くらいだと思っていた」

「お前はどうなんだ。もう誰にも頭が上がらないんじゃないのか?」

 アンリはにんまりと笑いを湛えている。

 ルイは目を逸らし、再び紅茶を啜った。

「これに懲りて、少しは控えろ。病気を移されても困るだろう」

「少しくらい良いじゃないか。任務地の要塞はど田舎なんだ。王都と違って遊びに行ける場所が少ないんだよ」

「せめて給料で払える範囲に留めておけ」

 ルイはむうっと顔を顰めた。


 尤もな話だ。

 給金で払える範囲で通っていれば、きっと父親にバレることはなかったのだから。

 任地でうっかり女遊びにハマってしまった結果、借金で首が回らなくなり支払いを実家に回すなど、我ながら情けないことだと内心では反省している。

 ある日、いきなり複数の娼館から多額の請求書が送られてきたギュスターヴは、さぞ驚いたことだろう。


 真っ赤になって震えるその顔を見てみたかった気もするが、同時に面倒臭いことになるのも分かっていた。不逞な遊びが大嫌いな堅物である父に殴られることは確定事項だったから、何かにつけて帰省を拒んでいたのだし。

 それでも、今回だけは逃げ回るわけにはいかなかった。

 目の前にいるアンリが結婚を決めたからだ。

 

 王宮近衛連隊に入隊して八年が経ち、アンリは二三歳になっていた。

 近衛親衛隊での地位は上がり、今は少佐としてフィリップ十三世の孫息子エドゥアール王子の護衛隊長を務めている。

 地位も年齢も申し分無いということで、そろそろ結婚を……という話になったらしい。

 どんなに仕事と遊びが忙しくとも、兄と慕うこの人の華燭の典だけは、どうしても祝いたかった。


 アンリの結婚相手に選ばれた女性は、オーレリーという名の宮廷女官だ。

 宮廷侍官の家柄であるデュボワ男爵家の令嬢で、フェルディナン王太子の第一子アデレード王女が三歳の時から、遊び相手の一人として仕えていた侍女官だった。

 年齢はルイと同じ十八歳。

 薄く淹れたような紅茶色の髪に、透き通った水色の瞳が綺麗な、美人らしい。


「もしかして、その女性を選んだのはオスカー小父ではなくて、アンリ兄さんなのか?」

「どうして分かったんだ?」

「そりゃあ、まあ。アデレード王女の侍女官ということなら、近衛親衛隊の兄さんとも、オスカー小父とも以前から顔見知りでもおかしくないから」

 それに、婚約者の話をするアンリの照れ臭そうな表情を見れば、嫌でも。

「きっと小父上は、兄さんがその女性と接する時に鼻の下が伸びていたのを、しっかり目撃していたんだろうな」

 アンリは慌てて否定したが、顔は真っ赤なので図星ではあったようだ。


「いいなあ」

 気付くと、心の内が口から溢れ出ていた。

 結婚して、家庭を持つ。子を成して、共に歳をとる。

 自分の人生の残りを共に歩く人は、きっと自分ではなく父親が決めるのだろう。

 ルイは、漠然とそう思っていた。


「俺は一体誰と結婚させられるんだろう。せめて、お互いに思いやれる相手だと良いな」

 結婚をするのなら、大切にしたい。

 父のように家庭を顧みることもせず、妻や子供のやる事なす事、全てを否定するような夫にも父親にもなりたくはない。かと言って、自分が得られなかった平凡な愛情を求めて、母のように我が子を自分のお人形として雁字搦めにしたくもなかった。


 父の過剰な厳しさと、母の過剰な愛情に、何度も押し潰されそうになった子供の頃を思い出して、今更ながら鳥肌が立つ。

 アンリはそんなふうに考え込んだルイを、優しい眼差しで見詰めていた。


「少なくとも、ギュスターヴ小父は一方的にお前の結婚相手を決めたりはしないよ」

「どうだか」

「私を信じろ。きっと小父上はお前が選んだ女性を気に入ってくれるよ。大丈夫さ」

 ルイは眉間に皺を寄せ、口を結んで納得し難い顔をした。

 いずれにしても、自分にはまだ先の話だ。

 女の十八は適齢期だが、男の十八は未熟な小僧扱いなのだから。


 だからルイは、この時のアンリの言葉を特別気に留めることはしなかった。

 ルイがこの日の事を思い出すのは、五年後……『第十次サン=セゴレーヌ海戦』で、シラク元帥率いるグルンステイン海軍がコルキスタ軍に強烈な打撃を与え、大勝利を収めた年のことだった。


 


 

                         二、終わり

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