第十話〜⑩

     *   *



 三月三一日。

 エリザベスは十五歳になった。

 シュトルーヴェ家ではささやかながら誕生会が開かれ、エリザベスが生まれたこの日を皆が祝ってくれた。


 十五歳の誕生日を前に、思い切って耳朶みみたぶに穴を開けた。

 今、エリザベスの耳では、おしゃれの幅が広がると大喜びしたアリシアが手掛けた、普段使いの小振りなイヤリングが輝いている。

 硝子窓や鏡に映る自分の姿を見るたびに、少しだけ大人の女性に近付けた気がして胸が高鳴った。


 フランツとブロンシュからは髪飾りを。伯爵夫妻からは、それらをしまっておける宝石箱コフレが贈られた。いずれも高価な品物の中、ジェズは遠慮がちに一冊の本をくれた。


 それは最近話題になっている作家の恋愛小説で、孤児院育ちの少女と奉公先の商家の子息との、淡い初恋の物語だ。

 意地悪な使用人仲間や子息の妹の理不尽、商売の為に二人を引き離そうとする両親の仕打ちに耐え忍び、やがて結ばれるという内容だ。

 恋愛小説は基本的に大人向けのものが一般的で、それらの中には過激な描写が含まれた結果、発禁処分になるものが多い。だが、ジェズが贈ってくれた小説は、何処までも一途な恋愛物だった。


 ちょうどエリザベスくらいの若い娘に人気で、増刷が追い付いていないと聞いていた。この小説を手に入れる為に、ジェズはどれほど奔走したのか。本を贈られたその日から、エリザベスは一頁一頁を、丁寧に読み込んでいた。


 一方、第二連隊では国軍競技会の一件以来、エリザベスへの貢ぎ物は禁止されている。その反面、手紙は辛うじて黙認されていて、出向いた先々で報告書類以上の手紙の束を渡されて戻って来るエリザベスを見るたび、ローフォークは顰め面を見せ、ドンフォンは「これを全部一つに綴ったら本が出来るだろうね」と、愉快そうに笑ったものだった。


 故郷ビウスからも、祝いの手紙とささやかなプレゼントが送られて来た。

 トビアスの密輸疑惑で、自白剤を過剰に投与されて意識が無かったままだった最後の一人も、エリザベスの誕生日の前になってようやく目を覚ました。


 ミューレス船長は、すっかり別人のように痩せ細っていた。

 あまりにも長い間を眠りに費やしていたからか、今はまだ、ぼんやりしていることが多いようだ。

 だが、元が屈強な体躯の持ち主だった彼だからこそ長過ぎる眠りに耐え、その身体を作り上げた生まれついての頑丈な胃のお陰で、順調に体力を回復しているらしい。


 シュトルーヴェ家の支援は、現在でも続いている。

 今は伯爵家の領地から信頼のおける商人が派遣され、顧問弁護士と共にエリザベスの名で新事業を立ち上げようと計画している。

 薬物の眠りから覚めた水夫達の受け皿だ。

 それにはアリシアとブロンシュも携わっていて、これまでの貿易業とはかなり毛色の変わった会社になりそうだった。

 シュトルーヴェ伯爵は、婚礼の儀を終えて周囲が落ち着いた頃に、もう一度ビウスへ、今度はシュトルーヴェ家のみんなで訪れよう、と約束してくれた。


 四月に入ると、陽射しはさらに温もりを増し、国土の中央以北にある王都近郊でも残雪はすっかり消え失せた。

 冬の間に都市部に出稼ぎに来ていた農民達は田舎に帰り、畑仕事に勤しんでいることだろう。本格的な春の訪れは、人々の心を浮き足立たせた。

 ただ、良いことは、そう長くは続かないものだ。

 良いことの後には、約束事のように良くないことが起こる。


 アン王女の御披露目行列の日から数日後、伯爵のもとに二つの情報が齎された。

 一つは、カラマン帝国皇帝の病臥。

 もう一つは、グラッブベルグ公爵令嬢アニエスの誘拐だ。


 カラマン皇帝の件は、詳細が判明していない。突然の病に倒れたことだけは確かなようだ。引き続き情報収集を行い、帝国内の情勢次第では軍隊を動かす必要性も出てくる。

 しかし、より緊急を要するのは、アニエスの件だった。

 誘拐は三月の上旬、今から一ヶ月も前に事件は起こっていた。

 国王への緊急の謁見に先んじ、伯爵は極秘にグラッブベルグ公爵の元へと訪れた。間諜の報告に手落ちは無いと捉えているが、事実確認は必要だ。情報は少しでも多い方が良いに越したことはないのだから。


 だが、グラッブベルグ公爵は面会を拒絶し、誘拐そのものを否定した。

「アニエスは風邪が長引いて部屋から出られないだけ。体調は快方にむかっているので、心配は無用」

 対応した秘書官は、素っ気ない態度で軍務大臣を追い払ったのである。


 伯爵から二つの凶報を受けた国王フィリップ十四世は、深く長い溜息を吐き出し、何も言えずに横に首を振った。

「陛下、まずは陛下の御名でグラッブベルグ公爵の召喚を」

「分かっておる。カラマン帝国はともかく、アニエスは一刻を争う。シュトルーヴェ軍務大臣」

「はっ」

「アニエスを救い出せ。公爵のことは、余に任せよ」

「ははっ」


 伯爵はすぐに立ち上がり、謁見の間を退出しようとした。

 だが、それは新たに現れた人々によって阻まれた。

 予定外の緊急の謁見を申し出た者が、伯爵以外にもいたのである。彼等はまだ伯爵が国王に拝しているにも拘らず、強引に室内に押し入った。

 謁見の間に現れたのは、カラマン帝国の大使夫妻だ。

 帝国の内情が大使のもとにも届いたのか、彼等は足早に室内の中心に歩み寄ると、蒼白な顔色でフィリップ十四世の前に膝を着いた。


 夫妻の背後には、プリムの広い帽子を被った女がいる。

 女の腹部はかなり膨らんでおり、一目で産み月が間近の妊婦であることが分かった。大使夫人に丁重に扱われている姿から察するに、相当の高貴な身分であることが窺えた。


 大使は無礼な訪問を詫びるとともに、一つの事を願い出た。

 帝国の貴人の亡命だ。

 大使夫人に助けられて、背後に控えていた女が前に進み出た。

 被ったままだった帽子を取り、くすんだ金髪が露わになる。

 伯爵は驚愕に目を丸めた。

 慌てて振り返ると、フィリップ十四世も伯爵同様に驚愕し、言葉も無く、呆然と女を凝視していた。


 女は、手にしていた帽子を大使夫人に預け、正面を向く。

 淡い緑の縦縞のペチコートを摘み、華麗な屈膝礼カーテシーを披露して、再びフィリップ十四世へと、その深い青い瞳を向けた。

 そして、戸惑いがちに、確かめるように、恐る恐る口を開く。

「お久しゅう御座います。私を覚えておいででしょうか」


 フィリップ十四世はおもむろに立ち上がった。

 この日は脚の調子が悪く杖を付いていたが、それさえも放り投げて駆け寄り、女を強く抱き締めた。

「覚えているに決まっている……! お前を忘れるわけがない。いつだって、シャルルと共にお前の無事を祈っていた……!」

「お祖父様」

 女も、フィリップ十四世を抱き締め返した。


 大使が連れてきた女の正体。

 それは、カラマン帝国第二皇子の妃であり、フィリップ十四世の孫娘マリー・アンヌ王女であった。




                         第十話 終わり

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