第十話〜⑥

     *   *



 暗闇の中で、甲高い奇声があがる。

 何かがひっくり返される音が続き、シャルルは急いで寝台を飛び出した。

 設えられた丸卓に置かれた色硝子の燭台を手に、続きの間で眠っているはずの妹のもとに向かう。


 思った通り、妹は大き過ぎる寝台の中心で、若い侍女官に抱き締められて震えていた。侍女官にしがみ付いて怯える妹は、シャルルの姿を見付けると堪らず泣き出した。

「お兄さま」

「大丈夫だよ、マリー。私がいるよ。大丈夫。いつもの事だから、すぐに終わるから。兄様と御喋りをしていよう。本でも読んであげようか」


 シャルルは妹の侍女官に目配せをした。

 侍女官は心得て、本棚から女の子が好みそうな内容の一冊を選んだ。その本を手にシャルルと妹が座る寝台に足を向けた、その時だ。

 ついさっきまで居た隣の寝室が、急に騒がしくなった。


 びくりと、妹が身を震わせ、シャルル自身も肩を跳ね上げた。

 隣の部屋で、あの人が金切り声をあげている。シャルルを捜しているのだ。

「ロイソン子爵令嬢」

 侍女官は頷き、素早く妹を抱き抱えて、直接廊下に出られる扉へと走った。シャルルも寝台を下り、妹と侍女官の後に続く。


「何処にいるっ」

 続きの間の扉が開き、あの人が駆け込んで来た。

 長い髪を振り乱して現れたあの人の両目が、今まさに寝室から脱出しようとしていたシャルル達を捉えた。

「逃げるなっ」

 伸ばされた手が、シャルルの寝間着の後ろ襟を掴んだ。


 一瞬、首が締まり、目に光が散った。

 後ろに引き倒されたシャルルは、天井と自分の間で、あの人の顔を逆さまに見た。暗闇の中で、その表情は分からない。

 だが、寝台の側卓に置かれたままになっていた色硝子の燭台の光が、あの人が高く掲げた裁ち鋏に反射して、色とりどりに煌めいた。


 フッと、シャルルは目を覚ました。

 荒れた呼吸を懸命に整えつつ、腹部に手を伸ばして異変は無いかを確かめた。

 そこには、いつもの柔らかい腹の肉があるだけで、鋏による刺し傷は無かった。


 じっとりと不快な汗が全身を濡らす。

 シャルルは仰向けのまま両手で顔を覆い、身体の奥から長く長く、溜息を吐き出した。

 周囲を確認する。見上げる寝台の天蓋は、見慣れぬ装飾だ。

 ああ、そうか。きっとこの所為だ。

 慣れない寝具で悪い夢を見ただけだ。

 そう、自分に言い聞かせた。

 随分と久し振りに、この夢を見た。


 シャルルは呼吸を落ち着かせ、寝台に身を起こした。

 すると、測ったかのように寝室の扉が開き、天蓋外から侍従に声をかけられる。挨拶に返事をすると、侍従は天蓋を開けてテキパキと寝台の柱に縛り付ける。

 その間、配下の使用人達が寝室のカーテンを開けた。

 朝日が一気に室内に入り込み、シャルルは顔を顰める。

 今日の召し物を乗せた布張りの大盆が運ばれて来ると、シャルルは寝台の脇に移動して、侍従が足下に傅くのを待った。


 使用人が真っ白な靴下を侍従に手渡した。

 シャルルは侍従に向かって足を出し、つま先からゆっくりと侍従の手によって靴下が穿かされてゆく様子を見ていた。


 何やら胃の調子があまり良くない気がする。

 緊張しているからだろうか。

 窓から、微かな潮の香りが漂い鼻腔に入り込んだ。

 今日は、いよいよアン王女との対面の日だ。

 悪夢はこの良き日を、憂鬱な気持ちにさせた。


 ところが、そんな気持ちは、訪れた港湾で見事に吹き飛ばされた。

 シャルルの目は、コルキスタ海軍司令官に手を引かれ、静々と舷梯タラップを下りてくる異国の王女に釘付けとなった。


 舷梯を下りきる一歩手前で、アン王女は立ち止まり顔を上げた。

 アン王女の明るい青い瞳が、シャルルを捉えてまろやかに細められた。


 花が綻ぶとはこのことだ。

 シャルルは自分の心が、彼女に完全に射抜かれてしまったと自覚した。



     *   *



 遠くの歓声が、空を越えて耳に届いた。

 階段を昇り切ったエリザベスは、瞳を輝かせて第二連隊庁舎の屋上に飛び出した。


 屋上では多くの隊員達が、早朝から祝砲の設置を行なっている。

 王太子達を乗せた儀装馬車の通過に合わせて、撃ち鳴らす予定なのだ。彼等の合間を擦り抜けて、東棟の南端から西棟の北の胸壁まで一気に疾走する。


 胸壁に辿り着くと、狭間窓に足をかけて背伸びをした。

 王都西正門がある方角に向かって目を凝らすが、眼前に広がるのは整然と建ち並ぶ街並みばかりで、歓声に包まれたアン王女を乗せた馬車は、まだ遥か遠く、姿形は望みようもない。


 目の上に手を翳し、懸命にぴょんぴょん飛び跳ねていると、少女の背後から笑い声が聞こえた。

 エリザベスに遅れて、フランツが副官のロシェットと従卒のシャテルを引き連れてやってくる。

「今、ようやく王都に着いたところだ。ここからはとても見えやしない。広場を通るまで待ちなさい。ここは一等席だぞ」

「はい」

 一等席という言葉にエリザベスは胸を躍らせた。再び胸壁にしがみ付き、大通りは西方面を、そわそわしながら注視する。


 第二連隊の庁舎は、ティエリ率いる第一大隊が管轄するアントワネット広場に面している。

 広場を挟んで北側には第一師団の本部が置かれ、平時には屋台が焼き栗を売ったり、画家の卵が広場の名称の由来であるグルンステイン大公妃であり、初代王妃の彫像を写生していたり、老人達が散歩の合間にベンチに腰掛け御喋りをしていたりと、比較的平穏だ。


 王都を東西に延びる大通りは凱旋や祝賀のパレードも催され、アン王女を乗せた馬車も、大通り西方面からアントワネット広場を通過し、東方面へと抜けて行く。


 今日、広場は早朝から多くの市民で溢れかえっており、隊員達は人波の整理でてんやわんやだ。

 屋上から眺めている今でも、老人が規制線を越えて布地を振っている。

 シャテルから渡された単眼鏡で覗いてみれば、シャツにグルンステインとコルキスタの国旗模様が描かれていた。

 布地を振る老人は、満面の笑顔だ。


「巡路って秘密だと思っていました」

「王都に辿り着くまではな」

 老人に釣られて笑顔になったエリザベスは、単眼鏡をフランツに手渡した。フランツは接眼部に目を付けて、騒がしい門前を覗く。

「だが、王宮庭園への入園に際して、王都民が王太子殿下と妃殿下を出迎えないわけにはいかない。みんなも御二人を拝したがっているしな」

 フランツもまた、老人の手作り旗を見たのだろう。くすりと笑って言った。

「だからこそ、我々は万全の態勢で御二人を御護りせねばならない」


 フランツの頷きに応じて、ロシェットは屋上で作業をする隊員達のもとへと向かった。

 隊員一人が手鏡を使って陽の光を反射させる。すると、すぐに広場の向こうの師団本部から、同様の返信が返された。

 フランツはおもむろに右手を上げ、下ろした。


 大砲が、耳を劈く重い咆哮を噴く。

 エリザベスは耳を塞ぎ、全身を奔る痺れに耐えた。

 砲音は六つ。

 一定の間隔を空けて、第二連隊と師団本部から交互に撃ち鳴らされる。

 民衆は驚き、その驚きはやがて歓声に変わった。

 広場には空を破らんばかりの拍手が湧き立った。


 同じ頃、王都東正門の外では、最上儀礼の軍服に身を包んだ第三連隊の兵士達が、周囲へ鋭い視線を向けている。

 肩に銃を担いだ担え銃になえつつの姿勢で立ち並ぶ彼等は、第三連隊の精鋭部隊だ。

 王太子シャルルとアン王女を乗せた馬車群が王都から出ると同時に、近衛連隊と共に帯同警備を行うことになっていた。


 最初の砲から間をおいて、立て続けに歓迎の祝砲が撃ち上げられる。

 門前の彼等は一様に、緊張の面持ちで銃を担う手に力を入れた。

 向かい合う兵士同士で目配せを行うが、姿勢は不動のままだ。

 だが、堪らず、一人の兵士が王宮庭園がある方角へ視線を向けた。


 王都東正門から北東の王宮庭園まで、その距離は約十五キロある。

 今回のアン王女の入園にあたって、第一師団が受け持つ最後の沿道警備となる区間だ。

 道中の殆どが見晴らしの良いなだらかな登り坂だが、王宮庭園に程近い辺りに森を切り拓いた林道がある。

 王都と王宮庭園を繋ぐ唯一の道であるために、道幅は広く手入れが行き届いているが、突然獣が飛び出す事があり、死角も多い。


 第一師団では、管轄担当である第三連隊を主軸に、数日前から獣除けの仕掛け罠を取り付け、入念な準備を行ってきた。

 六つの砲音は、アン王女達が王都に入ったことを報せる合図だ。

 だが、同時にそれは、害獣駆除の始まりの合図でもあった。

 

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