第二話〜⑥

 階級が上がったといっても、軍人としてはまだまだひよっ子の二等兵にとって、それは驚愕の大抜擢だった。ジェズはてっきりエリザベスも自分と同じように喜んでくれるものだと思っていたが、エリザベスは眉間に皺を寄せて頬を膨らませていた。そこでやっと、この妹同然の少女はジェズが軍籍に入ることを快く思っていなかったのだと思い出した。

「心配かけてごめん。でも、エリザベス、僕は」

「コール准尉」


 ジェズの謝罪を阻むように、別の人物の声が二人の間に割って入った。

 同じ食卓についていた全員がエリザベスの背後に視線を向けた。エリザベスは身体を捻って振り返り、自分の後ろに立っていた人物を見上げて表情を曇らせた。


 そこに立っていたのは、十五、六歳くらいの三人の少年達だった。

 少年達は鉄紺色で詰襟という、ローフォークやフランツが着用しているものと同じ軍服を身に纏っており、両肩と左胸に付けられた銅の二つ星の階級章が、彼等を少尉の地位にある士官であることを示していた。


 ジェズを始め、同席していた二等兵達は一様に表情を顰めて彼等を見た。エリザベスも困惑を浮かべたが、立ち上がって少年士官達に向き直った。

「私に何か御用でしょうか。エッセン少尉、シャテル少尉、ヴヌー少尉」

「いや、なに、大した用事じゃないのだが」

 エッセンという名の少尉が口を開いた。グループのリーダー格の少年士官だ。


 エッセンは昼食を囲む二等兵達を一瞥すると、視線をエリザベスに移して彼女の顔をじっと見た。目だけを動かして、唇から額にかかる前髪の毛先の艶までじろじろと不躾に眺め回した。


 エッセンの目は、いつもエリザベスを不快にさせた。

 男が女を品定めする熱の籠ったその目は、あの日の夜のグラッブベルグ公の目を思い出させた。

 エリザベスは僅かに俯いて唇を噛んだ。肌寒い時にそうするように片腕でもう片方の腕を抱き締めると、異変を察したジェズが声を掛けてくれた。

「シェースラー二等、貴様に用はない。下がっていろ、でしゃばりが」

 嘲笑と侮蔑の言葉がエッセンの口から飛び出した。ジェズが顔面を真っ赤にして立ち上がるのと同時に、同席していた少年兵達も怒気を漲らせて立ち上がった。高慢な顔付きのエッセンの後ろで、シャテルとヴヌーが身構えた。

「なんだ、逆らうのか? たかが二等兵の分際で。僕は少尉だ。お前達よりずっと上だぞ」

 それが相手の神経を逆撫ですることになると分かっていて、わざと横暴な言葉を選んで使っていた。


 エッセン、シャテル、ヴヌーの三人は第三身分、つまり平民出身の士官だった。いずれも王都で財産を築いた資産家の生まれで、通常であれば貴族階級の子弟しか入学を許可されない士官学校に通い、ジェズ達と同時期に第二連隊に配属された。

 彼等はどれほど甘やかされて育ったのか、なかでもエッセンは尊大で横柄であり、連隊内で最下の階級である二等兵を、特に貴族でありながら士官学校に通えなかったジェズのような立場の兵士を、あからさまに見下していた。


 気が付くと、食堂中の視線がエリザベス達に集まっていた。

「エリザベス。シュトルーヴェ家の縁者で准尉の階級を持つ君が、こんな薄暗い食堂の隅にいてはいけないよ。陽当たりの良い窓際の席を確保しておいたから、僕達と一緒に食事をしよう。このような場所は最下級の下っ端兵士に譲ってやりたまえ」

 エリザベスを襲っていた寒気は消え失せて、代わりに胃の腑を焼き尽くしそうな怒りが身体の内側に燃え上がった。


「それは命令ですか? エッセン少尉」

「まあ、そう捉えてくれても構わない。上官の命令なら、従ってくれるのかな?」

「いいえ、少尉。お断り致します」


 おお! と食堂中がどよめいた。


 エッセンはぽかんと両目と口を開いていた。数秒後、何を言われたのかやっと理解すると、見る見る顔面を赤く染めた。

「私がこの連隊にいる限り、私に命令できるのはデュバリー中将とシュトルーヴェ中佐とローフォーク少佐だけです。軍務大臣閣下は貴方に対して私へ命令を出す権限を与えておりません。貴方の命令に従う義務はありません」


 それはエリザベスが第二連隊に配属される際、ローフォークがデュバリー中将から言い渡されたエリザベスの取り扱い要項を言い換えたものだった。

 直属の上司となるローフォークでさえ、職務以外の指示を出すにはフランツの許可が必要ということになっている。少尉如きが易々とエリザベスに命令を下すことはできないのだ。


「で、では、友人として君を昼食にお誘いする。これならどうだ」

「お断り致します」

「な、何故だ。理由を言いたまえ!」

「ジェズは私の大切な家族だからです。ここに同席している方々はジェズの友人だからです。ジェズの友人は私の友人でもあります。貴方は私の家族と友人達を侮辱しました。そのような方と食事を供にすることはできません」

 エッセンは顔中の毛穴から血を噴き出しそうなくらいドス黒くなった。周囲からは彼を嘲笑する声が聞こえ、エッセンは完全に頭に血を上らせていた。


「僕に恥をかかせたな!」

 腕を振り上げた瞬間、ジェズは咄嗟にエリザベスの後ろ襟を掴んで引き寄せた。小振りな鼻先をエッセンの拳が翳めた。

 後ろ向きで倒れたエリザベスはジェズの腕の中に引っ繰り返り、そのまま二等兵達の間をバケツリレーのように担いで運ばれ、瞬く間にエッセンが手を出せない食卓の反対側に引き離された。


 殺気立った二等兵の集団が三人の少尉を取り囲み、ここに来てやっとエッセン達は分の悪さを理解して血の気を引いた。二等兵達の向こう側にいる自分達よりも上位の士官の姿を探したが、彼等は全員知らんぷりを決め込んでいた。

「ねえ! ねえ、待って! 私が売られた喧嘩よ!」

 エリザベスは二等兵の包囲網に掴み掛かって割って入ろうと藻搔いたが、日々の訓練で鍛えていた少年兵達はびくともしなかった。


 輪はじりじりと狭められ、エッセン達はこれ以上どうすることもできないほど身を寄せ合った。

「ぼ、僕達を殴るのか? 二等兵が少尉を殴るのか?」

「フラれたからって女を殴ろうとした男よりマシでしょ」

 二等兵の一人が鼻で笑った。


「はーい、そこまでー」

 暴力的な緊張が張り詰めた食堂内に、調子の軽い声が響き渡った。


 フランツが食堂の入り口に立っていて、落ち着いた様子で集団を見ていた。

 隣では対照的にロシェット大尉が鬼の形相で立ち尽くし、平和な昼食風景ではないことを見てとって戦慄いていた。そんな副官に苦笑を溢して、フランツはあくまでも朗らかな笑顔で険悪な輪に近付いてきた。頭に血を上らせていた二等兵達も、連隊長の登場にさすがに怖気付いていた。


「隊内での喧嘩は厳禁だぞ。揉め事の理由はなんだ」

「エッセン少尉がエリザベスを殴ろうとしました!」

 即座に答えたジェズに、フランツは少し驚いた顔をした。

 完全に萎縮した二等兵達の中で、ジェズだけが強い意志の籠った目でフランツを見上げていた。


「本当か? エッセン少尉」

「あ、あの、いえ、僕は……」

「本当です、フランツ様。それにエッセン少尉は私を気遣ってくれたジェズを侮辱しました!」

 エリザベスが訴えると、エッセンの顔面は血液が抜け落ちて真っ白に変色した。

 フランツは食堂にいた当事者ではない士官数人に、三人の少尉が多数の二等兵に取り囲まれるに到った詳しい説明を求めた。すぐ間近で会話を聞いていた士官の説明を受けて、ふむ、と一つ頷いたあと、エリザベスを手招きで呼び寄せると厳しい表情でこう告げた。

「コール准尉、君に罰として食堂の清掃作業を命じる。午後七時には夜勤者のための夜食作りを終えるから、食堂を管理するカレ夫人の指示に従って作業にあたるように」


 エリザベスはフランツを見上げた。それこそ、何を言われたのか聞き取れなかったかのように、きょとんと栗の実色の瞳を大きく見開いていた。

 抗議の声はエリザベスではなく、ジェズ達二等兵から上がった。

「何故ですか? 非はエッセン少尉にこそあるはずです!」

「本当にそう思うか? シェースラー二等」

「はい! エリザベスは罰を受けるようなことは何一つしていません!」

 もう少し頭が冷えていれば、いつもは名前で二人を呼んでいたフランツがこの時に限って階級で呼んでいる事の意味に気付いたはずだった。フランツは眉間に皺を寄せて小さく溜息を吐いた。

「私は君達二人を少し甘やかしてしまったのかな」

「でも、エリザベスはそもそも僕を庇ってくれただけで……!」


「思い上がるな!」


 不意を突く怒声にジェズは身を震わせた。

 フランツは翠色の瞳を細めて、驚いて全身を強張らせる二人を鋭く見据えた。

「いいか! シェースラー二等、コール准尉!

 確かにお前達二人はシュトルーヴェ家の庇護下にある。コール准尉に至っては軍務省大臣の特権でこの連隊に入隊した。これは明らかに特殊な状況だ。だからと言って、それが軍隊の規律を乱す正当な理由にはならない!

 コール、お前はエッセンに食事に誘われた時、何故、断った。命令であれば確かに拒否する権利はあっただろうが、エッセンはその後に言葉を改めて友人として同席を求めた。それを私情に囚われて意趣返しをするのは正しい対応だと思うか? 素直に応じていればこの様な騒動には発展しなかったはずだ。

 今、お前が持つその権利や権限は全てが軍務大臣閣下に付随するもので、最初からお前の手にあるものではない! お前がお前に与えられた権利と権限を行使するのは自由だが、軍隊内においては如何なる私情も徹底的に抑えなければならない!

 時と場所を弁えろ!

 常に物事の最善が何であるのかを考えて行動しろ!

 これは権利や権限と供にお前に与えられた義務だ!

 それを怠れば、非難を受けるのはお前を特例で入隊させた大臣閣下だ。今、お前を庇おうとして私に怒鳴られたシェースラーだ!

 階級と役職が全てのここでは、我々は家族ではない! 上司であり部下だ!

 私はお前達を必要もなく特別扱いはしない!」

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