第十話〜⑨

 庁舎に入ると、三人は真っ直ぐ連隊長執務室に向かった。

 帰参の挨拶と沿道警備の任務完了の報告を行う為だ。執務室にはすでにティエリとトゥールムーシュがいた。ボナリーは東正門寄りに管轄区域があるので、戻ってくるのはまだ先なのだろう。

 フランツの前に立ち、ローフォークとドンフォン、エリザベスは敬礼をした。


「ただいま戻りました。任務は混乱も無く、滞りなく遂行されました」

「御苦労だった。両殿下を無事に御迎え出来たのは、秩序ある行動を心掛けてくれた市民の協力のお陰だな。あとで、ソレル師団長と相談して、市民に感謝の言葉を贈ろうと考えている」

「良き案だと思います。ところで連隊長。先程、庁舎正門前で少々騒ぎが起きまして」

「騒ぎ?」


「コール准尉が敷地外に出て、老人に絡まれておりました」

 穏やかな翠色の瞳がスッと細められ、一切笑っていないその瞳から、エリザベスは視線を逸らした。

「……詳しく聞こうか。コール准尉?」

 低められた声が、ずっしりと肩に重たかった。


 そこから、フランツのお叱りが渾々と始まった。

 苦言の大半はエリザベスの身を按じるものだったが、エリザベスが誘拐された場合に動員されるであろう兵士の数と、捜索にかかる費用。それは全て市民からの税金だ。その上で万が一にも発見出来ず、発見されたとしても危害を加えられた後だった場合に周囲が受ける精神的な苦痛を想像してみるように諭された際には、エリザベスはローフォークに叱られた時よりも哀しい気持ちになって項垂れた。


「申し訳ありませんでした」

 しょぼんとした姿に、フランツは一つ大きな溜息を吐く。

「今後は気をつけなさい。みんな、エリザベスを大事に思っているんだ。その事を忘れないように」

 フランツの大きな手が、栗の実色の髪に包まれた頭を撫でる。

「はい」

 そう返事をした時だった。

「エリザベス!」


 連隊長執務室の扉を乱暴に開け放ち、真っ青な顔のジェズが乱入してきた。

 ジェズはエリザベスを見付けると、芥子色の瞳を大きく潤ませて、有無を言わさず抱き締めた。

「エリザベス。良かった、無事だった。心配したんだ。だって、アイツ不吉な事を言うんだもの。良かった、良かったよぅ」

「ジェズ、どうしてここにいるの? 任務はどうしたの?」

「馬を走らせて来たんだ。捕まえたレステンクール人の中に、マートンが居なかったんだよ。問い質したら、まるでエリザベスを狙ってるみたいな事を言うから、急いで戻って来たんだ」

「マートンが居ない? ジェズ、その話を詳しく聞かせてくれ」

 表情を変えてフランツが言った。


 ジェズはようやく落ち着いたのか、エリザベスを離してフランツに向き合う。

 説明をしようと口を開きかけた。

 それと同時に、今度は開けっ放しになっていた執務室の入り口に、射撃教官のビッテルス大尉が立ちはだかった。

 ジェズを睨み憤怒に戦慄く姿に、執務室の全員が状況を察した。


 瞬間的に、フランツのこめかみに青筋が立ったのを、エリザベスは見た。

 シャテルとドンフォンがジェズの両脇に立ち、それぞれ左右の腕を捕らえる。

 ローフォークがエリザベスをジェズから遠ざけ、フランツの副官ロシェットが、二人が退室した後に執務室の扉をそっと閉めた。


「あの、少佐。ジェズはどうなってしまうのですか?」

 比較的最近にも、似たような光景を見た記憶があった。

 恐る恐る訊ねると、ローフォークは無表情で答える。

「現場放棄の正当な報いを受けるだけだ」

 暫しののち、ボナリーが遅れて戻ってくると、説教は一から仕切り直しになった。


 どれほどの時間が経過しただろう。

 空に少しばかり赤みが差し始めた頃になって、ジェズはやっと連隊長執務室から解放された。

 散々に絞られた結果か、少年の活力は全て消失し、しおしおのヨレヨレで泣き腫らしていた。付き添って一緒に出てきたシャテルは、苦笑いを圧し殺していた。

「君はよくよく、叱られるのが好きだな」


 ジェズは横に首を振る。

 それがその時に出来る、ジェズの精一杯の意思表示だった。



     *   *



「……昨日、噂のお嬢ちゃんを見てきたよ」

 老人の御喋りに、若い男の表情が僅かに変化した。

「酷い目に遭っただろうに、悲壮な様子など、ちっとも見て取れなかった。目の前の人々の善意に報いようと、懸命に生きているように見えたよ」

「……」


「生来の資質もあるのだろうね。人を厭う、という事を知らないようだ。我々とはまるで違う」

 男は、不愉快に鼻の上に皺を寄せた。

「我々も、そう在りたかったね」

「何が言いたいのです」


「報復の矛先を違えてはいけないと言いたいのだよ。伯爵が襲われたそうじゃないか。みんな、お前が煽ったに違いないと言っていたよ。子爵を犯人に仕立て上げるのも、お前が提案したのかい?」

「……」

 だんまりを貫く男に、老人は苦笑いを溢す。


「彼等への感情は、我々の誰もが複雑なまま抱えている。だが、少なくとも彼等は、老いし者共の謀略に振り回されているだけだ。お前だって本心ではそう思うからこそ、我々を頼ってくれたのだろう?

 不幸の連鎖は、憎しみと悲しみを渡り歩くことで生成される。それを止めるには、何処かで悲しみを受け入れ、憎しみを捨てなければならないのだ。お前は、坊ちゃんとお嬢ちゃんが可愛くて仕方ないじゃないか?」

 若い男は不快に表情を歪めた。


「十二年前の、あの悲劇が全ての始まりだ。一人は脅され罪に手を染めざるを得なくなり、一人は打ちのめされてなお、人を信じ続ける。もう一人は、まだ何も起こってはいない。いや、このままでは、転落の人生を歩むことになる。子爵殿のようにな。

 そうなった時、坊ちゃんには命を賭して護ってくれる力のある大人は、どれほどいるのか。父親は嫌われ者の成り上がりだ。子爵殿以上に惨めな思いをさせられる事も考えられる」


「……私は、今こそ十二年前のフィリップ十四世の行動の意味を理解した気がします。守りたい宝があった。その為にもう一つの守りたい宝を捨てねばならなかった。その捨てた宝が泥濘に飲み込まれてゆくのを知りながら、手元に残された宝を守る為に、見て見ぬ振りをせねばならなかった。気付いた時には宝は傷だらけで壊れかけ、再び手に取るには、自らが捨てた手前、偲ばれた」

「だが、拾った者がいた」


 その者は、進んで泥に飛び込み、捨てられた宝を懸命に捜した。

 深みから引っ張り上げ、夢中で泥を除ける。そこに、もう一人が放り投げられた。泥がはね、宝は再び汚れに塗れたが、宝に気付いたそのもう一人が、一緒になって、丁寧に丁寧に、泥を流してゆく。


 フィリップ十四世に出来たのは、宝を拾ってくれた者達を、陰ながら見守ることだけだ。直接手助けをすれば、残った手元の宝も失いかねない。

「非常に難しい御立場なのだ」

 老人の言葉に、若い男は嘆きの溜息を吐き出した。


「徹頭徹尾、忌々しい男ですよ、アレは。人の弱みを見付けるのが、とにかく巧い」

 とにかく、事態を混迷させるのが好きな奴なのだ。


「我が公爵閣下は、疲弊しておられる。まあ、自業自得なので、同情するだけ精神の無駄遣いですがね。あの屑! なんだって、こんな事に……! こんな馬鹿な事がありますか⁉︎」

 若い男の憤慨は正当なものだ。

 何しろ、公爵閣下に言い付けられた用事を足している隙の出来事だったのだから。


「各地に散った一族も集まってきている。すぐに居場所も分かるだろう。お前はお前の主人をしっかり護りなさい」

「私に主人なんていませんよ」

「お前が主人としたい者だ」

 老人はうんざりといった表情で若い男を嗜める。


「伯爵へ報告はしているのか?」

「……」

「仕方ない、私から伝えておこう。どのみち、私も急ぎ報告すべき事がある」

 さて、と老人は立ち上がる。


「私とて腹立たしいことばかりだ。公爵は当然ながら、我々の立場を分かっていて、我々を飼い慣らそうとする伯爵にも言いたいことは山程ある。だが、あの方のお陰で今があるのも確かだ。その恩は忘れてはならんよ、カナート」

 グラッブベルグ公爵家の使用人カナートは、返事をしなかった。


 ただ面白くなさそうに懐から財布を出して老人に渡し、一瞥しただけだった。

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