第九話〜⑨
* *
以前から、セバスティアン・ヴヌーが、所属駐屯所内で嫌がらせ行為を受けている、という報告は上がっていた。
国軍競技会でエッセンが起こした騒動が、その始まりだ。
エッセンの動きを、事前にジェズに報せていたヴヌーとシャテルは、これを切っ掛けにエッセンと完全に手を切っていた。
被害に遭ったエリザベスと、エッセンに過剰暴行を行い処分を受けたジェズの二人とは、その後にきちんと謝罪の場を設けて和解している。
何よりも、最大の被害者であるエリザベスが二人を許していた。
それでも、媚を売る相手をすり替えただけだ、と二人を見る周囲の目は冷たかった。
今、シャテルはドンフォンにされた意地悪が功を奏して、フランツの従卒としてその能力と存在を認められつつあるが、ヴヌーにはシャテルのような幸運は巡って来なかった。
すれ違い様に悪口を吐き捨てられたり肩を衝かれるなどは、まだ可愛い方だ。
時には、大事な報告を一人だけ受けられず現場への集合が遅れたり、今期に入隊したばかりの新人達がそんなヴヌーを舐めてかかり指示に従わないなど、任務に支障をきたした事もあった。
ヴヌーが所属している部隊は、ボナリー率いる第三大隊だ。
フランツへの報告はボナリーから齎されたもので、彼と所属する駐屯所の所長であるラ=カン大尉は対応に苦慮していた。
「つまり、連隊長である俺にその状況をどうにかして欲しいと」
ジェズ達は夜会会場を離れ、屋敷奥のサーンスの談話室に招かれていた。
口元に笑みを浮かべつつも、翠の目が笑っていない。
「ボナリーとラ=カンの対応に不満があるということなら、二人に直接言え。それとも上から怒鳴り付けてもらいたいのか? ヴヌー」
いつもより低い声は、フランツの機嫌が悪い事を物語っていた。
「いいえ。我々は待遇の改善を望んでいるわけではありません」
問われたヴヌーを差し置いて答えたのは、サーンスだった。
フランツの雰囲気がまた少し重苦しくなる。
「甥は軍を辞めたいのです」
その言葉に、ジェズは目を見開いてヴヌーを見た。
フランツは、さらに呆れた様子で溜息を吐き出した。
「ならば、退役願いを出せ」
「それが出来ていたら、このような場をわざわざ設けません。これまで何度も甥は退役願いを提出しています。ですが、それらは悉く受け付けてもらえないのです。それどころか、次に退役願いを持ってきたら罰則を与えると、脅迫されました」
「ボナリーとラ=カンが?」
ヴヌーはふるふると横に首を振った。
「小隊長のファルーイ中尉です」
その瞬間、フランツの眉間に皺が寄った。
「覚えているでしょうか。その、食堂で僕達がコール准尉とシェースラーを揶揄って、連隊長に叱られた事があったのですが、その直後から所属する小隊内で嫌がらせが始まりました。
最初は仕方ないと思っていたんです。階級を笠に着て横柄な態度を取ったのは僕達だし、嫌がらせ自体も大したものではなかったから、これから気持ちを入れ替えて、士官として正しくあろうと頑張るつもりだったんです。
だけど、国軍競技会の後からは、エッセンが国王陛下を怒らせた事もあって、少しずつ嫌がらせが大袈裟になっていって」
「そして、とうとう任務中に大怪我を負う事になった、と」
「……はい」
ヴヌーは俯いて左の二の腕をさすった。
その腕は、最近になってやっと包帯が取れたばかりだ。
事が起こったのは、王都とその近郊で行われたレステンクール人の一斉逮捕の時だ。上官の命令に従い、ヴヌーは部下と共に逃走路になり得る路地を、封鎖する任務についた。
突入部隊が潜伏先に奇襲をかけ、レステンクール人達は次々と地面に押し付けられ、逮捕拘束されていった。だが、一人が包囲を掻い潜り脱出を図ると、真っ直ぐにヴヌー達の部隊を目掛けて走ってきた。
ヴヌーは部下に発砲の命令を出したが、誰もそれに従わない。
焦ったヴヌーが背後を振り返ると、そこにはさっきまで確かにいたはずの部下は一人もいなかったのだ。
愕然としている暇も無く、敵は迫ってくる。
咄嗟に拳銃を出して撃ち放ったが弾は外れ、敵の放った銃弾がヴヌーの左の上腕を撃ち抜いた。
後ろ向きに倒れたヴヌーはそれでも、走り抜ける相手の足に飛び付き、蹴られても殴られても絶対に手を離さなかったのだ。
部下達の現場放棄は、ヴヌーの間違った指示が原因だということになった。部下達が全員、そう証言したからだ。
ヴヌーは断じて違うと反論したが、小隊長のファルーイは聞き入れてくれず、それがそのまま報告書として上へとあがっていった。
「さすがに、もう駄目だと思いました。だから、軍を辞めようと思ったんです。こんな大事な作戦時でまで、僕一人の所為で現場の足並みが乱れて、危険な叛逆者を取り逃がすところだった。もし、あいつがその後も巧みに逃げ続けて、陛下や殿下のすぐ傍まで接近していたらと思うと、恐ろしくてしょうがなかったんです」
だから、退役願いを書いて提出した。
しかし、ファルーイはそれを受け取らず、ヴヌーを無責任だと叱り飛ばした。
任務中の失敗は任務で返上しろ、と説いてきた。
その説教に一旦は思い直し、ヴヌーは懸命に部下達に声を掛け、信頼関係を築こうと努力した。だが、上手くは行かなかった。
ヴヌーは完全に自分の部下達に見下されていたのだ。
このままでは、また同じ事が起こる。
ヴヌーは再び退役願いを出して、結局また突き返された。
「二度目の時に言われたんです。『そんな事でいちいちヘコたれるようだから、部下達はみんなお前の指示に不安を抱くのだ。お前の部下達はお前を信頼していない。今後、同じ事が起こっても、それはお前自身の能力の低さと人望の無さが原因だ』って」
「それって……」
ジェズは絶句した。
不満を抱いていても、上官を置き去りにして現場放棄をするなど、あってはならない事だ。
「ファルーイが虐めを黙認しているという事か」
フランツの問いにヴヌーは何度も繰り返し頷いた。頬には涙が伝っている。
そういう事であるなら、正確な情報は上がってこないし、ボナリーやラ=カンが部隊内に気を配った処で限界があるだろう。なにせ、現場の隊長職の一人がその立場を使い、隊内の虐めを矮小化し助長させているのだ。いくらでも口裏を合わせ、都合の良い報告だけをあげる事が出来る。
フランツは難しい顔で眉間を押さえた。
サーンスが身を震わせるヴヌーの背中をさすっている。
その瞳からは油断ならない鋭さは消え、心からヴヌーを心配している様子が窺えた。
「シュトルーヴェ伯爵。私は身内贔屓はしない方だと自負しています。職人はまず己の能力と精神を研鑽すべきだ。それを怠った者が上手く世を乗り切れないのは当然のこと。家族にも、それはしつこいくらい言ってきた。
ですが、私も我が子や甥は可愛いのですよ。この子がこれほど追い詰められるまで、私達家族はこの子の苦しみに気付いてやれなかった。それはずっと、この子が自分の置かれた状況を隠し続けていたからです。
この子が怪我を負った時、それは背筋が凍る思いだった。当たりどころ次第では、この子は今、私の隣に居なかったかもしれない。任務上の事ならば、それも受け入れるしかないが、果たしてこの子の怪我は任務上の事と言えるのか……。
私はこの子の力になりたいのです。大それた望みを抱いている訳ではない。ただ、退役願いの受理を望んでいるだけなのです」
フランツは背凭れに仰け反り、天井を見上げて長息した。
ジェズが緊張して見守る中、フランツの沈黙は長く続いた。
ややあって、
「明日、もう一度ファルーイに退役願いを提出しろ」
フランツは言った。
「ただし、出仕してすぐではなく、昼休憩の少し前に持って行け」
「伯爵様、それにはどういった意味があるのでしょうか」
「いいから、言われた通りにするんだ。お前の望み通り、辞めさせてやるから安心しろ。いいな。ジェズ、帰るぞ」
さっさとサーンスの談話室を出て行くフランツを、ジェズは慌てて追い掛けた。
扉口で室内を振り返ると、困惑するヴヌーとサーンスがジェズを見詰めていた。
ヴヌーと目が合い、ジェズは励ますように微笑んだ。
大丈夫だよ。
声に出さず、口の動きだけで伝えると、ヴヌーは力が抜けたように眉尻を下げた。
「フランツ様、待って下さい」
ジェズの呼び掛けにも振り向かず、フランツは大股でずんずん先を歩く。
サーンスとヴヌーが現れてから、終始不機嫌だ。だからこそ、ジェズは談話室にいた間にずっと考えていた事を打ち明けようと思った。
「フランツ様、有り難う御座います」
やっと、フランツが振り返った。
「ヴヌーの事じゃありません。僕とエリザベスを大勢の前で叱ってくれた事です」
フランツは再び前を向き、歩き出した。今度は、足の運びが緩やかだ。
ジェズの話を聞こうとしているのだ。
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