第二話〜⑤

 父の後頭部を眺めていたフランツは、ふと、一つの手を思い付いた。

「父上、こういうのは如何でしょう」

 たった今思い付いた方法を父に話して聞かせると、シュトルーヴェ伯は一瞬キョトンとして息子を見た。だが、すぐにフランツの言わんとするところを察し、大きく一つ頷いた。


 数日後、治安維持軍第一師団長室に呼び出されたローフォークは、扉を開いて室内を一瞥した直後に両目を見張った。

 軍務省最高責任者であるシュトルーヴェ伯爵が、師団長の椅子に腰を下ろしていることにも驚いた様子だったが、それ以上に彼の表情を強張らせたのは、フランツに隠れるようにして立っていた栗の実色の髪の少女を見付けた瞬間だった。


 エリザベスは大きな瞳で真っ直ぐにローフォークを見据えた。

 軍服に身を包み、襟足で一本に結った髪は山羊の尻尾ほどの長さに切り落とされていた。

「エリザベス・コールだ。待遇は准尉。本日より、貴殿ローフォーク少佐の従卒として第二連隊第二大隊への配属を決定した。シュトルーヴェ大臣殿の所縁の者だ。扱いは心するように」

 師団長のデュバリー中将に言い渡されたローフォークは険しい顔付きになって何か言いかけたが、無駄だと察したのか言葉を飲み込んだ。エリザベスを睨んで、すぐに軍務大臣と師団長に向き直った。


 エリザベスの扱いについて幾つかの要項を言い渡されたあと、敬礼を施して彼女を伴い執務室を出て行った。その際、ほんの一瞬だったがローフォークは鋭い視線をフランツに向けた。


 あとでぶちのめしてやる。

 濃紺の瞳がそう言っているのを見て、フランツはさすがに目を逸らした。



     *   *



 ここ数日、第二連隊の庁舎に出入りする人の数が増えたなあ、とジョルジュ・ドンフォンは思っていた。

 その理由は分かっている。

 エリザベス・コール准尉だ。


 かれこれ一週間ほど前に何の前触れもなく配属されたエリザベスは、第一師団全体に大きな衝撃を与えた。これまでグルンステイン国軍に女性軍人が皆無だったわけではないが、治安維持軍に配属されたのは今回が初めてのことだった。

 とにかく、どんな娘なのか一目見ておこうと、第二連隊の隊員達が入れ替わり立ち替わりやってきて、書類と伝言を抱えて庁舎内を鞠の如く軽やかに駆け回るエリザベスを目撃しては、彼女の可愛らしい容姿に魅せられて、声を掛ける機会を得んがために用事も無いのに繰り返し訪れた。二、三日前からは、同師団の別連隊の隊員の姿まで見掛けるようにもなっていた。


 ドンフォンは困ったなぁ、と頭を掻いた。

 これまで、どの部隊よりも規則正しく整然としていた第二連隊が、エリザベス一人の為に落ち着きを無くしてしまっている。騒ぎと呼ぶほどではないが、このような軽薄なざわめきは上司であるローフォークが最も嫌うところだ。この様子だと、まだ暫くはこの騒々しさの中で仕事をしなければならない。


 それはつまり、ローフォークの機嫌が悪い日々が続くということだ。

 ローフォークは職務に私情を挟むことはしないが、機嫌が悪い時はさすがに声を掛けるのが憚られる。上司であるシュトルーヴェ連隊長でさえ気を遣うのだ。ただの副官であるドンフォンに「空気が悪くなるから苛々するのやめて下さい」と言えるわけがなかった。


 ドンフォンが執務室に戻ると、幸いと言うべきか大隊長の執務机にローフォークの姿は無かった。代わりに、と言うわけではないが、書類を抱えたエリザベスが困った顔で机の前に立ち尽くしていた。ドンフォンを見付けたエリザベスは、安心したように笑顔を浮かべた。

「どうしたの? 大事な要件かな」

「あの、ログ大尉から書類を預かったのですが、少佐の姿が見当たらないのでどうしたら良いのか分からなくて」

「どんな書類?」


 エリザベスから受け取った書類は、先日市街の繁華街で起こった暴行事件の報告書だった。酔っ払い同士が些細な意見の違いから喧嘩となり、それを止めようとした酒場の店主を殴った上で代金を支払わないで逃げた一件だ。第二大隊の管轄区で起こり、ローフォーク配下の小隊が事態の収拾に当たったのだ。

 酔っ払い二人は日付が変わる頃に逮捕されたが、取り調べているうちに通報の元となった喧嘩自体が、酒をタダ飲みするための偽装だということが分かった。

 突発的な暴力ではなく計画的な犯行だったのだ。

 また、市街では似た事件が多発していた。書類の内容は、余罪を含めて追及中故、事件の整理に少々時間が掛かる旨を報告するものだった。

 ああ、また。

 ドンフォンは眉尻を下げた。


 今のローフォークにこの手の報告は禁物だ。たたでさえ苛立っている上官に事件解決の遅延を報告するのは火に油を注ぐようなものだ。ログ大尉もこんな報告書は上げたくなかっただろうな、と同情の気持ちが湧いた。


 ドンフォンが情けない顔で溜息を吐くのを見て、エリザベスはさらに困った顔になった。それに気付いて表情を取り繕い、柔らかに答える。

「これは少佐の机に置いておいて構わないよ。急ぎの書類ではないし、内容的にもその方が良さそうだ」

「少佐はどちらにおいでなのでしょうか。シュトルーヴェ連隊長から会議を三十分前倒しするという伝言も預かっているのです」

「そうだなあ、時間的に昼食を摂られていると思うな。あの人は決まった時間に食事を摂らないんだよ。暇ができた時にさっさと済ませてしまうんだ。十二時きっかりだと食堂が混むからね。いつも時間をずらして食事をお摂りになる。少し早いけど、コール准尉も昼休憩をとって構わないよ。少佐が戻ってこない限り書類に押印されることはないから。伝言はメモにして書類に添えておくと良い。私も少佐を見掛けたら伝えておくよ」

「はい、分かりました」


 ドンフォンに言われた通り、エリザベスはフランツの伝言を紙に書き留めて書類に添えた。小さな紙なので誤って他に紛れたり、風に飛ばされてしまわないように文鎮を乗せることも忘れなかった。エリザベスはにっこり笑って頷いた。

「ありがとうございます、ドンフォン中尉。では、お先に食事を摂らせていただきます」

 エリザベスはぺこりと頭を下げて踵を返すと、てんてんと転がる鞠のように元気に執務室を出て行った。



     *   *



 第二連隊一階の食堂にやってきたエリザベスは、まずいつものように厨房から最も遠い食堂の隅に目をやった。

 そこには顔立ちに幼さを残す若い軍人の集団があって、エリザベスはその集団の中に見知った顔を見付けて嬉しそうに笑顔になった。

 絶対的な上下関係が築かれた軍隊内で、油の染みた壁際にしか席を確保できない集団は、一切の権限を持ち得ない下っ端兵士、つまり、今年の春にようやく新兵から二等兵に格上げされたばかりのジェズ達だった。


 エリザベスの姿を見付けた二等兵の一人が肘でジェズを突いた。ジェズは料理が盛られたトレーを持って、幾人かの同席の誘いを上手く断り近付いてくるエリザベスを見て、ホッとした顔をした。


 ジェズはエリザベスが治安維持軍に籍を措くことに大反対だった。第二連隊に所属して、尚且つローフォークの指揮下で任務にあたるジェズは、フランツ同様に誰がコール家を襲ったのか気付いていたのだ。フランツとシュトルーヴェ伯爵の説得で納得したものの、渋々といった体だった。それ故に、ローフォークの従卒となったエリザベスがひたすら心配でならないようだ。二等兵になってからは市街の各管轄区に配属され、連隊庁舎に立ち寄る機会が減っていたので尚のこと不安が募るらしい。


 二等兵の一人が気を利かせてジェズの隣の席を空けてくれた。エリザベスは礼を言ってその席に座った。

「ジェズ、今日はこっちでお昼なのね」

「うん。午後から庁舎の警備任務につくんだ」

「それじゃ、今日は御屋敷に帰ってこないの?」

「うん。明日の朝になると思う」

「そう……」

 すると、フランツと二人きりで馬車に揺られて帰ることになるのか。

 そう思うとエリザベスは急に気が重くなった。


 シュトルーヴェ家で暮らすようになってから、まだ二週間も経っていないので相手を理解できないのは仕方ないと思いつつも、恩人であるはずのフランツが実はとても苦手だった。


 二人きりになったからといって、ちょっかいを出してくるわけではないし、フランツだけでなく、アリシアも二人の両親である伯爵夫妻もみんなとても親切だった。ただ、彼を含めてシュトルーヴェ家の人々は隠し事をしている、とエリザベスは確信していた。

 フランツが何頭も馬を乗り替えてビウスに駆け付けた真の理由がはっきりしない限り、信じる気にはなれない。


 憂鬱そうにサラダの中の枝豆をつつくエリザベスを見て、ジェズは心配そうな顔をした。

「あ、あのさ、実は僕、大隊単位で動く大きな取締りに加えてもらえることになったんだ」

「とりしまり?」

「うん、そう! 第二大隊の管轄区で密輸の疑いがある商人がいてさ、取引現場を抑えるんだ。僕、その射撃手に選ばれたんだよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る