第一話〜⑥
グラッブベルグ公のお供で公の領地へ。
ビウスという運河街。
タンサンという名の商人。
公爵と繋がりがあるという事は、真っ当な商売をしていないのだろう。大方、多額の上納金を納める代わりに、不正の数々に目を瞑ってもらっているというところか。
ビウス。タンサン。
やはり、最近どこかで耳にした記憶がある。いつ? 何処だった?
思い出せ。
曖昧な記憶にしだいに苛立ち、眉間には皺が寄った。
執務机には未処理の書類が山のように積まれている。同じ執務室では副官のロシェット大尉が、天井を仰いだまま考え事に耽っている上官に厳しい視線を送っているが、どうにも胸騒ぎがして書類に目を通す気になれない。
公爵は自分の娘を未来の王妃にしようと画策していたところを俺の父上に邪魔されてかなり機嫌が悪い。そんな時、公爵はいつもカレルに何をさせていた。カレルを同行させる時は己の残忍な欲求を満たしたい時だ。商人に集って遊び金を出させるだけなら、カレルではなくとも良いはずだ。
考えろ。
不意に、背後から銃声が聞こえ、フランツは振り返った。
第二連隊長の執務室には南向きに窓があり、そこから射撃練兵場が見える。ちょうど訓練が行われていたようで、フランツは思考するのを止め、目を凝らして訓練の様子を眺めた。
射撃訓練を行なっているのは昨年の長期休暇明けに入ってきたばかりの新米兵士だ。
野戦服に包まれた身体は、指導を行う教官達と比べると丈は低く幅も細い。年齢は十五から十六歳の約四十名。彼等は半年間の基礎訓練後、新兵から二等兵に昇格し各駐屯所に配属されてからも、このように定期的に召集されて訓練を受けていた。
二等兵達は教官の号令に従って、ぎこちない手付きで発砲準備を整える。再び号令がかかり射撃態勢をとった。三度目の指示で一斉に引き金が引かれ銃口から銃声と硝煙が上がった。
射撃場所から的までは、凡そ六十メートル離れていた。殆どの新兵が的を外していたが、ただ一人だけ、的中央の星の隅に撃ち込んだ者がいた。新兵の中でも特に身体の細い少年兵だ。
同期が注目する中で、引き金を引くたびに標的の修正を行い中心に近付いて行く。
『やはり、あいつは筋が良い』
口元にはいつの間にか笑みが浮かんでいた。
ふと、先からずっと絡んでいた記憶の糸がするりと解けた気がした。
そうだ。シェースラーだ。
ビウス運河の事も、タンサンという名前も、全部あの少年兵から聞いた話だ。それを思い出してすっきりしたと同時に、全身から血の気が引く音を聞いた気がした。
『あのイボ蛙!』
得られた情報から結論を導き出した直後、椅子を蹴って執務室を飛び出していた。副官の怒りの呼び止めを無視し、フランツは練兵場に向かった。
* *
一度目の射撃を終えた後、ジェズは自分が撃った的の弾痕を見て顔を顰めた。
どの弾も当たってはいるが、的の芯を捉える事ができていない。銃口は中心の星をしっかりと狙っているはずなのに、発砲の瞬間の反動に、銃を支える腕が力負けをしてしまっている。
「よし、次!」
指導教官の合図に従って、ジェズは撃ち終えたばかりの銃を担ぎ、次の訓練兵に場所を空けた。
列の最後尾に並び、再び順番が回ってくるまでの間、ジェズは同期達の背中や指導教官達の立派な体躯を眺めて溜息を溢した。
もっと腕に筋力を付けないといけない。いや、腕だけじゃない。自分は他の新兵と比較しても明らかに細い。もっと身体全体を大きくする必要があるんだ。とにかく食べて動かなくては。
「おい、ジェズ。ジェズ」
顰め面で考え込んでいたら、隣の列の少年兵に声を掛けられた。
「お前、やっぱり凄いな。どうやったらさっきみたいにあんな中心近くに当てられるんだよ」
「コツなんて無いよ。教官から教わった通りに狙って、後は上体がどうしてもブレるから、そのブレが極力少なくて済むように踏ん張る、とかかな」
「ふーん」
ジェズの言葉に少年兵は自分の身体を眺めた。そして、「ブレない自信はあるんだけどな」と言って白い歯を見せて笑った。
少年兵はジェズと同じ十五歳だが、その体格は厚みがあり、棒倒しの棒のようなジェズと比べると遥かに将来有望に見えた。
入隊してから最初の一年は、使える者と使えない者とを篩にかける期間なのだと聞いていた。入隊してすぐの基礎訓練期間で体力のない者を落とし、その後の訓練で指示に的確に対応できない者、銃、剣、乗馬、格闘の技術面で及第点が取れない者を落としてゆくのであると。
上官の指示に忠実に行動できるかどうかは、多分大丈夫だ。技術面でもどうにか及第点はとれるはずだ。叱責を受ける事もしばしばあるが、それなりにやれていると思う。ジェズが最も不安に思っているのは、軍人に必要な体力だった。半年間の基礎訓練期間を乗り越えたのだから大丈夫だと信じたいが、この期間で何人もの新兵が脱落していった。いずれもジェズよりしっかりした体格の少年達だ。基礎訓練を終えて、新兵達の体格には見た目にも差ができた。みるみる筋肉を付けて身長も伸びる同期がいれば、それなりに体力も筋力も付いたが理想とは裏腹に細っこいまま身長にも伸び悩んでいるジェズのような者も少なくなかった。
筋肉の付き方も身長の伸びる時期も人それぞれなのは分かっているつもりだ。細いと言っても、一応は世間の十五歳の平均よりはマシなのだし。だが、軍人として、ここまではっきりと成長の違いを突きつけられると不安になってしまうのだ。
あいつはとても軍人に見えない、なんて理由で落とされたくは無い。見た目が頼りなくても、あの新兵には秘められた素質があると思われたかった。
幸い、ジェズは射撃の腕を上官から見出されていた。それも、ジェズが所属する第二連隊の連隊長から直々に声をかけてもらえたのだ。自分に人より優れた物があるのなら、それを極めない手はない。他はてんで駄目だったとしても、射撃に関してはジェズ・シェースラーの右に出る者はいないと言われたかった。だから、尚のこと、思い通りに成長しない自分自身がもどかしくて仕方がなかった。
再び順番が巡ってきて、ジェズは地面に片膝を着き、一連の発砲の準備を行った。右肩に銃床を充て、六十メートル先の目標に銃口を向けて狙いを定める。右手の親指でゆっくり撃鉄を上げた。ここからが肝心なのだ。
ジェズは脇を引き締めて上体に力を入れた。発砲の反動に備える為だ。
引き金に添える指に力を入れた。
「シェースラー!」
突然の呼び声に驚いて、一瞬だけ力みが抜けた。その時には既に引き金は引かれていて、点火薬から装薬に着火した後だった。銃口から小気味良い破裂音と硝煙が上がり、態勢を崩してジェズは尻餅を着いていた。
「しまった」
慌てて身を起こして標的を確認して、唖然とした。
銃口から飛び出した弾丸は標的の真ん中に命中していた。
大きなどよめきが背後で起こった。ジェズ自身にも信じられなかった。すぐそばで指導教官が気味悪いくらいジェズを褒めているが、当の本人は呆然と標的を眺め続けていた。
そのジェズを現実に引き戻したのは、またしても自分を呼ぶ声だった。
「シェースラー二等、やるじゃないか。的の真ん中か!」
前触れも無しに現れた連隊長に、その場の全員が起立し敬礼を施した。尻餅を着いていたジェズも慌てて立ち上がり、それに倣う。
「あ、ありがとうございます!」
「こちらこそ、素晴らしいものを見せてもらった。ああ、続けて続けて。ビッテルス大尉、シェースラーを借りるぞ」
「え? じ、自分をですか?」
「うん、そう」
フランツはあっさり頷いた。射撃教官は突然で腰が引けている新兵の事などお構い無しに、フランツに返事をして訓練を再開した。
自分は何か拙い事をしてしまっただろうか。
そう思ったのは、いつも柔らかい笑顔の第二連隊長の表情が固かったからだ。フランツに付いて再び雨のように銃声が鳴り響く練兵場を出て行きながら、ジェズは強烈な不安に駆られていた。
「シェースラー。以前話していた、妹同然の子に結婚の申し込みがあってから、その後、何か進展はあったか?」
練兵場を出てすぐの私的な質問に呆気に取られたが、フランツは歩みを止める事なく第二連隊庁舎の敷地内を移動し続ける。ジェズが戸惑って何も答えられずにいると、フランツは再び同じ質問をした。
「は、はい。一昨日、手紙が来て、正式に断る事になったと喜んでいました」
一昨日。ローフォークが休暇をとった翌日だ。
「その手紙の消印はいつだ? ビウスから王都まで、どれくらいで手紙は着く?」
「ええと、消印は四日前です。速達では無かったので、ビウスから王都までは二日で手紙が着く計算になります」
「と、言うことは、人の移動も二日か」
フランツは立ち止まり、顎に手をあてて考えた。グラッブベルグ領へは陸路しか交通手段がなかったはずだ。だとしたら、カレルはとっくにビウスに到着している。
傍らで、ジェズが困惑した表情でフランツを見上げていた。
「シェースラー、お前馬に乗れたな」
「はい。僕を育ててくれた人が色々と習わせてくれましたから」
「よし、それじゃビウスに行くぞ。訳は追って話す。今は時間が無い。案内してくれ」
「え? は、はい!」
返事をするや否や、フランツは走り出した。ジェズは慌てて上官の後を追ったが、頭の中は意表を突く出来事の連続で混乱していた。
『エリザベスがどうしたと言うんだろう。シュトルーヴェ連隊長はエリザベスの身に何かが起こると思っているんだろうか』
ジェズは両目をきつく瞑った。
小さかった頃から、ジェズにとって誰よりも大切な女の子だった。瞼を閉じれば、今でも少女の笑顔が浮かぶ。
お願いだ、エリザベス。
どうか、どうか、無事でいて!
* *
陽が落ちる少し前になって、屋敷の前の街路灯に灯が点された。
遠くの運河港にも同様に灯が点されたのか、屋敷の二階の窓からは港の灯りの一部が見える。
窓際の寝台に腰掛けて、エリザベスは壁に寄り掛かりながら運河の灯りをぼんやりと眺めていた。
今日、また運河港に行ってみた。もしかしたら、あの人がいるかもしれない。そう思ったからだ。
朝食を終えてから昼近くまで、ビウス橋の上で行き交う人々の顔を確かめていた。途中、タラが日傘を持って現れたので一時間程はその場にいたが、五月下旬の好天の下で自分に付き合ってくれるタラが気の毒になって、ビウス橋近くのカフェでミルクをたっぷり入れたショコラを飲んでから帰った。
いるわけがない事は分かっていた。だって、あの人はもうビウスを出ると言っていたのだから。
それでも、もしかしたらと、そんな想いがエリザベスの内にはあった。
自分はどうしてしまったのだろう。昨日からずっと鳩尾の辺りがぎゅうぎゅうと苦しい。父親が帰って来て嬉しいはずなのに、頭がぼんやりとして何も考えられなくなっている。ぼんやりしていると思えば、間近で見た濃紺の瞳を思い出して、また胸が痛くて苦しい。まるでサボテンでも飲み込んでしまったみたいだ。
「ああ、もう。嫌になっちゃう」
寝台に倒れて呻いたエリザベスは、聞こえてきた馬蹄と車輪の音に身を起こして窓の外を見た。屋敷の前に一頭牽きの小型の馬車が停まっている。今夜は商工会の集まりがあった。
エリザベスが急いで玄関までやってくると、父は執事から上着を受け取って羽織るところだった。父の傍らには母エレーヌの姿もある。
「お父様」
「ああ、エリザベス。ちょうど貴女を呼びに行こうとしていたの。お父様がお出掛けよ」
母は娘を夫の側へ招いた。父は、娘と同じ栗の実色の瞳を細めて微笑んでいる。
「エリザベス。約束通り、きっちり断ってくるよ。向こうはどうしても跡継ぎに嫁が欲しいのだろうが、お前が苦しむ事になると分かっていて嫁がせる事なんて出来ないからな。これまで随分としつこくされていたが、それも今日限りだ」
「ありがとう、お父様」
エリザベスは父の胸に顔を埋め、それから背伸びをして頬にキスをした。父はエリザベスの額にキスを返すと、同じように母の頬にもそうした。
「では、行ってくる」
「行ってらっしゃい、お父様」
「行ってらっしゃい、あなた」
娘と妻に見送られて、ブラッシュは馬車に乗り込んだ。
馬車が走り出すと、エリザベスは玄関を飛び出し、表の庭を門まで走った。これ、また! と母の叱る声が聞こえたが、エリザベスは屋敷の門に辿り着くと遠ざかる馬車に向かって大きく手を振った。
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