第五話〜⑧

 肖像画のアン王女は、乳白色の肌で蕩けるような蜂蜜色の髪の美女だった。

 卵型の輪郭の中に大きな青い瞳と小さな鼻、微笑んだ苺色の唇が神の御技の如く配置され、貴賤に関係無くグルンステインの人々をうっとりさせた。


 また、同じ頃、王太子妃に仕える侍女官の選定も始まっていた。

 異国から嫁いでくる王女に、グルンステイン王宮での作法や習慣を教える教育係を始め、日程を管理する係。公私の衣装や宝飾品を管理する係。送られてくる品物を管理する係。果ては朗読係など、王太子妃に付けられる侍女官の職務は多岐に渡る。

 やがて王太子殿下のもとへ嫁し、全てのグルンステイン国民が全身全霊をかけて守るべき未来の王妃に仕える者は、爵位の高低や資産、既婚未婚を問わず、優れた人格と才能の持ち主が選出される。


 そんな女性達をまとめ上げるのが、たった一人の女官長だ。


 宮廷は、現在この地位の選定に最も頭を悩ませていた。

 一つの係に責任者の女官がおり、その女官には部下となる女官が付く。そして、彼女達一人一人に手足となって動く女性使用人が付き、さらに私生活をつつがなく送る為に専属の侍女があてがわれるのだ。彼女達を合計すると、王太子妃一人の為に新たに二百人以上の人を雇う事になる。

 いずれも才智に優れた女性達であるだけに、女官長には高位貴族の出身であり、人望の厚い女性が就くことが求められた。


 シュトルーヴェ伯爵家には、女官長を含めた側仕えの人事に頭を抱える王室長官が頻繁に訪れるようになった。

 アン王女との結婚話が持ち上がった当初から、一度ならず伯爵夫人であるマルティーヌに女官長就任の打診があったが、マルティーヌはこれをやんわりとした言葉ではぐらかし続けていた。


 生まれは伯爵家。嫁ぎ先は筆頭伯爵家のシュトルーヴェ家。軍務大臣夫人でもあり、かつては王宮で女官として働いた経験もあるマルティーヌならば女官長に相応しいであろうに、と不思議にエリザベスは思っていたが、「こういった事は、まず最初に王家の血縁である公爵家に声を掛けるものよ」と言うアリシアの言葉に成程と納得したのも事実だった。

 その礼儀を飛ばしていきなり伯爵家に声を掛ける事は、彼女達を蔑ろにしていると捉えられかねない。


 どのような身分であれ、生きて行こうとすれば何かしらの集団に属さざるを得ない。友人同士であっても、町や村であっても、その属する組織や集団が大きければ、否応にも派閥は生まれる。特に序列に厳しい貴族社会はそれが顕著だ。異国からの花嫁を歓迎する者もいれば、異民族の血が王家に入ることを良しとしない者も確かにいるのだ。

 高位貴族同士の腹の探り合いから良い返事を貰えずにいた王室長官が、言い出しっぺであるシュトルーヴェ家に責任を取れと言わんばかりに、説得に通い詰めていたのである。


 だが、マルティーヌとしては、公爵家や侯爵家がはっきりとした断りの返事をしない限りは、首を縦に振る事は出来ないというのが現状だった。

 ところが、事態は急転した。

 ある日の宮廷での何気ない貴婦人達の会話の中で、シャイエ公爵夫人がマルティーヌの女官長就任を推挙したのだ。


 シャイエ公爵夫人はフィリップ十四世の末の妹にありながら、前王妃の女官長を最期まで務め続けた人物だ。現在、王妃も王太子妃も居らず、実姉や兄達の妻が皆亡くなっている中で、最も身分の高い女性とされていた。そのシャイエ公爵夫人が非公式とは言え、マルティーヌを推した影響は大きい。


 また、夫人の発言が姪であるアデレードの助言に基づくものだと分かると、マルティーヌの女官長就任案はグラッブベルグ公爵の案らしいとの噂が流れた。


 そうなると、後へ続けと高位貴族の夫人達が次々とマルティーヌを推挙し始め、とある日の午後、彼女達の意見を取りまとめた王室長官が意気込んでシュトルーヴェ家を訪れ、数時間後には晴れ晴れとした顔で帰って行った。

 そして、三日後にはマルティーヌの女官長の就任を始め、複数の侍女官の選定が正式に発表されたのだった。


「一体どんな手を使ったんだ。言ってみろ。怒らないから」

 連隊庁舎の食堂で、隣りに座るローフォークが対面の席のフランツに凄んだ。


 フランツはローフォークの上官でありながら気不味そうに目を泳がせ、助けを求めてエリザベスに視線を送ってきた。だが、既に青筋を立てて怒っているローフォークを下手に宥めるのは、逆効果になるとわかっているので何も出来ない。


 エリザベスの正面に座るロシェット大尉を見ると彼は横に首を振った。周囲には他の大隊長達の姿も見られるが、この食卓の雰囲気を察して近付こうとはしない。

 ローフォークが怒っている理由ははっきりしている。

 マルティーヌが女官長に就くことになった経緯だ。

 シュトルーヴェ家とグラッブベルグ家の関係性を知る者であれば、公爵がマルティーヌを女官長に推薦するなどあり得ないことだと分かる。それがそうならなかったのだから、何かしらの遣り取りを試みた事は明白だった。


「お前達、先週モンジュールの教会に行ったそうだな。シェースラーの罰則の為で、顔を会わせたのは偶然だと思っていたが、俺の考えが甘かったようだな」

「何だ、分かっているじゃないか。母上がアデレード様にそれとなく話されたんだ。女官長の選定が進まなくて王室長官が困っているらしいって。そうしたら、アデレード様が母上に引き受ける様に促して、シャイエ公爵夫人にも推薦の手紙を書くと仰って下さったんだ」

 王都郊外の屋敷で静かに暮らしているにも関わらず、意外にもアデレードは宮廷の大まかな動きを把握していた。


 恐らく、シャイエ公爵夫人等、王女時代に交流のあった人々との手紙のやり取りが続いているからだろう。アン王女の事にも通じていて、女官長が定まらない理由もなんとなく察していた様子だった。

 アデレードには思うところがあったのだろう。


 フィリップ十四世と王妃は、政略結婚が当たり前のこの時代に恋愛結婚を成就させた。

 グルンステイン国内の男爵家出身の妃に高位貴族の反発は大きく、母が孤立し陰で中傷を受けていた姿をアデレードは見ていた。王妃の身の周りの世話をする女官長はいずれも長く続かず、最終的にこれを見咎めたシャイエ公爵夫人が王妹であるにも関わらず、自ら女官長を買って出たという経緯がある。


 異国からの花嫁が母のように孤立し、涙を流す事があってはならないとアデレードは心配していたようだった。


 ローフォークは口をへの字に曲げて言葉を飲み込んだ。

 前王妃が宮廷内の虐めで苦労したのは有名な話だったからだ。

「だが、直接接触した事は気に喰わん。監視が付いている事を忘れたのか?」

 漸く出てきた苦情に、友人の日常の苦労を垣間見た気がしてフランツは苦笑いした。


「忘れてはいないさ。だが、アデレード様の助力を得るにはあの手以外に方法がない。手紙は全て検閲されているのだろう?」

「……ああ」

「それにしても俺達が教会に行ったこと、良く知ってたな。怒られるのが分かっていたから黙っていたんだが」

 フランツはちらりとエリザベスを見た。エリザベスは慌てて横に首を振る。

 フランツが分かっているよ、と微笑んだ。


 シュトルーヴェ家の人々が母親達に積極的に関わる事を、ローフォークは望んでいない。それは、オーレリー達に会って充分理解出来た。彼女達はローフォークが公爵に何をさせられて来たのか知らないのだ。

 エリザベスとの接触は特に嫌がるだろう。


「……ベルナール様だ」

「ああ、あの子か。今年に幼年学校の第五学年になったと聞いた。俺の甥の事も知っていたよ。で? ベルナール様は何て言っていた?」

「……」

「正直に言ってみろ。笑わないから」

「……たくさん遊んでくれて楽しかったと。妹もまた遊びたいと言っていたと……」

 ぐふっと噴き出しかけたフランツをローフォークは睨んだ。


 エリザベスの目の前でロシェット大尉が素早くトレイの上を片付け、別の食卓に移った。ローフォークがより不穏な気配を醸し始め、エリザベスもこっそり席を立とうとしたが、

「父親に似ない良い子達だったな、エリザベス」

「え? あ、はい!」

 フランツに声を掛けられて逃げそびれてしまった。

 浮かした腰を質素な木椅子に再度下ろした。


「二人共、王家の方々の血統がはっきり出た顔立ちだったな。ベルナール様はとても勇敢そうだ。祖父である国王陛下により似ているかもな。アニエス様は反対に引っ込み思案で、アデレード様の幼い頃に似ていると母上は仰っていた。瞳の色だけ父親と同じか。二人共、俺達がお前と同じ第二連隊に勤めていると知ったら目を輝かせていたよ」

 フランツは鶏肉の煮込みを口に運んだ。

「ベルナール様は幼年学校を出たら士官学校に入りたいと言っていた。治安維持軍に入って、お前と一緒に悪い奴を捕まえたいんだそうだ」

「嫌味か」

「いや、懐かれているなと思って」

 フランツの言葉にローフォークは眉間に皺を寄せて目を逸らした。

 それが照れ隠しだと分かったのは、ローフォークの耳が僅かに赤く染まっていたからだ。見てはいけないものを見てしまった気がして、エリザベスの胸の内が騒ついた。


 モンジュールの教会で出会った子供達は、二人共とても素直な良い子達だった。

 ベルナールは大人びた言葉遣いだったが、楽しそうな物を見るとすぐにソワソワする年相応の少年だった。フランツが評した様に、勇敢そうな面立ちは宮殿のバルコニーに立っていたフィリップ十四世にそっくりだと思った。


 アニエスは反対に内気な少女で、人見知りをして母親の背後に隠れて出て来ようとしなかったが、アリシアが少女の花の髪飾りを褒めると少しずつ言葉数が増えてゆき、笑顔を見せてくれた。その笑顔は控え目で奥ゆかしく、思わず力一杯抱き締めたくなる可愛らしい笑顔だった。

 二人共フランツがローフォークの幼馴染みだと知って、子供の頃にどんな遊びをしたのか、任務に就いている時はどんな様子なのかを知りたがった。

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