第二話

第二話〜①

 あれは、本当に起こったことだったのだろうか。


 小さな窓から流れる景色をぼんやりと眺めながら、これまで繰り返し考えてきたことをまた考えていた。


 たった一晩で何もかもを失ってしまったのは二週間も前のことだ。

 交易先のサウスゼン=ファンデンブルグから父が帰ってきて、エリザベスの幸せの為にタンサン家との縁談を断ると強く約束してくれた。

 追い掛けてきたメイドのタラと三人で自宅に戻ったら怒り顔の母が待ち構えていて、刺繍の習い事をほったらかしたエリザベスを叱りつけ、それを父が庇ってくれたのだ。君主国の土産と帰宅のキスを貰った母は少しだけ機嫌を直した。


 その日の昼食は、コール家に勤めて十年のオリガが作ったホウレン草のスープがとても美味しかった。食卓の傍らでは、執事のヴァンが食事の世話を焼きながら、穏やかな微笑みで親子三人を見守ってくれていた。

 翌日は、朝食を終えてすぐに運河港に向かった。


 前日に出会ったあの人にまた会えたら。


 そう思って、橋の欄干に凭れて行き交う人々を眺めながら誰とも話さない時間を長々と過ごし、結局はタラと一緒にカフェに寄って帰ったのだ。カフェでミルクが入った紅茶をちびちびと口に運び、ずっとビウス橋を気にしているエリザベスを心配してタラは声をかけてくれた。

 エリザベスはどう自分の気持ちを表現して良いのか分からなかったが、あの人を思い出して思わず赤くなった顔を俯かせたら、タラはちょっと驚いた顔をしたあと、優しく微笑んでいた。


 エリザベスはタラが大好きだった。

 タラはその日の晩に死んだ。

 玄関で喉を切り裂かれ、大量の血が絨毯を真っ赤に染め上げていた。


 オリガは母と同い歳だった。

 コール貿易商会で働いていた夫が病気で死んで、働き口を探していた彼女を母がメイドとして雇ったのだ。オリガは料理が上手で、ジェズが王都に行ってしまってからは、毎月日持ちのする焼き菓子を一緒に作って送ったりもしていた。オリガにはジェズより一つ上の息子がいて、息子は商会に就職して会社が所有している寮で暮らしていた。

 オリガは眠っていたところを胸を刺されて死んでしまった。


 コール家の家事を取り仕切っていたヴァンは、昨年隠居したマシューの息子だった。

 幼い頃には遊び相手にもなってくれて、エリザベスもジェズもヴァンを兄のように慕っていた。一昨年には結婚をし、とても可愛い息子に恵まれた。

 ヴァンはタラやオリガと違って住み込みの使用人ではなかった。結婚をしたことが理由だったが、老いた父母の面倒を見るためにと、父がコール家から少し離れた住宅地の一画に家を用意して、そこに家族と暮らしていた。

 あの日は、商工会の集まりで留守をする父に代わってコール家を守るために、たった一晩泊まっていただけだった。

 ヴァンはタラ同様に玄関で喉を一突きにされて死んでいた。

 タラとは逆に、外部への出血は少なかったが、検死では口腔から喉奥は固まった血で一杯になっていたそうだ。


 母は、首の骨が折れるほどの強い力で絞め殺されていた。

 遅くなるという父の帰りを待っていたのだろう。母が倒れていた寝室の床には眠気覚ましのショコラのカップが割れて散乱し、やりかけの刺繍が落ちていた。

 両手を背中で縛られて着ていた寝間着を引き裂かれた母は、賊の一人に陵辱されて殺されたあと、駐屯所の兵士に発見されるまでそのままの姿で放置されていた。

 躾に厳しい人だったが、エリザベスが悩みを抱えた時はいつも優しく抱き締めて話を聞いてくれた。父を見詰める時の母の瞳の温かさがエリザベスはとても好きだった。


 その母に誰よりも愛されていた父は、ビウスから数キロ離れた農家の前で発見された。

 商工会の集会から帰宅する途中、馬車ごと連れ去られて殺害されたのだ。馬車が発見されるまでの道には父が贔屓にしている御者の亡骸が落ちていた。父の首から噴き出した血が乾き、車内を真っ黒に染めていた。


 集会に集まっていた商人達は、全員、父が不思議とタンサンに絡まれることもなく、午後十一時には集会所を出たと証言している。もし、その直後に被害に遭ったのだとしたら、エリザベス達が襲われた時刻には父はすでに死んでいたことになる。


 父は一人娘のエリザベスを目に入れても痛くないほど可愛がっていた。

 あまりに甘やかし過ぎて母が呆れていたくらいだ。人が良くて真面目で面倒見が良くて、仕事の虫だと母には言われていたが、その為人は商売相手の信頼を得て、部下である屈強な水夫達から慕われる理由でもあった。


 エリザベスは向かいの座席で居眠りをしているフランツを見た。

 事件のあと、エリザベス達がただ泣きじゃくる事しか出来ずにいた時、フランツは駐屯所を預かる中隊長に掛け合い、葬儀、墓石と墓地の確保、コール家の資産をエリザベスに継がせるために必要な書類手続き、それにコール貿易商会の経営を父の補佐をしていた事務長と船長に一時的に委ねる為の準備など、検死ののちのありとあらゆる手配を全て済ませていた。

 暫くして、ようやく冷静さを取り戻したエリザベスは手際の良さに呆気に取られていたが、その手配は的確で、全てがエリザベスにとって良い方向に働くように気遣われていた。


 何より助けられたのは、両親を亡くしたエリザベスを引き取ろうと図々しく現れたタンサンを、伯爵家の権威と軍務大臣の嫡男としての権力を振りかざし、ぐうの音も出ないほど言い負かしたことだった。

 領主との繋がりを嵩にきて、平然と不正を行うタンサンに煮湯を飲まされてきた駐屯所の所長も味方についた。

 だが、エリザベスには納得のできないことがあった。


 あの日の夜、エリザベスが逃げ出した建物は確かにタンサン家の別邸だった。

 賊達はエリザベスをタンサン所有の建物に連れ込んだのだ。エリザベスの身体を弄ぼうとしていたのは、間違いなく領主のグラッブベルグ公爵だった。

 駐屯所に駆け込んだ時、確かにその事を訴えたのに、所長のタリアン大尉は厳しい表情を見せただけで一向に捜査にあたってはくれなかった。フランツにその不満を洩らしても困ったように微笑むだけで、タリアンに掛け合ってくれることはなかった。

 事件にはタンサンが関わっているのは間違いないはずなのに、背後にグラッブベルグ公の姿が見えたから捜査の手を伸ばすことが出来ずにいるのだ。

 いや、ビウスにあっては禁じられていた。

 だからこそ、タンサンはビウスで莫大な財を築くことができた。そして、エリザベスを守ってくれたフランツもまた、公爵家と伯爵家の格式の差、国王の姻戚である王国宰相とその部下にもあたる軍務大臣の宮廷での地位の差に、あのような顔しか出来なかったのだろう。


 それにしても、とエリザベスは訝った。

 何故、王都の治安維持軍の偉い人がビウスにやってきたのだろうか。

 いくらジェズに目を掛けてくれているとしても、ジェズは半年前に入隊したばかりの新兵に過ぎない。


 この人が変わった性格の人だとしても、寝ずに一晩中馬を奔らせてやって来る理由になるだろうか。ジェズに訊ねてみても首を傾げるばかりだ。ただ、その顔色は良くなかった。


 エリザベスは、また馬車の小窓から外を眺めた。

 フランツにビウスを離れ、シュトルーヴェ家の庇護下に入るように言われた時、最初は嫌だとはっきり断った。

 ビウスはエリザベスにとって住み慣れた生まれ故郷だし、両親の思い出がたくさん残る場所だった。何よりも両親やタラ達の墓があるというのに、ビウスを離れて王都で暮らすなどとんでもないことだと思った。

 それに父の遺した会社を守る必要があった。それは五十人余りの人々の生活を守るということだ。彼等には食べさせて行かなければならない家族がいるのだ。

 だが、すぐにフランツの言葉の意味を、身を以て理解することになった。

 

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