第二話〜②

 事件後間も無く、コール家の不幸を知った街の人々が、保護されている一人娘の様子を見物に来るようになった。


 ビウスはそれなりに大きな運河街だ。年に数回は酒場で事件が起こるし、盗みもある。だが、今回のような複数人の殺人を伴った強盗は初めてのことだった。

 エリザベスに同情を寄せて集まってきた人々は、コール家に降り掛かった災難に恐怖を覚えつつも、残虐な事件に興奮し、詳細を知りたがる浅ましい人々ばかりだった。

 エリザベスを苦しめたのは、そんな彼等が口にする噂話だ。


 コール家の一人娘が盗賊に穢されたという噂は、瞬く間にビウス中に広まっていった。


 違うのだと、そうじゃないのだと懸命に訴えても悪い噂は消えることは無く、むしろ否定すればするほど、街の人々は面白がっているように思えた。

 母の無残な死に様が噂に拍車をかけるのだ。


「母娘揃って可哀想に。あそこは二人揃って綺麗だから」

「ここのお嬢様、タンサンに随分としつこく付き纏われてたんだって?」

「あの馬鹿息子にか? コール家に何の利点があるんだ。娘以前に父親の方からお断りするさ」


 街中が事件にタンサンが関わっていると信じていた。

 彼等がエリザベスに執拗に求婚していることは商人の間ですでに広く知れ渡っていた話だし、葬儀の際にエリザベスを引き取ろうとして失敗した姿も多くの人に目撃されていた。

 だからなのかもしれない。

「好き嫌い言ってないで、さっさと結婚してしまえばこんなことには」

 そう言う人が現れ始めた。


 そういった言葉の害からジェズ達はエリザベスを守ろうとしてくれたが、葬列の時も、様々な手続きの為に移動する馬車に乗っていても、彼等の好奇の視線はエリザベスを責め立てているようで苦しかった。


 もし、この事件が結婚を拒絶したことによって引き起こされたものなのだとしたら、エリザベスは誰よりも自分自身を憎むしかない。

 両親があのような死に方をするのなら、家族として日々を過ごした人達があんなふうに殺されてしまうと分かっていたのなら、タンサンの息子との結婚なんて苦痛でもなんでもなかったのに。


「ああ、目を付けられたのがうちの娘じゃなくて良かった」


 誰かの声がざくりと刺さった。

 もう無理だ。

 そう思った時、ジェズがそっと手を握って、フランツの申し出を受け入れるようにエリザベスを諭した。


 隣で寝息を立てるジェズは、今もしっかりとエリザベスの手を握ってくれていた。無防備な寝顔は半年離れていても変わらない。

 エリザベスは小さく笑んで、膝掛けをジェズの肩に掛けてやった。


 今、馬車はグルンステイン王国の王宮庭園を奔っていた。

 王宮庭園はグルンステイン王家が所有する荘園の一つで、国王が居住し政務を行う宮殿を中心に、複数の離宮と各省庁の庁舎が整然と配置された、王国の政治の中枢だ。

 この宮廷を中心に広がる広大な荘園には、爵位を有する千家以上もの貴族達が居住を許され、下賜された区画に立派な門構えの屋敷を建てていた。

 遊歩道を設けた広葉樹の林を始め、数キロに及ぶポプラ並木や人工的に引き込まれた小川。小高い丘の楡の木に、牛が青草を喰み、馬が駆ける放牧場など、遷都の際に整備された、長閑な田舎の風景を模した国王の庭だ。陽が傾き始めた温かい色合いの光の中で美しく整えられた景色は、これからどのようにして生きて行けば良いのか思い悩んでいるエリザベスの胸の内に、少しの安堵と少しの緊張を与えていた。


 フランツにもショールを掛けてやろうと腰を浮かしたエリザベスの横目に、とある邸宅の門扉が飛び込んできた。思わず、馬車の小窓に張り付き息を止めた。


 車輪が石を撥ねて馬車が大きく揺れた。

 フランツは車内の壁に頭をぶつけて目を覚ました。身体にはショールが掛けられていた。向かいの座席で眠っているジェズには膝掛けが掛けられていて、フランツは金髪の中に手を突っ込んで笑んだ。

 ふと、馬車の扉が開いていることに気が付いた。そして、ショールと膝掛けを貸してくれた、いるべきはずの少女の姿が消えている。

 度肝を抜かれたフランツは大声で御者に停車を求めて外に飛び出した。ジェズが吃驚して跳ね起きた。


 エリザベスはすぐに見付かった。

 馬車から僅かに十数メートル離れた後方で、一軒の貴族の門邸を見上げていた。安堵したのも束の間だった。エリザベスが蒼白な顔色で見上げている門扉は、出来ることなら知られたくない貴族の邸宅の物だった。


 ああ、やはり隠しきれないか。

 フランツはひどく傷付いた顔をして歩き出した。


 エリザベスは愕然としていた。

 目の前には、直径が一メートルはありそうな堅牢な門柱が建っている。その門柱には宿木の枝の浮き彫りがなされ、柱頭では二又に分かれた舌を伸ばした蜥蜴の像が射抜くような鋭い視線でこちらを睨んでいた。柱身に支えられた鋼鉄の門扉には円を描く宿木と蜥蜴の飾り彫りが施されていた。間違いなく、黒髪のあの人が身に付けていた徽章と同じだ。

 門扉には彫り物の曲線に沿って、家名と爵位が刻まれていた。

「第四位爵、ローフォーク……子爵」

「これ以上、近付いては駄目だ」

 固く閉ざされた門扉に伸ばしかけた手を制された。

「フランツ様、これ……」

 声が震えていた。

 エリザベスはフランツにもタリアン所長にも、たった一人だけ確かに分かる犯人の特徴を話していた。

 黒髪で濃紺の瞳の背の高い男。そして、上着の襟の徽章。


「フランツ様は御存知だったのですか? 私が、犯人がこれと同じ意匠の徽章を付けていると話した時、フランツ様は私の家族を殺した犯人が誰なのか、分かっていたのではないのですか?」

「ああ、知っていたよ」

「……どうして、私達を助けて下さったのですか?」

「貴族にも複雑な事情があるんだ。仲が良かったり悪かったり、従わせたり従わざるを得えなかったり、色々とね。俺は君を助けなければならなかった。せめて、君一人でも。それが俺の事情なんだ」

 フランツはローフォーク家の門の内に視線を向ける。

 同じく視線を向けたエリザベスは、どれほど長い時間放置されていたのか、ひどく荒れた庭内に眉尻を下げた。

 門扉から邸まで、本来であれば寸分の狂いもなく敷き詰められていたはずの敷石は好き放題に伸びた雑草で覆い尽くされ、所々浮き上がって歪んでいた。見る人々に温かい印象を与えていただろう、赤煉瓦とクリーム色の漆喰の壁の邸宅も泥に塗れて、罅割れから雑草が生えている。

 窓硝子が割れ、この様子では邸宅内も獣に入り込まれて荒れ放題だろう。よく見れば、目の前の鋼鉄の門扉も錆だらけで、柱頭の蜥蜴は背や頭に苔を背負っていた。


「ここは、もう十一年程前から誰も住んでいない。庭園の管理官も、ここだけは手をつけないんだ」

「どうしてですか? 御当主は……、あの人はここを出て、何処で暮らしているのですか?」

 エリザベスが問うと、フランツは悲しげに微笑むだけで答えることをしなかった。



     *   *



 シュトルーヴェ家は、かつて田舎の小城主でしかなかったグルンステイン家を武力で助けた一族だ。

 グルンステイン家の王国建国に尽力し、その功績によって伯爵に封じられてシュトルーヴェの土地と家名を得た。

 歴代の当主は王国の軍事の中枢に関わり、王国がカラマン帝国の『同民族統一計画』に参加して以降は、より激化した熾烈な領土拡大の生き残り競争に多大な貢献を果たした。

 王家の姫が降嫁したこともあり、本来であれば公爵の地位を得ていてもおかしくはないが、必要以上の地位の上昇は無用の争いを招きかねないと固辞し、陞爵の代わりにシュトルーヴェ以外の土地を幾つか下賜され、伯爵以下、複数の爵位を有する名門中の名門として通っている。


 シュトルーヴェ家の家紋である白十字に金の隼の装飾が施された門扉の先は、華麗な庭園が広がっていた。

 門から邸宅まで真っ直ぐ伸びる石道路の左右に初夏の花々が植えられた花壇が配置され、向かって右手側には噴水と、そこから水を引いた浅い水路が伸びていた。低い花木を丁寧に配置した囲いの中は一段低くなっていて、丸テーブルと椅子が置かれており、お茶を飲みながら何処を見渡しても花々が堪能できるように工夫されていた。

 左側には蔓薔薇アーチを入り口に薔薇の回廊が続き、その先の開けた空間には小人の村が用意されていて、様々な種類の蔓薔薇の中に家々がひっそりと隠されているのだと教えられた。


 シュトルーヴェ家の邸宅は、ジェズをさらに気後れさせた。

 外壁は白の漆喰でまとめられているが、間近に寄ると蔦や小鳥、栗鼠などの浮き彫り風の模様がある。その繊細な技は邸宅の壁面全体に及び、途方もない時間と金銭を費やしたことが手に取るように分かる。


 玄関ホールはコール家の邸がすっぽり収まるのではないかと思うほど広かった。家族の団欒を大切にしていたので敢えて小振りな家に住んでいたとしても、それでもそれなりの大きさにも関わらずだ。

 このホールでは年に数回、夜会も催されるという。

 高い天井から吊るされた大きなシャンデリアは、連隊兵舎のジェズの寝台よりも大きく見えた。

 

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