第二話〜⑦

 食堂は、厨房の竈の中で爆ぜる薪の音が聞こえるほど静まり返っていた。

「返事はどうした!」

 ショックのあまり何も言えずにいたエリザベスは、びくりと身を竦めて恐る恐るフランツを見上げた。

 変わらず厳しい翠の瞳に萎縮してしまうが、僅かに躊躇ったあと、深く頭を下げて謝った。


「申し訳ありませんでした」

「シェースラーは?」

「はい。申し訳、ありませんでした」

 素直に謝罪したエリザベスに比べて、ジェズはまだどこか納得していない様子ではあったものの、フランツは二人の謝罪を反省と受け取ることにした。


 今度はエッセン達に向き直った。叱責を受ける二人をこっそりほくそ笑んで見ていたエッセン達は、怒鳴られた時のジェズ以上に跳ね上がって直立した。フランツの鋭い視線は無言の圧力で若い少尉達を射竦めた。

「お前達もだ。地位の乱用は部下の失望と信頼の失墜を招く。気を付けることだ。それから!」


 静まり返った食堂を見回し、士官服を纏った全員に向かって声を張り上げた。

「どうもこの連隊は喧嘩を面白がる風潮があるようだな。どこであろうが、相手が他連隊であろうが、揉め事は御法度だ。その場に止められる者がいるのであれば、傍観せずに仲裁に入れ! 部下の管理はお前達の責務だ。分かったな!」

 フランツの言葉に士官服の軍人達は一斉に立ち上がり、軍靴を鳴らして敬礼を施した。



     *   *



 ローフォークは、いつも少し早い時間に昼食を終わらせて、練兵場が空くこの時間を利用し、自らの鍛錬を行なっていた。


 この日は、鍛冶屋が使う柄の長い槌を使って素振りを行なっている。

 片手で大きく頭上に振り上げ、目の高さまで一気に振り下ろしピタリと止める。この時、柄の先端の槌が大きくブレないように地面を踏み締めて姿勢を真っ直ぐに保つ。握力、手首、腕、肩、背筋を鍛えるための鍛錬だ。これを左右同じ回数を繰り返す。


 近頃、これらの鍛錬の時間を長めに取っていた。エリザベスを従卒として付けられてからというもの、無性に気が散り、苛立ちが収まらない。可能であるなら、少女の顔を見ずに済む現場に戻りたいと考えているくらいだ。


 一週間前、師団長室にてエリザベスを目にした時、いよいよ正念場かと覚悟した。突然現れたシュトルーヴェ家の者にエリザベスを横から掻っ攫われたと、グラッブベルグ公が喚いていたからだ。

 シュトルーヴェ伯爵がローフォークのこれまでの行いを知っていて、その上で目を瞑っていることは知っていた。背後にグラッブベルグ公がいることもあるが、一番の理由はローフォーク自身の存在だ。


 十一年前の事件以降、ローフォーク家はそれまで懇意にしていたシュトルーヴェ家から距離を取られ、代わってグラッブベルグ家の保護下に置かれた。


 伯爵にとって相手がグラッブベルグ公一人だけなら、幾らでもその悪行を国王に告発し取り調べもするだろう。シュトルーヴェ家が裏では必死に公爵の決定的な粗を探していることを知っているし、なんなら、その情報を流しているのは自分自身でもある。

 しかし、伯爵が多くの不正の証拠を手にしながらも明確な対立姿勢を示してこなかったのは、公爵を取り調べればローフォークの名前が上がってくるのは確実だからだ。十一年前のあの日から、国王のローフォーク家に対する忌避は顕著だ。数々の悪行の実行役であるローフォークは家名を取り上げられるだけでは済まないだろう。公爵一人に政務を頼っている今は、場合によっては、ローフォーク一人に責任を押し付けて逃げ切ることも有り得るのだ。


 伯爵はそれを恐れている。

 そして、グラッブベルグ公も狡猾で、それを分かった上で手下となる者を厳選していた。ローフォークは対シュトルーヴェの剣であり、盾になっているのだ。だが、明確な対立をせずとも公爵のこれ以上の専横を警戒していることは、コルキスタの王女を王太子妃に推薦したことでもはっきりしていた。

 ビウスでの失敗は、そのような時に起こったのだ。


 さすがに見逃すことはできないか。

 腹を括って表情を引き締めた時に、エリザベスの第二連隊への入隊を告げられた。しかも、自分の従卒として。


 内心で歯噛みした。

 シュトルーヴェ伯は自分を追い詰めるつもりなのだ。

 ローフォークが公爵を憎んでいると理解した上でエリザベスを側に置き、己のしでかした罪を見せ付けることで、公爵側に居続けるのか、伯爵側に戻るのか、選ばせようとしているのだ。

 選べると思うのか? 選択肢などあるわけがない。

 伯爵はそれを分かっているはずだ。それとも、突き離しておきながら、今更あの日の償いをしようとでも言うのだろうか。十一年前、シュトルーヴェ家を守るために父を裏切り、ローフォーク家を見捨てた償いを?


「馬鹿にするな!」

 鈍い音が練兵場に響いた。投げられた槌が練兵場の壁に激突し、頑丈に造られている石壁の表面が砕けた。

「荒れてるな、カレル」

 聞き慣れた呼び声に振り返った。練兵場の入り口にフランツが立っていた。

「誰の所為だ」


 鋭く睨み付けてもフランツは平然と笑った。

「そう怖い顔をするなよ。ちょっと聞きたいことがあるんだ」

「ちょうど良かった。俺も言いたいことがある」

 そう言って、練兵場の隅に設置された粗末なベンチを指し示した。ベンチに腰を下ろして早々に、フランツは大きな憂鬱の塊を吐き出した。

「はあ、やれやれ。若い連中は血の気が多くていけないな」

「何かあったのか」

「ああ。さっきちょっとな」

 フランツは食堂での一件を話して聞かせた。


「エッセンか」

 ローフォークは渋い顔で呟いた。

「あいつは駄目だ。期待できない。とにかく上からも下からも評判が悪い。あの自意識過剰な性格を改めるか、公私のけじめを付けられるようにならない限り、奴は出世できん。あいつを配下に持つトゥールムーシュ中佐が気の毒でならない」

「全くだ。エッセンが士官学校を出て少尉。ジェズが新兵から始めて二等兵か。この世はなんて不条理なんだ。例の話を早く纏めてもらいたいものだな」

「ああ、あれか。財務大臣がかなり渋っているらしいな」

「スティックニーの吝嗇がな」

 そう文句を言うフランツに、ローフォークは初めて口元に笑みを浮かべた。その吝嗇を口説き落とさねば達成出来ない望みが、友人個人にある事を知っていたからだ。ローフォークの思いに気付いたのか、フランツも苦笑を零した。

「はあ、それにしても腹減った。大勢の前で怒鳴った手前、食堂に居辛くて昼飯を食い損ねたよ」

「お前の行動は正しい。もしその場にいたのが俺でも、エッセンではなくシェースラーとコールを選んだ」


 ローフォークの言葉にフランツは意地悪そうに笑った。

「エリザベスは楽しそうに仕事をしているな」

 途端にローフォークは不機嫌に眉間に皺を寄せた。


「彼女の仕事ぶりは評判だぞ。書類運びも迅速で、伝言も正確に相手に届けてくれる。記憶力が抜群に良いな。商家だったからか、人の顔を覚えるのも早い。もう連隊内で言えない名前は無いんじゃないか? 何より笑顔に癒されるってな」

「くだらん。猿にでもできる仕事だ。おい、フランツ。今回の人事はどっちの案だ。これは俺への当て付けか! 俺はそれを訊くつもりだった!」

「公爵様への嫌がらせだよ」

「……は?」

「……冗談だよ」

 凄みのあるローフォークの眼光にフランツは目を逸らす。


「俺が考えた。あの子の性格や現状を考慮したうえで、これが一番良い方法だと判断した」

「大隊長の立場を利用して、連れ出すこともできるとは考えなかったのか?」

「考えた。だが、無用の心配だろう。ここの師団長は父上と入魂だ。第二連隊は完全にシュトルーヴェ家の支配下にある。お前はこの連隊の少佐だし、公爵の手駒の一人として監視されているようなものだ。いくら命令があったとしても、軍部内にいる限り実行は不能だ。それにエリザベスには第二連隊の敷地外には、どんな理由があろうと誰が一緒でも出てはいけないと言い含めてある」

 ローフォークは治安維持軍の軍人として一個大隊を束ねる立場にあるが、同時にシュトルーヴェ家によってある種の包囲網を築かれている。少しでもおかしな動きを見せれば情報は即座にフランツに渡り、シュトルーヴェ伯爵へ届く。ビウスの一件がその例だ。


 軍に在籍している限り、ローフォークは上官の命令に従わざるを得ない。わざわざそれに逆らい、グラッブベルグ公に不利な状況をつくることを公爵は望まないだろう。要するにフランツは、公爵がエリザベスにちょっかいを出さないように、エリザベス自身を公爵の身を危険に晒す火種にしたのだ。


 また、今回の人事を提案したのがフランツであるのなら、エリザベスに関する無茶な要求を断る理由を作ってくれたことにもなる。

 フランツはエリザベスを守るだけでなく、エリザベスを利用してローフォークまでも公爵から守ろうとしてくれていたのだ。

「すまん、面倒をかける」

「カレルが謝る必要はない。公爵は王太子殿下が王位を継承したら、早々にお前の王宮庭園からの追放を解くだろう。お前は優秀な軍人だ。いずれ適当な理由を作って父を罷免し、その席を与えようと考えているに決まっている。そして公爵はグルンステイン王国の真の支配者になるのさ。その為の重要な手駒を失う危険を冒してまで、彼女に執着するとは思えない。公爵様の強欲を利用させてもらったまでだ。まあ、軍務大臣の椅子は俺が頂く予定なんだがな」

 最後の言葉に苦笑いが溢れた。


 フランツならば必ずそれを成し遂げるだろう。幼い頃から年齢も家柄も軍人としての地位も能力も全て、フランツは常にローフォークより一つ上にいた。父親の威光もあって多くの者はその立場を妬み羨むが、ローフォーク自身はそんな感情を抱いたことはなかった。

 寧ろ、この友人の能力は人の上に立ってこそ発揮されるものだと思っているし、誰よりも人の上に立つべき人物だと信じていた。

「それに、さっきの食堂での一件もそうだが、なんて言うのかな。あの子はどうも突拍子もない行動をとる時がある。ほら、知ってるんだろう? 公爵のお宝蹴り飛ばした話」

「ああ」

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