番外編 ルイ・フランシス 前編

ルイ・フランシス ①

  一



「やっぱり、ここにいた」

 枝葉の隙間から届く聞き慣れた声に、ルイは視線を動かした。


 拾った木々の枝を組み合わせて作り上げた秘密の避難所の向こうに、少年が一人立っている。

 隣家の五歳年上の幼馴染み、アンリ・ヴィルヘルム・ローフォークだ。

 逆光になって表情はよく分からないが、きっと夜の帳のような濃紺の瞳を愉快に細めて、こちらを覗き込んでいるのだろう。

 ルイは抱えていた膝をさらに引き寄せ、脚の間に顔を埋めた。


 返事もせず黙り込むルイに、隣家の少年はきっと困っただろう。

 いい気味だ、と思うと同時に、あまり意地を張ると呆れられてしまうかもしれない、という不安も芽生えて、その後にとるべき対応に迷った。

 それでも口をついて出たのは、アンリが最も返事に困る、父ギュスターヴへの不満だ。

「アイツは俺が嫌いなんだ」


「父親をアイツなんて言っちゃダメだ」

「アンリ兄さんはアイツのお気に入りだから、そんな事を言うんだ。俺みたいに、くだらない理由で毎日殴られてたら、そんな事は絶対に言わない」

 つい一時間前に殴られたばかりの左頬はまだ痛い。指先で触れると、少し腫れている気がする。


 顔を会わせれば嫌味と侮辱しか口に出さない父親は、ルイの何がそんなに気に喰わないのか、一日に一回は殴ってくる。

 幼年学校が休みの今日は、朝から詰め込まれた家庭教師の授業をサボらずに全て受けていた。出された課題も前日までに済ませて提出し、教師達も満足して帰って行った。

 それもこれも、午後からすぐそこにいるアンリと遊ぶ約束をしていたからだ。貴重なこの時間を、誰にも邪魔されたくはなかった。


「俺は所詮、他人の子だからだよ。今日はどうして叱られたんだ?」

 その問いに、ルイはぐっと口を曲げる。

「士官学校に兄さんが行っちゃうのが寂しい、って言ったんだ。そうしたら、殴られた。軟弱者だって」


 今年、アンリは士官学校に入学する。

 士官学校は軍隊における高級士官を育てる為の育成組織だ。

 現在の国王フィリップ十三世が即位してから始めた国内制度の大改革の一環で、軍事における知識や戦術のみならず、あらゆる武芸を体系化・統一して学ばせる為に創設された学舎だ。

 十二歳になった帯剣貴族の子弟は、特に嫡男ともなれば必ず入学が義務付けられている。入学した学生は、全員が敷地内の寄宿舎にて起居する決まりで、一日の始まりも終わりも無く、徹底して生活を管理されるのだ。


 一年目の間ならば良い。安息日には家に帰ることが許される。長期休暇にも大量の課題と一定期間の課外授業をこなせば良いだけなのだから。

 だが、二年目にもなれば、安息日にも課外授業を入れられる上に、山岳での行軍訓練や海洋での船上訓練が入り、長期休暇の殆どを費やす。最終学年の三年目には実践訓練も含まれ、適性と希望に合わせて各地の部隊に仮配属される。

 安息日も長期休暇も暦に印されているだけの、意味の無い文字の羅列に過ぎなかった。


「しばらく会えなくなる。だから、寂しいって言ったんだ。それの何が悪いんだ」

 ルイは鼻を啜った。

 思い出すだけで涙が溢れそうになる。


     *   *


 父ギュスターヴは、とにかく厳しい人だった。

 大敗を喫した『第八次サン=セゴレーヌ海戦』の翌年に生まれたギュスターヴは、シュトルーヴェ伯爵家の嫡男として誕生した。さらにその次の年に、南東に国境を接する国サウスゼンが攻めて来た『サウスゼン国境紛争』が勃発した。

 この戦争は二年もの間続き、グルンステインは勝利した。

 しかし、グラッブベルグ、ドラクールの二つの地方を獲得した一方で、優秀な将軍を数名失っている。

 ギュスターヴの父であり、ルイの祖父であるアルセーヌもその一人だ。その為、ギュスターヴは僅か三歳で名門伯爵家を継ぐことになったのである。

 正式に伯爵に叙されたのは十五歳の時だ。それまでは、ギュスターヴの母が爵位を一時的に預かっていた。


 正式に爵位を継ぐまで、相当な苦労があったことだろう。

 あれこれと伯爵家の利権に口を出す親族も、未亡人となった母親に言い寄る不届き者も、随分と多かったそうだ。


 ギュスターヴの母ソフィは、先代国王オーベール一世の異母妹だった。

 シュトルーヴェ家は、初代が伯爵位を賜ってから世代を重ねた歴史の長い家ではあったが、オーベール一世は妹姫の結婚に際して、持参金の一つとして新たな爵位をシュトルーヴェ家に与えている。

 本来は公爵への陞爵しょうしゃくを行うつもりだったのだが、祖父アルセーヌと祖母ソフィが辞退したのだ。


 シュトルーヴェ伯爵家の過度な繁栄を、良く思わない者は多い。

 ソフィの王族としての権利の放棄も、家を守るためだった。だが、妹と寵臣の結婚を喜んでいたオーベール一世は、納得しなかった。

 陞爵に代わって、王族ではなくなる妹を女伯爵に叙し、寵臣へは長らくの忠誠と功績、そして祝いの品として新たに男爵位を授けた。


 元より、領地で穀物がよく採れるシュトルーヴェ家は豊かだったが、これによってさらに収入が増え、莫大な資産を獲ることになった。

 その資産を欲する者どもが、際限の無い贅沢を夢見て、二人に集ろうとしたのである。


 ソフィは断固として亡き夫に操を立て続けた。

 兄王オーベール一世と王妃エリザも、オーベールの忠臣でアルセーヌの親友である初代ローフォーク子爵ヴィルヘルムも、母子を守ってくれた。

 ヴィルヘルムの息子オスカーなどは、ギュスターヴより四つばかり歳上であることから、より身近で親身に導いてくれたのである。

 そんな彼等への恩義なのか、生来の気性なのか、ギュスターヴはとにかく堅く厳格な性格に成長した。


 結婚相手も愛情よりも実利を優先し、オーベール一世の異母弟の娘──つまり、母方の従妹を選んだ。厳格過ぎるギュスターヴを心配した母が、すぐ上の兄に相談して纏まった結婚であった。ただ、ギュスターヴは母と伯父に対して、従妹がシュトルーヴェ家に嫁ぐに際して、王族の権利を放棄することを絶対条件に出した。

 理由は、一つ。

 フィリップ十三世への忠誠心を示す為だ。


 この時、時代はオーベール一世からフィリップ十三世に移行して、早十八年が経っていた。

 ひたすら戦争を回避しながら推進してきた行政組織の大改革は、確実に成果をあげていたが、グルンステイン歴二四三年の『第九次サン=セゴレーヌ海戦』において、コルキスタから確実な勝利を捥ぎ獲れなかったことで、フィリップ十三世は政策に不満を持っていた国内諸侯から、強い突き上げを喰らっていたのである。

 伯父カノヴァス公爵も、フィリップ十三世に不満を持つ一人だった。


 先代、先先代と、グルンステイン王国では武闘派の王が続いた。フィリップ十三世もまた武道に秀でた若者で、グルンステインは今後さらに領土を拡大してゆくだろうと思われていた。

 だが、フィリップ十三世が取った政策は、そんな貴族達の期待とは全く真逆の政策だったのだ。


 耕地を整え、街道を整備し、税制度を変えて貴族達からも土地収入に応じた税の徴収を行った。

 学校を建て、平民にも広く門戸を開き、識者の層を厚くした。

 長年繰り返されてきた戦争の所為で国庫がとうの昔に枯渇し、借金に塗れていたことを知ったフィリップ十三世が、説得に説得を重ねて進めていた財政の健全化の為の政策だったのだ。


 貴族達の不満は強かった。

 それでも士官学校を設立し、家々で格差のあった軍事戦略と戦術を公平に学ばせ、平民にも徴兵の義務を課して軍備の強大をはかる姿勢が、何よりも戦場で栄誉を挙げることを尊ぶグルンステイン貴族の不満を、ギリギリのところで押し留めていたのだ。

 それなのに、大金を投じて大幅に強化したはずの海軍は、コルキスタと引き分けるに留まった。


 財政の健全化と言いながら行われた投資によって、国庫はさらに赤字を膨らませている。

 期待を裏切られたと考える貴族の一部では、フィリップ十三世を廃し、当時はまだ九歳のフィリップ・フェルディナンを『フィリップ十四世』として擁立しようという動きもあったのだ。

 伯父カノヴァス公爵がギュスターヴに娘を嫁がせようとしたのは、幼い王子の摂政を務めるために、名門シュトルーヴェ伯爵家の支持を得ようという魂胆があったからに他ならない。あわよくば、娘を介して得られる伯爵家の財産を活用し、自身が王位に就こうと考えていたかもしれなかった。


 様々な思惑が交差する中で、従兄妹同士は血が濃くなるという理由で断ることも可能だったが、公爵家側がギュスターヴの提示した条件を受けいれた以上、結婚をしないということにはならなかった。

 だから、ギュスターヴは従妹ロザリーヌと結婚をした。

 そして、婚姻の儀を済ませたギュスターヴは、早々にフィリップ十三世へのシュトルーヴェ伯爵家の絶対の忠誠を宣言したのである。


 ギュスターヴにとって、フィリップ十三世はローフォーク家のオスカーと同様に、兄のように敬愛すべき対象だ。幼く周囲の大人達に付け狙われる自分を、早逝したオーベール一世の代わりにいかに守ってくれたことか。

 その忠誠心は、揺るぎないものだった。


 カノヴァス公爵は内心で歯噛みしたことだろう。

 だが、家臣として越えてはならない一線を越えるような愚か者ではなかったらしく、ギュスターヴの正式なフィリップ十三世への支持宣言を苦々しい思いで見ていたに違いなかった。

 そして、その結婚の経緯は、幼いルイを傷付けるには充分だったのだ。


「好きじゃない人と結婚して出来た子供だから、だから父上は俺のことが嫌いなんだ!」

 両親の夫婦仲は、子供の目で見ても良いとは言えない。むしろ、冷え切っていると言っても良い。夫婦の間に誕生した子がルイ一人だけというのも、それを証明しているように思えて悲しかった。

 祖母が生きていた頃は、それでもまだ良かったのだ。

 祖母がロザリーヌの夫への不満を受け止め、仕事ばかりで妻子を蔑ろにする息子を諌めてきたのだから。


 ルイを傷付ける要素は、他にもある。

 祖母の死後、ロザリーヌは寂しさからの救いを求めるように、一人息子に過干渉になった。

 友人も自分の選んだ人物でなくては許さず、幼年学校で親しくなった子は家にも入れてもらえなくなった。ギュスターヴが用意した武門の子供達は言わずもがな。


 唯一、許されたのは王家の信頼厚い近衛の長の一門である、隣家のローフォーク家のアンリだけだった。

 アンリには三人の姉がいるが、その姉達は好まざる者として丁重に訪問をお断りし、アンリに対してさえもギュスターヴが実の子よりも可愛がっているからか、ロザリーヌは良い顔をしない。公爵家ではローフォーク家の一門に身の安全を預けていたはずなのに。


 そのアンリも、士官学校へ通い始めてしまったら、もうほとんど会えなくなってしまう。ルイが士官学校に通える年齢に達した頃には、アンリはすでに卒業して、王宮近衛連隊で勤務しているのだ。


「そんなの嫌だ! 俺も一緒に士官学校に行く! 頑張って勉強して、早く卒業して、一緒に軍人になる!」

 顔中を涙と洟水に塗れさせて、靴底を感情に任せて地面に叩き付けた。

 泣き叫ぶルイを、アンリは無言で抱き締めてくれた。

 



                           一、終わり

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