第一話〜⑦
「お父様、早く帰っていらしてね!」
すると、馬車の後部の小窓が開いて、父が手を振り返してくれた。
「きっとねー!」
父を乗せた場所が角を曲がり見えなくなるまで、エリザベスは手を振り続けた。
何かの予兆があったわけではなかった。ブラッシュが出掛ける時にはいつも見られる、いつもの光景だった。だが、これが、エリザベスが父の笑顔を見た最後の瞬間となってしまった。
夜半、タラは呼び鈴の音で目が覚めた。
身を伏せて寝ていた地下の厨房のテーブルから上体を離し壁の時計を見ると、時刻は間もなく午前一時を指そうとしている。
こんな時間に一体誰が、そう思いかけたタラは、すぐにコール家の主人が外出していたのだと思い出して、急いで玄関に向かった。途中で執事のヴァンと鉢合わせ、共に玄関に辿り着く。その間も呼び鈴は何度か鳴らされた。
エレーヌは縫い物でもしながら夫の帰りを待っているだろうが、エリザベスはとっくに寝台に入っている。早く出なければ呼び鈴の音で目を覚ましかねない。
「只今お開け致します。少々お待ち下さいまし」
錠を開ける執事の背後で燭台を掲げながら、それにしても、とタラは内心で首を傾げた。
商工会の集まりでこんなに遅くなるなんて珍しい。何か仕事の上で問題でも生じたのだろうか。それとも、お嬢様の事でタンサンにしつこく食い下がられたのか。
考え込んだタラの足元に、ヴァンが倒れ込んだ。驚いて、立ち上がる為に手を貸そうと腕を伸ばしたタラは、ヴァンの首元に深く突き立った刃物を見て息を飲んだ。狼狽えていると玄関扉が開き、その先に男が立っているのが分かった。黒髪で背の高い、全身を黒衣で纏った男だ。顔の上半分を白い仮面で隠し、無言でこちらを見ている。
強盗。
反射的にその場を離れようとしたが、首筋に冷たい何かが触れたと感じた直後、眩暈を覚えて床に崩れていた。
喉の奥から熱い液体が込み上げて、口の中に血の味が満ちた。
みんな起きて、逃げて。
そう叫んだはずなのに、口からはゴボゴボと血が噴き出すばかりだ。
タラは激しく咳き込んだ。飛び散った血がサウスゼンから輸入した絨毯を汚し、それを待っていたかのように夜の闇の中から笑い声が聞こえた。
タラの手から落ちた燭台はじりじりと絨毯を焦がしていったが、それよりも流れ出る血の広がりの方が早く、間もなく煙を上げて消えてしまった。
僅かな灯が消され、コール家の屋敷は闇に包まれた。
その闇の中を、幾つもの生きた闇が駆け抜けて行った。
「娘以外は騒がれる前に殺せ。金目の物は持てるだけにしろ。室内は適当に荒らしておけ。強盗に見せ掛けろとの仰せだ。決して余計な事はするな」
一人の闇が、遅れて中に入ってきた。
闇は押し殺した笑いを漂わせ、剣に付着した血糊を拭い取っていたローフォークは冷えた視線を向けた。
「見せ掛けろって? 我々のこの行いは間違う事なく強盗だ。違うか?」
その問いに、ローフォークは答えなかった。闇は不快に舌打ちし、邸の奥に消えていった。
全ての闇が遠のき、一人になった。
足元には、喉を切り裂かれた二人の死体が転がっていた。
「すまない」
それだけ言い残すと、ローフォークもまた邸の奥へ、二階へ繋がる階段に向かって歩き出した。
二階にはコール夫妻の寝室と、一人娘のエリザベスの部屋がある。邸内の情報は事前にタンサンから見取り図を入手し、把握していた。足は迷う事なくエリザベスの部屋にローフォークを運ぶ。
不意に、二階の一室から何かが割れる音が響いた。立て続けに、女の短い悲鳴もあがる。それきり一切の物音は途絶えたが、ローフォークは眉間に皺を寄せて舌を打った。階段を上りきったところで、コール夫妻の寝室から一人の闇が出てきた。闇はローフォークと目が合うと、ばつが悪そうに視線を逸らして部屋の扉を閉めた。
エリザベス・コールの部屋は、今、闇が出てきた部屋の二つ奥になる。番兵をするかのように扉の前に立つ闇の前を通ると、扉の向こうから男の乱れた息遣いが聞こえた。
ローフォークは再び舌打ちした。
余計な事はするなと言っただろうが!
夫妻の寝室で何が行われているのか、容易に想像がつく。手早く集められる人員とはいえ、やはりあの男を引き込んだのは間違いだった。
ふと、視線を感じて顔を上げたローフォークは息を飲んだ。
さっきまで確かに閉じられていたエリザベスの部屋の扉が細く開いている。狭い隙間で繋がれた廊下と部屋の間では、寝間着姿の少女が暗闇でもはっきり判別できる青褪めた顔でこちらを見ていた。
「何をしているの」
少女の声はひび割れていた。
「そこはお父様とお母様の部屋よ。貴方達、誰?」
言葉を発するにつれて、愛らしい顔が恐怖で歪んでゆく。
自分の背後では、闇を装った仲間がたじろいでいるのが分かった。
夫妻の寝室から男の高笑いが聞こえた。
途端に少女の栗の実色の瞳が大きく見開かれた。両親の寝室で起きている不快で忌まわしい事態を察したのだ。
「お母様!」
エリザベスは部屋を飛び出した。
ローフォークに目もくれず擦れ違う瞬間、少女の寝間着の襟を素早く捕らえてその身体を力任せに壁に叩き付けた。頭を打ったのか、少女はそのまま壁伝いに崩れてローフォークの腕に収まる。
猿轡を噛ませて両手両足を縛り上げると少女を肩に担ぐ。傍らに立ち尽くす仲間に、少女の部屋を適当に荒らしておくように指示を出し、コール夫妻の寝室の扉を強く蹴った。
「いつまでくだらない事をしている! 退くぞ!」
ローフォークの怒号に対して返ってきたのは、またしても男の笑い声だ。
「ちっ、クズが」
この舌打ちが、今夜何度目になるのか分からない。
指示を受けた闇がエリザベスの部屋に入るのを見届けてから階下に向かった。
一階に降りると他の闇達がそれぞれの役目を終えて待っていた。
手には血が付着した得物と膨らんだ袋が握られていた。袋の中の略奪品が、そのまま彼等の報酬となる約束だった。
「散れ」
その一言で、闇達は邸宅の中から消え去った。
ローフォークがコール家の邸宅から出ようとした時、エリザベスの部屋を荒らしていたはずの闇が姿を現した。手には見覚えのある小さな花型のペンダントを一本握り締めていた。
「それだけで良いのか?」
ローフォークの問いに闇は答えなかった。
仮面の下で、ローフォークの目が細められた。
「……見逃してくれ。もうこんな事はしたくない。俺はこれで最後にする」
「そうか。ならばすぐに王都へ向かえ。第二連隊のフランツ・シュトルーヴェを頼ると良い。奴ならお前を上手く国外に逃してくれるだろう」
「あんたは逃げないのか? あんたこそ、こんな真似」
「俺は……」
言いかけて、口元に苦い笑みを浮かべた。
「もう手遅れだ。何処にも逃げ場は無いし、逃げるわけにはいかない」
「そうか」
「もう行け。マートンに聞かれると厄介だ」
「分かった。すまん」
それだけ言って、闇は立ち去った。
邸内にはまだ一人の闇が残っているが、いつまでもグズグズしているわけにもいかなかった。グラッブベルグ公がこの娘を待っているのだ。
タンサン家の敷地内に建てられた別邸にエリザベスを運び込んだ時、少女の到着を待ち詫びているはずの公爵は、すでに別の女と同衾していた。到着を待ち切れなかったのだろう。それでも少女の猿轡を取り、眠るように気を失っている顔を確認するや否や、横になっていた全裸の女を追い出してエリザベスを寝台に横たえさせた。
「なんと、愛らしい娘だ。気に入ったぞローフォーク。よくやった」
公爵は嬉々としてローフォークを褒めたが、意識は既にエリザベスの素肌に触れる事に傾いていた。堅く縛られた手足の縄を解く。そして、公爵の手が寝間着にかけられる前に浅く一礼をして、寝室を出たのだった。
* *
目を覚ましたエリザベスは、まず最初に背中と後頭部の痛みに疑問を持った。
どうしてなのか理由を思い出せないうちに、今度は身体の上を這い回るべったりとした存在に気付いた。それはまるでナメクジが不意を突いて手の上に落ちてきた時の様で、瞬く間に身体中に鳥肌が立った。
身体を這っていた何かがエリザベスの両脚を抱えた。ハッとして上半身を起こしたエリザベスは、薄い闇の中に浮かび上がる全裸の男と目が合った。
「ああ、気が付いたか」
グラッブベルグ公はニヤリと笑った。
「心配せずとも良い。大した事ではない。そなたはただ横になって、大人しく儂を受け入れれば良いのだ」
そう言って公爵は膝立ちになり、身体の真ん中で反り勃つ物を見せ付けた。背中を見えない氷が滑り落ちたかのように身体中に鳥肌が立った。
「可愛い子だ。少し痛いかもしれんが、我慢せいよ」
呆然と何も答えられずにいる少女に向かって笑い、再び脚を抱え直した。公爵の唇が内腿に触れた瞬間、反動の様に冷え切ったはずの血が沸騰した。
エリザベスは脚を振り上げてその手を払い、グラッブベルグ公の顔を蹴り上げた。そして、顔面を押えて仰け反った公爵の、誰だろうと知っている男の急所を目掛け、激しい怒りに任せた渾身の踵蹴りを繰り出していた。
* *
エリザベスをグラッブベルグ公の寝室に置き去りにした後、ローフォークは一階の暖炉のある部屋に移った。タンサン家の別邸にはローフォークの寝室も用意されていたが、部屋はグラッブベルグ公の寝室と近く、いずれ意識を取り戻すだろう少女の泣き叫ぶ声が聞こえてくるのは必至で、落ち着いて眠れそうになかった。どのみち、『仕事』の後は決まって眠る事ができない。
季節は五月の下旬だが、この辺りの夜はまだ冷える。小さな炎を揺らす暖炉の側の長椅子に腰を下ろして、長く深い息を吐き出した。
まだ着けていた仮面を外して、左手で顔を覆う。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
ここまでする必要が何処にあった?
ただ一言、ブラッシュ・コールに領主の権限を以て命じれば、それで全てが丸く収まったはずだ。娘は不幸な結婚をすることになるが、それだけの事で、家族を失う事もなく、今夜のように陵辱を受ける事も無かっただろう。
こんな事はしたくない。俺はこれで最後にする。
そう言えたあの男が羨ましかった。
何度その言葉を叫ぼうとしたか、自分でも分からない。ただ一度だけ、懇願した事があった。結果は公爵の怒りを買い、それまで以上の陰惨な役目を負わざるを得なくなった。
夜が明ければ、コール家の惨事は街中が知るところとなる。あの娘は賊に陵辱を受けた傷物として晒される事となる。その好奇の視線にエリザベス・コールは耐える事ができるのだろうか。
少女と出会ったのは、つい昨日のことだ。
あの時、エリザベス・コールは両親の愛情を一身に受けて、幸福そのものに見えた。それがたった一夜で何もかもを壊された。壊したのはローフォークだ。
長椅子に横たわり天井を見上げた。暖炉の火が蜥蜴の舌のようにちらちらと赤い光を投げている。
感情の行き場が無い。
ローフォークは背凭れを強く殴った。
「くそ、うんざりだ!」
「そんなに嫌ならやめちまえ」
身を起こしたローフォークは、部屋の戸口に立っている男を見付けて眉間に皺を寄せた。
「マートン、何故ここにいる。他の連中はトビアスに戻ったぞ。失せろ」
「つれないこと言うなよ。ガキの頃から一緒に悪さしてきた親友じゃないか。なあ、カレル」
「気安く呼ぶな、誰が親友だ!」
ローフォークが吐き捨てた言葉にマートンは片頬を上げて笑った。
「そうだよな。俺とお前じゃ、グラッブベルグ公に従っている理由が違う。仲間じゃあないよな。だがな、おい」
マートンは上着の中に手を入れ、細い鎖が付いた花型の小物を取り出した。つい最近見た記憶のあるペンダントだ。
「俺の部下に余計な事を吹き込むのはやめろ。あいつは優秀な軍人だったのに、惜しいことをした」
「殺したのか」
ローフォークは呻き、マートンは笑顔に悪意を滲ませた。
「当然だ。あいつは俺達をシュトルーヴェに告発するつもりでいた」
「訴え出たところで、シュトルーヴェ家にできるのは極秘に国外へ逃すことだけだ。軍務省配下の軍人が関わっている。事が明るみになれば大臣の立場も危うくなる。グラッブベルグ公を失脚させる事は容易ではない」
「分かってるさ。俺はただ壊すのが好きなんだよ。だから、ここに来たんだろ。お前に礼を言うために」
「礼だと?」
訝るローフォークにマートンは一歩近付いた。ローフォークの手が腰に提げた剣に触れる。
「ありがとよ、ローフォーク。俺は今夜、二人も人を壊すことができた。お前があいつの逃亡を見逃してくれたおかげだ。以前からあいつはもう駄目だと思っていた。始末する切っ掛けを作ってくれて助かった。それに、今回の招集に感謝する。娘想いの佳い女をやれた」
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