第37話 ヒュペリーオーンの音物
秀ちゃんと一緒に呼び出されたあの日以降、渡邉先生を学校で見ることはなかった。先生達からは、一身上の都合で退職した、とだけ知らされ、生徒達は皆物分かり良く受け入れた。表立って騒ぐ必要がない程、水面下では十分な情報が「噂」として飛び交っていた。そして、それも時間と共に忘れられていく。
サクリ、サクリ、と枯れた芝が音を立てる。
美月は一歩ずつ、ゆっくりと足を運ぶ。
真帆先輩、島崎先輩、宮原先輩は、何事もなかったかのように学校生活を過ごしている。当人達も周囲の人も、みんな心のうちにそれぞれ思うことを隠したまま、簡単に日常が戻っていた。
その平然とした様に違和感がない訳ではない。
でも、一刻も早く忘れたい、無かったこととして忘れたい、と思う私がいる。自分自身ですらそうだから、他の人になんて知られたくないし、知られた人には忘れて欲しい。だから、公にしない学校側には心底感謝してしまう。
けれど、それで本当に良かったのだろうか。頭の中でそう問いかける声も消えない。
教育って、学校って。なんなんだろう。
こういう事件が起こった時の、正解ってなんなんだろう。
私は、どうしたらいいんだろう。
木枯らしが立木の間を吹き抜ける。
髪を吹き上げられ、美月は風の軌跡を目で追った。
冬の空気は澄んでいて、空は遥か広がっている。
香鈴奈とだけは、たまに話している。どういう経緯か分からないけど、大人の知るところとなって良かったよね、とか。やっぱり警察沙汰になったらしいね、とか。早くに対処してくれて助かったよね、とか。
私と同じで詳しいことは知らないはずなのに、全部秀平さんのお陰だね、本当にスーパー
サクリ、サクリ。
足音を際立たせる静寂が、はりつめた空気を冷却する。
白い息が美月の小さな痕跡を残しては消える。
渡邉先生を最後に見たあの日から、毎日温室に立ち寄っている。
偶然の再会を毎日待った。
もしかしたらもう逢えないかもしれない、あの人、橘さん。
ガチャッとドアを開ける。
温度差が風を生み、美月を暖かい室内に招き入れる。
赤橙色の花の咲く木の前には、佇む背の高い
セコイアの木みたいに雄々しくて美しい。
青青とした植物たちが「良かったね」と声なき祝福を告げていた。
「こんにちは」
いつも通りの、屈託のない笑顔が眩しく飛んできた。
「こんにちは。橘さん、今日は……?」
橘の
「温室内のメンテナンスにね。出来るだけ澤木さんから引き継いだ状態のまま、次の人に引き継ぎたいと思って」
あぁ……やっぱり……。
「……橘さん、事務員辞めるんですね」
名残惜しさに彼を見つめた。
橘は気まずそうに美月から体の向きを逸らすと、頭を軽くかきながら答えた。
「秀平からの任務は達成されたからね。折角出会った
予想していた答えに、思ったほど悲しみは感じなかった。むしろ、「残念」という言葉に胸が温かくなった。
橘さんが残念に思う
「橘さん、ありがとうございました」
朗らかに微笑む美月に、橘は顔だけ振り返った。
「たくさん助けて貰って、私はもちろんなんですけど、……秀ちゃんの無茶なお願いをこんなに引き受けてくれて、本当にありがとうございました」
美月は深々とお辞儀をする。
「秀ちゃんにそうさせたのは、私のせいだから。きっと秀ちゃんも橘さんにちゃんとお礼はすると思うけど、私からもちゃんと言わないとって思ってました」
にこっと笑った美月に、橘は少し意外そうな顔をした。
それからすぐ、少年のような笑顔になった。
「どういたしまして。ねぇ、美月さん。美月さんは秀平が好き?」
唐突な質問の意図するところを
けれど、呪い言も受け止めてくれた橘への答えに、選択肢は一つしかなかった。
「はい」
橘はふっと俯き加減に微笑すると、
「秀平も美月さんが大好きだと思うよ」
と楽しそうに笑った。
相変わらず不思議な人だと思った。
美月の相槌は、切なさと嬉しさに溢れたあの
その表情に少しはにかんだ橘は、美月にベンチを薦め一緒に腰をかけた。
目線を美月に合わせて言葉を続ける。
「好きな人が独りで苦しんでいたら、美月さんはどう思う?」
今度は質問の意図に思い当たることを見つけ、美月は動揺を隠そうとする。
「……力になりたい、と思うと思います」
この先続けられるだろう話が予測できてしまう。
「そっか。一緒だね。じゃあ、力になりたいと思って差し出した手を拒絶されたら、美月さんはどう思う?」
動揺が大きくなって、美月は懇願するような表情になっていた。
「…………悲しい……と、思います」
橘の顔をまともに見ることが出来ない。
「そうだね……きっとみんな一緒だと思う。拒絶した方だってきっと悲しいよね。だから、お互いを悲しませても、拒絶しなければならないそれだけの理由があるんだと思う。それは、他の人が簡単に理解できるものでもないと思うし、尊重したいけど……、同じに悲しいなら、『嬉しい』『悲しい』方がいいのに……と私は思うんだ」
「『嬉しい』『悲しい』?」
耳慣れない言葉に美月は橘を見た。橘は穏やかに微笑んでいる。
「歴史を見ても、人の世に永遠に続くものなんてなくて、良いことがあればいつかは終わる。終わった時は当然悲しいよね。でも、終わった時の悲しみが嫌だからって良いことを避けていたら、ずっと悲しいままじゃないかな」
胸の奥がバクバクと暴れてる。その話は必要ないと頭の中で
「嬉しい時があるからこそ、終わった時が酷く悲しいのは一つの真実、でも、嬉しかった時間の積み重ねがあるからこそ、終わった時の酷い悲しみを耐えられるっていうのも、同じく真実の一つだと思う」
橘の言葉には、経験に基づいた言葉なんだと推し量れる響きがあった。
優しく響く言葉が動揺の音と
「前も話したことだけど……悲しみに襲われても、きっと誰かが見守ってくれているから。顔を上げていれば、きっとまた、光が『嬉しい』をもたらしてくれる。それなら、『今』は大切な人と『嬉しい』を分かち合った方が良いと思わないかな」
橘の微笑みは少し心苦しそうで、美月はその陰りに魅入られたように橘を見つめていた。
会話の静かな雰囲気とはうらはらに、美月の中では騒がしく葛藤が起こっていた。
何か言った方がいい、とは思うけれど、言葉が
「ごめんね。美月さんのことを良く知ってる訳ではないのに、踏み込んだことを言ってしまって。でも、美月さんほどではないけれど、私も秀平が好きなんだ」
ツーッと頬を流れる涙の感触で、美月は自分が泣いていることに気がついた。
「えっ……やだっ…………」
美月より先に気づいていたらしく、橘は慌てる美月にハンカチを差し出していた。
「大丈夫です、自分のがあるから……」
そう言ったものの、橘が見せた寂しそうな
恐る恐る橘からハンカチを受け取ると、目に当てて涙を押さえながら俯いた。
「ありがとぅ……ござ……ぃます……」
唯一見つかった言葉だった。
辛うじて絞り出したような、消え入るような声だった。
涙は何故かとめどなく溢れてきていて、ただただ、美月は涙をハンカチに吸わせた。
橘に会って、話したいことがあったはずなのに、そんなことはもうどうでも良くなっていた。
もっと大事なことを、橘から
「こちらこそ、ありがとう 」
隣に座る橘の低く優しい声が、耳を震わせた。
ハンカチで目を覆って俯いていた美月には、嬉しそうに礼を言う橘の笑顔が脳裏に見えていた。
太陽のように暖かく、慈愛に満ちた笑顔がはっきりと。
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