第38話 オーロラ(曙色)の目覚め
12月も終わりの三連休の初日、鎌倉の一条邸
その日も、居間のソファで秀平は参考書を読んでいた。
美月が現れて、隣に座る。
秀平は一瞥して、再び参考書を読み耽った。
美月はスマートフォンを触りながら眺めている。
週末には珍しくない光景。
30分ほど経っただろうか、秀平は読み終えた参考書をサイドテーブルに置いた。
美月は足をソファに乗せ、秀平の左手側に背で寄りかかるように座っていた。
これはちょっと珍しい光景。
渡邉の件があったからなのか、やはり不安が拭えないのか、美月は秀平にくっついてくることが増えていた。
参考書を読みながらも、時折空いた左手で美月の髪を撫でていた秀平は、そのまま左手で美月を抱き寄せると、美月の頭に自分の顔を寄せた。
「秀ちゃん?」
スマートフォンを操作する手を止めずに美月が尋ねる。
秀平は黙ったまま美月の頭に頬擦りをした。
「……美月が無事で良かった……っ」
吐息のような呟きが漏れる。言葉に込められた想いに共感して、美月も呟いた。
「うん……」
もうすぐ二学期が終わる。
連休の終わりに両親が帰国して、クリスマスと年末年始を家族で過ごしたら、新しい年が始まる。
気持ちの問題だけではない、時間という絶対的な次元で「今まで」に一区切りがついて、「次」へと進むのだ。
スマートフォンを手放して、自分を抱く秀平の左腕に両手を添える。
「秀ちゃん、ありがとう……」
抱き寄せる左腕の力が強まり、美月は後ろから抱かれるような感じになった。
すぐ右に迫る秀平の顔が頬を寄せ、そのまま肩に埋められる。
「守れて良かった……」
耳元で囁かれた声はいつもより二段くらい低いハスキーボイスで、今回の件がどれほど秀平を案じさせていたかが伝わってくるようだった。無事過ぎ去った今となっては、そのすべてが美月にはこそばゆかった。
……こんなに大事に思って貰って、さすがに、もう、覚悟しなくちゃダメだよね……。
美月は橘との会話で一つ決断をしようとしていた。
具体的に何をしたらいいとかは全く分からない。けれど、自分の気持ちははっきりと分かっていた。
それだけで、美月にはいっぱいいっぱいの
二人は暫くの間そのままの体勢を続けていた。
美月は秀平に守って貰えてると実感できて、とても心地良かった。
秀平は自分の手の中に、安心しきった美月が居ることがこの上なく心地良かった。
いつまででも、穏やかな気持ちで、そうしていられそうだった。
「……今回のこと、美月にちゃんと話しておこうと思う」
秀平が不意に切り出した。
「結構重いから、覚悟して聞いて欲しいかな……。このまま話していいかな」
美月を抱く腕が少し強くなった。
美月は身体を秀平の身体に、頭を秀平の頭に預けて目を閉じた。
「うん……」
「渡邉の件は、警察から説明があった通り。噂通りの三人が交際していた。裏付け証拠も揃えられたらしいから、三人だけで間違いはないと思う。……家族には連絡済みで、渡邉は刑事告訴される。何故美月が狙われてしまったか、具体的には説明してないみたいで分からないけど、あいつがしたことに処罰が出来て、あれ以上美月を触られないで、本当に良かったと思ってる」
説明が無くても秀平は分かっていた。美月が狙われたのは魅力的だからだろう。サニーからも報告は受けていた。これからも、不安要素は増えるばかりで消えることはないだろう……
肩を握る指に力が入る。秀平は美月に顔を刷り寄せる。
美月への想いに浸っていた秀平は、ふと、違和感に意識を削がれた。
……珍しいな。俺がこうやって構うと、すぐに嫌がって逃げ出すのに。
美月が甘えてくるのはいつも少しだけ。怖い時とか、不安な時とか。気分が良くてふざけ半分の時はごく稀で、自分の気が済むとサッと離れていく。
……それだけ、怖かったんだろうな。渡邉が居なくなったからって、
警察が女性のカウンセラーを紹介してくれた。美月の負担を減らせるようにソーシャルアプリでも気軽に対応してくれるらしい。
年末には両親が帰ってくる。その時には母親からも話を聞いて貰える。
……俺に出来るのは、こうやって少しでも安心させてやるだけ。
抱き壊してしまいかねない想いを抑えて、抱く力に加減を加えた。
「全部秀ちゃんのお陰だよ」
美月の声に含まれる安堵の喜びに、秀平は心地好く耳を傾けた。
「俺はなんにも。サニーが全部やってくれたんだ。
「うん。でも、橘さんが秀ちゃんの代わりに来てくれてるって分かった日まで……20日間?……一日一日はすごく長く感じたけど、たった20日間で済んだのって、奇跡みたいなことなんだよ」
「あぁ、そうなのか。もっと早く知らせておけば良かったんだな。ごめん」
俺はまたミスったのか……学校へ入り込んだのが俺だったら、こんなに早く、上手く片付けられたとは思えないな、と秀平は考えていた。
「ううん、そういうことじゃないよ。知らされてたとしても、そんな簡単に気持ちは切り替えられなかったと思う……。実際に助けて貰って実感できるっていうか……、だからあれが最短だったんだよ?」
「……美月は優しいね」
「優しいのは秀ちゃんだよ。……橘さんは、本当に良くしてくれたと思う。きっとやってくれたことの、ほんの一部しか美月は知らないと思うけど、すっごく感謝してる。そんな言葉じゃ軽すぎて失礼なくらい、感謝してる」
「うん、俺も」
愛おしい気持ちが溢れて、秀平はまた、美月に頬擦りをした。
「でも、それだって秀ちゃんのお陰なんだよ。秀ちゃんが居なければ橘さんだって何だって、始まらなかった。美月の奇跡も起こらなかったの。……全部秀ちゃんのお陰なんだよ……」
「……そっか……」
また、少し静寂が続いた。
二人はお互いの体温を感じながら、それぞれの心中にわき起こる想いに身を委ねていた。
「……あと、金井栞さんの件なんだけど……」
秀平の声が少し低めに話を再開した。たぶん、こっちが本題、と美月は意識の中で拳を握った。
「金井さんのお父さん、投資会社の社長だったんだけど、裏で組織的な特殊詐欺をやってたんだ」
想定外の重さに、胃が悲鳴を漏らした、そんな感覚が美月を襲った。
「栞さんは、何か知ってしまって、確かめたかったんだと思う。受け子……って分かる?」
「うん、詐欺のお金を被害者から直接受け取る人でしょ? 高いお金を貰える割のいいバイトって言って、学生とかが使われるって、警察の講話で教わったよ」
「正解、捕まる危険が高いから、切り捨て要員として詐欺グループがパシりに使うんだけど、……父親と繋がってる詐欺グループの受け子をやったらしい」
「え……?!」
……あの、賢い金井さんが……?!
秀平の腕に触れてた指の先から、体温がスッとひいていく。
「詐欺グループの方は大元のボスの素性は知らなかったみたいで、栞さんが年齢詐称してるのは気づいてたけど、父親のことを探りに来たボスの娘だとは思いもしなかったらしい。タチの悪いグループだったみたいで……」
秀平は少し言い淀んで、美月は無意識に唇を強く結んだ。
「
美月から身体中の感覚が消えた。秀平の腕を掴む手が小刻みに震えている。自分の手ではないみたいな
「栞さん、売春はずっと抵抗してたらしい。美月に話そうとしてたことはそれだったと思う。……美月に、俺に、助けて欲しかったんだと思う」
震える美月の身体を支えるように、秀平は右腕も回して、美月の手を掴んだ。冷たい手が無数の
美月の目は涙に溺れていて、必死に
近くにタオルなどが思い当たらなかった秀平は右手の袖を引き延ばすと、掴んだ袖で美月の涙を拭った。柔らかさのある厚手の綿素材で良かった、と思いながら、それでも美月の肌を傷つけないようにと、そっと押さえるように拭う。
「……あの日、俺たちに会おうとしてた栞さんは、詐欺グループの主犯格に捕まって、逃げ出そうと揉み合って階段から落ちたらしい。全部向こうの証言しかないから……本当のところは分からないけど……」
殺されたのかもしれない……その可能性は
自ら落ちたのかもしれない……その可能性も
あの日の、ハロウィンの夜の、消え入りそうな美しさの金井栞を思い出していた。
栞の言葉の一つ一つを思い返して、栞の心情を
……金井さんは苦しんでてもあんなに優しくしてくれたのに……っそれどころじゃないはずなのに助けにきてくれたのに……っ
『助けたかった。……助けられなかった……。』
美月も秀平も二人とも同じ気持ちだった。
美月は嗚咽を漏らし始め、秀平の袖を強く目に押し当てて泣いた。
「美月たちが会った田中一郎いただろ?あいつが詐欺グループの主犯格で、栞さんを脅迫してたんだ。詐欺グループの実態と売春強要はサニーが調べてくれて、警察に捜査して貰ってる。実行犯と金井さん……栞さんの父親は罪に問えるだろうって話だ。田中一郎は前科もいっぱいあるチンピラだから、間違いなく実刑くらわせられるって」
嗚咽する美月に言い聞かせるように、秀平は優しく言葉を続けた。
「栞さんを苦しめてた奴らも、ちゃんと処罰されるよ。サニーが全部上手くやってくれた。これ以上ないってくらいに、あいつほんと凄いんだ。正直、あいつが居てくれて俺も助かったよ」
「うんっ……ひっく……ぅんっ……しゅ、ちゃんっぁりがとっ……たっ……ひっく……ちばなっさんあっ……りがとぅっ……」
むせび泣きながら必死で伝えようとしている美月をいじらしいと秀平は思った。
「いいよ……美月。無理して話すことない。分かってるから。抱えきれない想いだけ吐き出せばいい、全部出して、泣きたいだけ泣いて」
シーシュポスの岩さながらに報われない
今回の件で、美月は自分たちがどんなに無力かを思いしっていた。
大人の助けがどんなに必要か痛感していた。
美月には秀平が居た、橘が居た。だから救われた、ただそれだけだ。
金井栞には秀平が居なかった、橘が居なかった。他の誰かが居なかった。
ただそれだけ……だが、それだけと言うには悲しすぎる現実だった。
美月は残酷な現実を受け入れたくなくて、ただひたすらに涙を流した。
金井栞が、可哀想で、どうしようもなく可哀想で、涙が止まらなかった。
……あと少しだったのに、あと、ほんのあと少しで、秀ちゃんに届いたのに……っ
美月は嗚咽を堪えながら、優しく覗き込む秀平に目を合わせた。
私の
美月の脳裏に、白から紫のグラデーションの小さな花が一斉に咲き、秀平を埋め尽くそうとしていた。
目から涙と共に、想いが溢れでる。
「……大丈夫。そばにいるから。美月の
琥珀色の瞳からいつものように暖かい何かが流れ込んでくる。
癒しの光が美月の心を包んだ時、小さな花は光に溶けるように消えた。
ヘリオトロープはもう咲かせない。
「しゅ……ちゃんっ……す……ひっくっ……だぃっ……すっ」
優しく細められていた琥珀色の光が、一瞬大きく煌めいて、すぐ消えた。
美月の言葉を遮るように、秀平はきつく目を閉じて、美月の背を強く抱き締めていた。
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