第二話〜⑧

 思わず口元に笑みが浮かんだ。あの時の絶叫は凄まじく、悶絶する姿は傑作だった。


「なかなかできることじゃないだろう。それにビウスからこっちに連れてくる途中で、お前の家を見付けて走っている馬車から飛び降りた。俺もジェズも居眠りしていて、馬車が石を撥ねなきゃ、彼女がいなくなっていることに気付かないまま屋敷に帰るところだった。あの髪だって、入隊の話をした直後に切ったんだぞ。アリシアが慌てて止めたからあれだけ残っただけで、本人は俺やお前くらい短くする気満々だったんだからな」

 フランツは困り果てたように言った。


 突拍子もない、か。確かにそうだ。

 ビウスで起こった全てのことが衝撃的だった。

 いきなり橋から落ちそうになったり、夜の廊下にいかにも怪しい身形の男達がいたというのに母親を助けようと賊の中に突っ込んできたり。

 そして、訓練を受けた軍人であるローフォークでさえ躊躇う高さを迷うことなく飛び降り、足を引き摺りもせず平然と走って逃げたのだ。

 考えなしの馬鹿と言ってしまえばそれまでだが、間違いなく度胸はある。


 不意に、少女に逃げられる直前のやり取りを思い出した。

 自分はあの娘の裸を見ているのだ。そのことに思い至って、顔面を真っ赤にして両手で覆った。フランツが気に留めて問いかけたが、何でもない、以外に返す言葉が見付けられなかった。


「とにかくシュトルーヴェ家で預かると決めた以上、勝手なことをされては困る。屋敷で大人しくしてくれるのが一番有り難いが、あれだけ行動力のある人間を一カ所に留めておくことはまず無理だろう。黙っていればあれこれ考えて、いつか爆発するに決まっている。それなら思い切って軍籍に入れて身体を動かしていた方があの子には合っている気がしたんだ」

「ならば、お前の従卒で充分だろう。寧ろその方がより都合が良かったのではないのか?」

「いや、俺もそのつもりだったんだが、エリザベスの希望なんだよ。復讐の意思はない。だから従卒になるならお前の従卒になりたいってな」


 申し訳なさそうな視線にローフォークは唖然と相手を見返した。

「意味が分からん! そんなわけがないだろう。復讐以外で俺の従卒になりたい理由はなんだ!」

「教えてくれないんだよ。お前、強盗の他に何か彼女にしたのか?」

「するかっ」

 否定すると、困ったなぁ、とフランツはベンチの背凭れに身を預けた。

「それを聞きたかったんだよな。どうしてもそこだけが理解できない」

「俺には心当たりがない。それが用件なら、俺はもう行くぞ!」

「待てカレル。あと一つ」

「何だ!」

 苛立ちを隠すこともせず振り返ったが、思い掛けずフランツは真剣な顔でローフォークを見上げており、無意識に心が身構えた。


「エリザベスの母親を殺したのはマートンだな? エリザベスは母親をあんな無残な姿にした奴が誰かを知りたがっている。もしかしたら、それを知るためにお前に近付こうとしているのかもしれない」


 公爵の手駒の中でもトビアス師団のまとめ役を担っているのがマートンという男だ。ビウスにいて即座に人手を集めるなら、この男に連絡するのが最も手っ取り早い。公爵の下で十年以上の付き合いがあるが、ローフォークはこの男の他者の命に対する軽薄で残忍な考えが嫌いだった。


「コールには言うな。マートンは奴の手に余る。挑めば必ず母親と同じ目に遭わされる」

 呻くように言った。分かってる、とフランツは頷く。

「確認したかっただけだ。エリザベスへの執着が残っていれば、お前を動かせない限り公爵は必ずマートンを送り込んでくるだろう。絶対に奴とエリザベスを接触させるわけにはいかない」

「頼むぞ、フランツ」

 その言葉にフランツは両目を見開いて驚いた顔をしたが、笑みを浮かべて頷いた。



     *   *



 練兵場を後にしたローフォークは、真っ直ぐ執務室に向かった。

 ドンフォンは昼休憩に入ったのだろう。執務室にいたのはエリザベス一人だった。ローフォークやドンフォンのように机を持たないエリザベスは、来客用の長椅子に腰を下ろして俯いていた。どうやら半べそをかいていたらしく、こちらに気付くと慌てて指先で目頭を擦った。


「少佐、あの」

「聞いたぞ、コール。随分と派手な騒ぎを起こしたな」

 エリザベスは真っ赤になって両目を潤ませた。フランツだけでなく、ローフォークにまで叱られると思ったのかもしれない。エリザベスは頭を下げて謝ると、項垂れて黙り込んでしまった。


 少し意地の悪い笑みが口元に浮かんだのを自覚しつつ、午後の仕事に入ろうと椅子を引いた時、机の上に数枚の報告書に混ざって一枚のメモが添えられていることに気が付いた。


  ローフォーク少佐へ

 シュトルーヴェ連隊長より、午後に予定されていた会議の開始時間を三十分早める旨、遅れず出席するようにとの伝言がありました。確認を宜しくお願い致します。

                            コール


『フランツの奴、さっきは何も言わなかったぞ』

 つい舌を打った。苛立ちを含む音にエリザベスが怯えた反応を見せたので、屑入れに放り込む為にメモを丸めようとした手を止めた。改めて少女を見直すと、栗の実色の瞳に溜まった涙を零さないように必死で堪えている。


 二、三秒考え込み、ローフォークは空気の塊を吐き出した。鍵付きの引き出しから大隊長印を取り出して言う。


「事の経緯は聞いている。今回のことはエッセン等に非がある」

「で、では、何故、フランツ様は、エッセン少尉達をお叱りに、ならなかったのですか?」

「お前は自分ばかり罰を受けて、エッセン達が許されたとでも思っているのか?」


 声を詰まらせながら訊ねたエリザベスは、ローフォークが返した問いに答えることができなかった。戸惑う少女に処理を済ませた書類を渡す。

「話は終わりだ、持っていけ」

 一方的に会話を打ち切り執務室の出入り口を指差した。


 執務室を出る直前、エリザベスが立ち止まってこちらを振り向いた。戸惑った気配を感じたが、ローフォークは意に介さず書類の処理を始めた。

 やがてエリザベスは一礼をして執務室を出て行った。


 エリザベスの足音が遠ざかってゆくのを確認して、ローフォークは漸く顔を上げた。

 一つ大きな溜息を吐き、独り言ちた。


「俺は、甘やかしたりしないからな」



     *   *



 帰りの馬車の中で、エリザベスは護身術を身に付けるようにフランツから命じられた。


 この訓練はエリザベスを軍人として鍛えることが目的ではなく、食堂での一悶着を受けて提案された。

 教官役に任じられたのはローフォークだ。

 エッセンのような輩を遠ざけるには、連隊内で地位が高い者の側にいることが、最も簡単で効果的だ。大隊長とその従卒の関係にあるローフォークならば、より行動を供にしやすく、エッセンに対しての当て付けには見えない。

 罰則であった食堂の清掃作業が終わるのを待っている間に、フランツとローフォークの二人で取り決めたとのことだった。


 護身術の稽古は練兵場が空く頃を見計らって行われた。人も疎らな時間帯に早めの昼食を済ませ、午前の訓練を終えた兵士達と入れ替わる形で練兵場を使用した。

 最初の二、三日、ローフォークを後ろから追う野戦服のエリザベスに、擦れ違う兵士の全員が驚いた。護身術を学ぶ訓練であると分かると、応援や励ましの言葉を掛けてくれるようになった。


 ローフォークの訓練はエリザベスにとって過酷で厳しいものだった。

 この身に危険が迫った時、自力で逃げ出す手段を身に付けておかなくては、と気合い充分のつもりで挑んだのだが、手抜きを好まない教官は一通りの基礎を教えると、一日三十分程度の訓練中、問答無用でエリザベスを投げ飛ばし転がした。

 

 時々、第二連隊の兵士達や他の大隊の隊長達が見物にやってきた。

 彼等はローフォークの指導の厳しさに鼻白み、たまに首を傾げて隣同士でひそひそと言葉を交わした。

 ある日、フランツがエリザベスの成長を窺うために練兵場に顔を出した。訓練の様子をしばし眺めたあと、怪訝な顔付きでローフォークを呼び寄せた。

「お前はあの子を現場に出す気か。あれは護身術じゃないだろう」

「構わないだろう。もともと猿みたいな娘だ。護身術程度では元気が余る。やるからには徹底して仕込ませてもらうぞ」

 そこで初めて、エリザベスは自分が受けている訓練が軍隊格闘であることを知った。


「そいつは災難だったな。ローフォーク殿に目を付けられたか」

 張りのある大きな笑い声が室内いっぱいに響いた。


 第四大隊長トゥールムーシュ中佐が白い顎髭を揺すりながら笑うので、エリザベスは頬を膨らませて抗議した。

「笑い事ではありません。お陰であちこち痣だらけです!」


 この日、第二大隊の大隊長室は留守になっていた。

 以前から計画されていた密輸の一斉取り締まりがあり、ローフォークは副官のドンフォンと供に、前日の日没後から配下の中隊四個から選び抜いた精鋭を引き連れて大運河へ赴いていた。ジェズが参加できると喜んでいた捜査だ。

 よって、本日のエリザベスは連隊長執務室を拠点に、ロシェット大尉の小言に耐えるフランツを眺めながら書類運びを行っていた。


 普段から書類運びの合間に、他の大隊の隊長達と言葉を交わす機会を持った。

 皆、入隊間もないエリザベスを気に掛けてくれていて、特に第二連隊で最年長となるトゥールムーシュは孫のように可愛がってくれた。


 新兵からの叩き上げ軍人であるトゥールムーシュは、若い頃に六度の国境防衛戦と領地拡大戦争に参加していた。第二連隊の誰よりも充実した経験の持ち主で、軍服の胸を飾る勲章の数は彼が上げた功績のほんの一部であり、師団長であるデュバリーでさえ彼の栄誉には及ばなかった。

「あんたに素質ありと見たのだろう。他者の長所を見抜く能力に優れた方だからな、護身術程度で放置しておくのは惜しいと思われたのさ」

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