第一話〜⑧

「……下種が!」

「下種⁉︎」

 マートンの声が驚きに裏返った。


「俺が? 俺だけか? おい、ローフォーク。お前もそうだろう。お前も今夜は三人殺した! コールとかいう商人と、あの邸の使用人供だ。そして、父親がとっくに殺されてることも知らないで、帰りを待っていた娘を差し出したのは誰だ? お前だろうが!」

「黙れ」

「それで俺を下種呼ばわりか。てめえのやってることと何が違う!」

「黙れと言っているのが分からないのか」

 マートンは引き攣った笑い声をあげた。


「俺がここに来た理由はもう一つある。公はいつも頼めば使い終わった女を回してくれた。母親と娘、どちらの具合が好いのかヤリ比べたかっ……、うおっと!」

 マートンの頸部を狙った一撃は紙一重で躱された。


 剣はマートンの手にあったペンダントの鎖を千切り、抜けて飛んだチャームが壁に当たって落ちる音がした。素早く翻った剣は、足が縺れて膝をついたマートンの頭頂部に振り下ろされる。

「っざけんな!」

 一寸の差で飛び退いたローフォークの腹部を軍靴が掠めた。その間にマートンは立ち上がり、腰の剣を抜いた。

「痛いところ突かれて逆ギレか? 毎度毎度、嫌々やってるって面しやがって、辛気臭え根暗が! 人殺しが嫌ならさっさとシュトルーヴェの一派に戻ればいいだろうが。いちいち感傷に浸ってんじゃねえぞ!」

「黙れっ!」

 踏み込んだ直後、鼓膜を引き裂くような絶叫が別邸内に轟いた。


 剣を突き出そうとしていたローフォークも、それを受け止めようとしていたマートンも、身体を強張らせて互いの顔を見た。

「凄え声だな。処女ブチ抜かれた女ってのは、こんなふうに叫ぶもんなのか? 興醒めだな」

「馬鹿か貴様。これはグラッブベルグ公のものだ!」

 剣を鞘に収めて部屋を走り出た。マートンがその後を追う。


 階段を駆け上がり三階の廊下に辿り着いた時、グラッブベルグ公がいる寝室から白い影が転がり出た。影は勢い余って向かいの壁に抱きつき、寝室の中を確かめようとして今度は背中を壁に張り付けた。その時、階段側のローフォーク達の存在に気が付いた。


 栗の実色の瞳が乱れた髪の隙間で大きく見開かれ、激しく歪んだ。そこでローフォークは自分の失敗に気付く。仮面は外して部屋に置いたままだ。マートンは黒衣のフードを目深に被っていた。


 どうして。


 薄闇の中で少女の唇が動いた気がしたが、はっきりと聞き取る事は出来なかった。


 貴方は私を助けてくれたのに。


「何やってんだ、捕まえろっ」

 マートンの言葉にローフォークとエリザベスは同時に我に返った。


 エリザベスは乱れた裾を掻き寄せて別邸の奥へ走った。

 エリザベスの後を追いローフォークも駆ける。マートンも続こうとしたが、横目に股間を押さえ寝台から転げ落ちて呻いているグラッブベルグ公が映り込み、一瞬の躊躇ののち、くすりと笑って二人を追い掛けた。


 逃げ出したエリザベスは、すぐにバルコニーのある客間の一つに追い込まれた。

「逃げ場はない。諦めろ」

 戸口から声をかけると、エリザベスは窓辺に駆け寄った。バルコニーに続く硝子戸に背を向けて立ち、ローフォークを正面から睨みつける。

「嫌よ」

 エリザベスはきっぱりと要求を跳ね除けた。その声が意外にも冷静に聞こえたので、追い詰めた方が戸惑いを覚えた。

「貴方の言うことなんて、絶対に聞いてあげない」

「ならば、どうするつもりだ。逃げ道など何処にもないぞ」

「逃げ道なら」


 寝間着の前を掴んでいたエリザベスの両手が後ろに回った。掻き寄せていただけの裾が広がり、色白の肢体が露わになる。

 驚いて動きが止まった。その僅かな隙をつき、エリザベスは硝子戸を開いてバルコニーに飛び出した。手摺りによじ登ったところで我に返ったローフォークが走り出した。エリザベスが室内を振り返って何かを呟いたが、その声はローフォークの叫びによって掻き消された。

「ここは三階だぞ!」

 叫んだと同時に、エリザベスはバルコニーの手摺りを蹴って夜の空中に飛び出していた。


 自ら死を選んだのだと思った。

 咄嗟に伸ばした手も、今度は間に合わなかった。


 夜の闇に羽撃く寝間着は、指の間を擦り抜ける。

 遥か下の地面に人間が叩き付けられる様を想像して目を瞑った。しかし、人間が潰れる嫌な音はいつまで経っても聞こえて来ず、恐る恐る下方を覗き込んでも、血塗れで横たわる少女の姿を見出す事はできなかった。

 まさか、と視線を庭先に転じると、別邸の前庭を走り去る白い影がある。

「なんて奴だ」

 唖然として呟いた。

「飛び降りたのか」

 遅れて現れたマートンも驚いた顔をしていた。ローフォークに並んで下を見下ろし肩を竦めた。すでにエリザベスの姿は敷地内から消えていた。

「流石にこの高さは、怯むな」

「猿かあいつは!」

 あまりの出来事に憤慨するしかない。

「どうする? 馬を使えばすぐに追いつくぞ」

「それは相手の姿が視認できていればの話だ。我々はすでにエリザベス・コールを見失っている。それに」

 表情を歪めながら答えた。

「あの娘が馬鹿正直に自宅に向かっているとは思えない。知人宅に向かったか、治安維持軍のビウス駐屯所に駆け込むか。下手に辺りを捜し回っていても面倒な事になる。いずれ、身内を失った娘はタンサンが保護する手筈になっている。そうなれば結果は同じだ。それに、捕まえたところで、今の公にあの娘をどうにか出来るとは思えん」


 あの絶叫は尋常ではない。かなり強い衝撃が加えられたはずだ。いい気味だ。

 どうせなら潰れてしまえばよい。

 逃げられたことは癪ではあったが、実際のローフォークは笑い出したいのを堪えるのに必死だった。だが、

「俺とお前で輪姦せと言うかもしれないぞ」

 マートンの言葉に鼻白んだ。

 確かに、公爵なら有り得る。ならば、尚更、逃げられたのは自分にとって幸運だったのだ。


「さて、女がいないんじゃつまらん。とは言え、今から帰っても向こうに着くのは明け方だしな。ここの空いている部屋、借りるぞ」

「勝手にしろ。女が欲しければ直前まで公爵の相手をしていた奴がいる。そいつでも使え。俺は公爵の様子を見てくる」

「おお、至れり尽くせりだな。んじゃ、遠慮なく」

 そう言って、マートンは鼻歌混じりに客間から出て行った。あの男もまた、グラッブベルグ公の不幸が可笑しくてならないのだ。


 ローフォークはマートンに遅れて客間を出た。

 エリザベスを取り逃したことについて公爵は怒るだろうが、今の時点では叱責する気力はないだろう。大声を出せば傷に響く。

 いよいよ堪えきれなくなって吹き出した。

 股間をおさえて悶絶する全裸の男の姿は滑稽極まった。

 どうか、そのまま逃げ切って欲しい。頼むから、タンサンの手に落ちるようなことにはならないでくれ。

 ひとしきり笑ったあと、エリザベスが飛び降りたバルコニーを見詰め、ひたすらそう願っていた。



     *   *



 嘘吐き、嘘吐き、嘘吐き!

 どうして貴方がいたの? 貴方はもうこの街を出るのだと言っていたのに。それなのに、どうして貴方はあんなところにいて、私を捕まえようとしたの?

 どうして。

 貴方は私を助けてくれたのに!

 寝間着の身頃を掻き寄せて走り続けた。

 あれはタンサン家の別邸だった。自分に覆い被さっていたのは領主様ではなかったか。あの人は領主様とどんな繋がりがあるというのだろう。どうして私はタンサンの家で領主様にあんな真似をされなくてはならなかったのか。領主様は盗賊の一味なのだろうか。

 あの人は、あの人は……。

 頭の中は激しく混乱していた。

 未だに、自分の身に何が起こったのか理解しきれないでいた。

 ただ、あの場にあの人がいたという事実が酷く悲しくて、母の身に、家族の身に、何が起こったのか知るのが恐ろしくて、エリザベスは大粒の涙を流しながら走り続けた。



     *   *



 半年振りに帰ってきたコール家の前には、立ち入り禁止のロープが張られていた。


 門前には人垣ができ、中の様子を窺おうと押し合う度に、咽せ返る血の匂いが辺りに漂った。


 集まった青褪めた顔色の人々の中に、ブラッシュの下で働いている顔見知りの水夫を見付けてジェズは馬から飛び降りた。水夫はジェズを見て驚いていたが、一体何があったのか訊ねると、急に顔面を皺くちゃにして泣き出した。

「押し込み強盗に遭ったんだよ。旦那様が商工会の集まりで留守をしていた間に襲われたんだ。タラもオリガも、執事のヴァンさんも、みんな殺されたんだ。奥様が一番酷かった。他の者はみんな抵抗の痕跡も無く殺されているのに、奥様だけが手を縛られて、暴行を受けた挙句に首を絞められて殺されてるんだ」

「そんな……」

「旦那様もずっと行方不明で。けど、さっき駐屯所の方で動きがあったみたいだ。お嬢様は駐屯所で保護されてる。マシューさんと事務長が一緒だ。船長もいる。行ってやってくれ、ジェズ。お嬢様は、お嬢様は……」

「エリザベスがどうしたの? 無事なんでしょ?」

 ジェズの問いに、水夫は両手で顔を覆って首を振った。

「お嬢様は拐われたんだ。どうにか逃げ出せたみたいだが、駐屯所に駆け込んだ時は裸同然で……。拐われた先で乱暴をされたらしい」

 喉の奥から声にならない悲鳴が湧き上がった。

 ジェズはビウス駐屯所に向かって走り出した。それまで青褪めて黙り込んでいたフランツは、ジェズが乗ってきた馬の手綱を取り、少年を無言で追った。

 二人が去った後、水夫は顔を覆ったまま崩れて地面に突っ伏した。大きな体躯を小さく丸め、太い指の間から漏れる泣き声はか細かった。


 エリザベスはビウス駐屯所の地下にいた。

 駐屯所の狭い地下室は、つい先程、新たに運び込まれた二人分の遺体が加わり、溢れそうになっている。エリザベスの傍らにはマシュー老人とブラッシュの下でコール貿易商会の経営を補佐していた事務長、そして会社所有の船舶と水夫達を取り纏める船長がついていた。三人はエリザベスを気遣いながら、大粒の涙で顔を濡らしていた。


 六人の亡骸に囲まれたエリザベスは、大声で泣き叫ぶ沢山の遺族を眺めていた。もはや流す涙も枯渇したかのように、白い顔で茫然と冷たい石の床に座り込んでいた。そんな少女の姿は、涼しく薄暗い地下室に棲みつく亡霊のようにフランツには見えた。


 エリザベスがジェズの存在に気付くには時間がかかった。それでも声をかけられ手を握られると、正気を取り戻したように少しだけ目を丸め、栗の実色の瞳をたちまち潤ませて嗚咽を漏らした。

 エリザベスとジェズが互いを抱き締めて大声で泣いている横で、フランツはブラッシュの遺体に近付き傷を確かめた。

 頸動脈を狙った刃物による一撃。それ以外に揉め合った際にできる傷は見当たらない。一瞬でブラッシュは殺されたのだ。殺し慣れた人間の仕業だ。

 フランツは青褪めた顔で唇を噛んだ。そして、エリザベスとジェズに視線を移し、激しく泣きじゃくる少女に向かって言った。


「エリザベス、君の身柄は俺が預かる。もうこの街は君にとって居心地の良い場所ではなくなった。君は、シェースラーと供に王都のシュトルーヴェ家で暮らすんだ」


 事件の主犯がグラッブベルグ公だとしても、こうなった原因の一端は我々にもある。


 ブラッシュの遺体に布を掛け直したフランツは、青い顔で室内を一瞥したあと、溺れそうなほどの悲しみで満ちた地下室を出て行った。






                     第一話 終

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