第八話

第八話〜①

「腹が減ったな」

 灯りの無い牢の中でマートンはぼやいた。


 今のところ、食事は日に二度用意されてはいるが、それらに手を付ける気は無い。伊達に八年もの間、このトビアス師団に勤務し続けていたわけではないのだ。ここの連中の考えそうな事など手に取るように分かる。


 職務中、突然拘束された時、「やっとか」とロイソン師団長の対応の遅さに笑い出しそうになった。

 試しに拘束の理由を訊ねてみれば、案の定、治安維持軍本部から軍団長デュバリーがお越しになるのだと言う。マートンは密輸の容疑者達に対して不当な手段で取り調べを行ったとして、軍団長デュバリーの事情聴取を受ける事になったそうだ。


 この牢にぶち込まれてから何日経ったのか分からないが、既に軍団長御一行は到着していて、マートンは王都へ連行される事が決まったと、看守が御親切にも教えてくれた。


 さて、ロイソン師団長はどう出るのか。


 どちらにせよ、都合の悪い自分は『消す』以外の選択肢は無いだろう。何せ、御主人様であるグラッブベルグ公爵を怒らせただろうから。


 マートンは縄で拘束された両手で眼鏡を外した。

 枷を填められたのが身体の前で助かった。自分を拘束した連中は、さり気なくそう誘導された事にも気付いていない。


 外した眼鏡のツルの先端を、冷めた粗末な食事に差し込んだ。

 ツルの一部に施された銀の細工が食事に反応し、たちまち変色して黒色になった。

 ヒ素だ。


 これで五回連続だ。

 腹が減ってどうにもならなくなれば、毒が入っていると分かっても手を付けざるを得ないと考えているのだろうが、手口が単調過ぎて笑えてくる。

 それならもっと早く牢にぶち込んで、より長い時間、空腹状態に置くべきだった。不当な取り調べを拘束理由に上げるなら、とっくにその条件は整っていた。

 もしくは、無理矢理にでも口の中に詰め込めば、厄介者になった自分を始末出来ていた。

 あとは、事故か自殺で片付けて、知らぬ存ぜぬを貫き通せば良い。


「公爵様との付き合いも短くは無いだろうに、元海軍士官は覚悟が足りねぇな」

 午前中に拘束されて、五回目の配食から数えて二万千六百拍。

 恐らく、今は深夜十二時だ。

 夜勤者の休憩が終われば監視の交代があり、そこから通常勤務者のとの交代時間まで五時間ある。

 日の出までは、残り六時間といったところか。


 トビアス師団内で共に悪さを働いていた連中とは、接触を一切許されていない。それで悪さを抑え込めていると思い込んでいるロイソンが愉快で、眼鏡のツルを粗末な寝台のシーツで拭きながら声を圧し殺して笑った。


 マートンは、先程とは反対のツルを丁番から外した。

 さらに先セルをツルから外すと、中から細長い刃物が現れた。その刃物で両手を縛っている縄を一筋だけ切って、鉄格子の外に腕を伸ばして刃物を器用に操り錠前を開けた。

 刃物を眼鏡に戻し、マートンは毛布を頭から被って寝台に横になり、その時を待つ。


 そして、午前三時。

 若い兵士二人が、欠伸をしながら拘置所の詰所にやってきた。


 兵士達は詰所の手前で立ち止まり、身なりを整えてから中に向かって声を掛けた。しかし返事が無く、顔を見合わせて中を覗くと、燭台の淡い灯火の中で兵士が一人、机に突っ伏していた。

 てっきり居眠りをしているのだろうと思い、一人がその兵士を起こそうと中に、一人が班を組んでいるはずのもう一人を捜しに地下へと行った。


 一応、上官なので丁寧な口調で声を掛けたが、目を覚ます気配が無い。仕方がないので身体を揺すろうと肩に手を置いた時、拘置所の奥に向かっていた兵士が叫びながら駆け戻って来た。

「脱走だ! 監視が一人死んでる。マートン大尉が逃げた!」

「はっ? そんなわけあるか。ここにも監視が……」

 言い掛けたところで、こいつは居眠りをしているのだったと思い出し、慌てて上官を激しく揺さぶった。


 ふと、上官の片方の耳から何か出ていると気付いた時、揺すられた身体が床へと転がり落ちた。

 仰向けに倒れた上官は瞼を全開に、目を剥いていた。

 口端から垂れた涎は乾き始めている。

 息をしている気配は無い。


 すぐに相方が駆け出し、緊急事態の発生を周囲に叫んで報せた。

 残ったもう一人の兵士は、恐る恐る上官の顔に燭台の灯を近付けて、苦悶に表情を歪ませた。


 上官のこめかみに眼鏡のツルが生えていた。

 一気に突き立てられたのだろう深々と刺さっているそれは、兵士の目にも脳にまで達している事が分かった。


 兵士は口を抑えて後ずさった。

 先にこの場を離れた相方が急に腹立たしく思えてならなかった。

 人手が集まり現場検証が始まるまで、彼は現場の保持の為にこの場に残らなければならなかったからだ。



     *   *



 監視から奪った拳銃が二丁。

 それと、こうなる事を見越して詰所内に隠していたナイフを一振り持ち、マートンは貧困者が多く暮らす低層住宅地の裏路地を歩いていた。


 第十師団の警備体制、巡回経路、交代時に発生する隙。全て頭に入っている。監視を謀り、出し抜くなど容易だった。

 一定時間に監視が様子を見に地下室へ降りてくる。

 その時、食事に手を付けていなければ、次の配食の為に冷めた食事を回収する。屈んで盆を掴んだところを、すでに牢から出て奥の闇に息を殺して潜んでいたマートンが、背後から近付いて両手を縛っていた縄を首に絡めた。


 兵士は抵抗を試みたが、そのまま伸し掛かり、背中から両膝で相手の両腕を抑え込んだ。

 食事の盛られた食器が床に落ちたが、低い位置から落ちた上に兵士が組み敷かれたので派手な音は発生しなかった。古い城の地下牢だった拘置所は、音が響き難い造りになっていて、少々の物音は地上には届かないのだ。

 兵士は抵抗が出来ないまま、マートンに絞め殺された。


 上階に控える監視のもう一人は、暗がりの地下から上がって来たマートンを同僚だと思い込み、無防備なほど無防備に接近を許した。

 あっさりこめかみに一撃を喰らい、さらに一発拳を叩き付けると刃物は深々とめり込み、二人目も簡単に片付いた。あとは巡回経路の隙を突き、外郭城壁を乗り越えて師団本部からとんずらさせていただいた。


 マートンは闇の中で声を圧し殺して笑った。

 つくづく、ロイソンはこういった人間の細かい機微を察する事が出来ない。マートンがどういう人間か、どんな立ち位置か、何をやってきたのか知っているだろうに。無抵抗で牢に入った事で油断したのだろう。


 そもそも、ロイソンはコール家の積荷に銃が入っていた事に戸惑いを覚えたはずだ。従業員達の取り調べに際しては、グラッブベルグ公爵の指示だと口にした瞬間から思考停止してしまっていた。

 恐らく、ロイソンの頭の中では『コール家=シュトルーヴェ家』であり、その『コール家の積荷+銃密輸+グラッブベルグ公爵=武器密輸の罪をシュトルーヴェ家に被せて失脚させる公爵の計画』という図式が出来上がってしまったのだろう。

 場合によっては、密輸に公爵が関与しているのでは、と考えたかもしれない。

 トビアスやビウスで広まった噂も、その思い込みに拍車を掛けただろう。

 だが、どれも不正解だ。


 例え、公爵が密輸に関与しているとして、最初に密輸銃が発見された時点で公爵ならばすぐに手を引く。

 一度見付かって警戒態勢が取られている中で、無理に取り引きを続ける阿呆が何処にいる。アンデラの国境から始まり、王都で大小合わせて三回、トビアスの事件で計五回も摘発が行われたというのに。

「そんなんだから公爵様に顎で使われるんだよ」


 マートンにとって少々気になるのは、今回の事件を起こすにあたって渡された銃の型がやや古いという事だった。

 出来るなら大運河の捜査で摘発された新型が良かったが、入手出来なかったのだろう。

『立て続けに輸送に失敗してりゃな。アンデラは手を引くか……』


 マートンは立ち止まり背後を見遣った。

 そろそろ監視の交代時間だ。

 二つの死体が見付かり、脱走が明らかになる。

 少しの間は師団内部で騒いでいるだろうが、すぐに態勢を整えて街中での捜索が開始されるだろう。その前に出来る限りトビアスから離れなければならない。

 自分が捕まった事で、師団内にいる宰相派の何人かはマートンを見限り、関係する情報をロイソンに白状しているのは間違いない。自宅以外の知られていない隠れ家もあるが、近郊に潜伏するのはやめた方が無難だ。色々とバレるのも拙い。

 いや、それより……。


 寝静まった住宅地で耳を澄ませた。

 視線を灯り一つ無い裏路地のさらに暗がりに配る。


 先程から空気が妙だ。自分以外の何かが動いている。

 浮浪者とは違う、息を殺して獲物を狙う狩猟者の気配だ。


 マートンは走り出した。奇妙な気配も同時に動き出す。

 ロイソンの仕業を疑ったが、それであれば部下を二人も犠牲にする様な真似はしない。マートンが逃げられないと踏んでいたからこそ、まんまと逃げる隙を与えたのだ。


 気配はトビアスの師団本部を脱出して、比較的警邏の薄い住宅地に入ってから感じていた。もしロイソンか第三七連隊であれば、そんな間怠っこしい真似はせず、見付け次第逮捕行動に移る。

「第二連隊か!」

 マートンは舌打ちした。


 こちらが気付いたと分かったからか、殺気立った気配も足音も隠さなくなった。

 どうにか追跡を振り切りたいが、マートンを中心に両側の長屋を挟んで並走されているようだ。追い込まれている、と理解出来たのは、駆け込んだ先々で第二連隊の隊員達と遭遇し、必ず脇道に回避せざるを得なかったからだ。トビアスの街の構造を徹底的に頭に叩き込んでいなければ不可能な動きだ。


 細道を抜けて行き着いた場所は、三方を壁で囲まれた井戸端だった。

 戻り道は四人の隊員に塞がれた。


 マートンは素早く周囲に視線を走らせた。

 長屋の壁際に木桶と水瓶が出されている。止まらずに勢いのまま、水瓶から民家の鎧戸に飛び移り、庇へ足を掛け一気に屋根に登った。

 小銃から発せられた弾丸が、マートンを追い掛けて水瓶と屋根瓦に穴を穿った。


「照明弾!」


 その指令と同時に地上から小さな火球が打ち上げられた。

 火球は数十メートルを音を鳴らして飛び上がり、カッと白い鮮烈な輝きを放って破裂した。

 住宅地一帯が昼間の様に明るく照らし出される。

 光から目を逸らしたマートンは、その先に立ちはだかった人物の存在に気付き、凶悪な笑みを浮かべて叫んだ。

「やっぱりテメェか、カレル!」

 マートンの正面には濃紺の瞳の軍人が立ち、行く手を阻んでいた。


「ここはお前等の管轄外だろうが。大揉めするのを覚悟でやってんだろうな」

「気遣いは無用だ。後の事はデュバリー軍団長が片を付けてくれる。大怪我をしない内に大人しく投降しろ」

 ローフォークは腰の剣を抜く。


 直刀のサーベルの切っ先が、真っ直ぐマートンに向けられた。

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