第36話 ぺルセポネー挽歌

11月1日土曜日

午前9時

 急に時間がなくなってしまった。

 悪魔はすぐそばまで迫ってきている。

 昨夜も三連休は予定があると断ったけれど、「来いよ」と強く言い残された。

「話したいことがあるの、今日会いたい、12時に。」と一条美月にメッセージを送った。

 直ぐに出掛けられるように支度を済ませ、スマートフォンを握りしめて返事を待った。

午前11時

 スマートフォンにメッセージ着信があった。

 美月ではなく悪魔からだった。

「来ないなら家に迎えにいこーか」

 やっぱり、今日は逃がす気がないようだった。

 ここに居たらヤバいかもしれない。

「友達とランチの約束してるの、夜に行くから」とメッセージを返信し、栞は慌てて家を出る。

午前12時

 美月を誘った約束の場所で待つ栞に、美月からのメッセージが届いた。

「返信遅くなってごめんなさい!! さっき起きましたm(><*)m今から支度するので、ランチには間に合いません。3時にカフェでお茶にしませんか?」とカフェのリンクアドレスが貼られていた。

 3時でも夜までには時間がある。夜は夜で、都合が悪くなったと引き延ばせば今日はしのげる。

 「もし都合がつけばお兄さんも。」と返事のメッセージに付け足した。

 もう、のんびりとはしていられない。一条さんを信じよう。

 栞は一息ついて、そのままそこでランチを食べることにした。何だか久しぶりに美味しいと感じた。

 大丈夫、諦めるのはまだ早い、まだ、悪足掻きしてもいい。

午後2時

 美月の指定した約束の場所に向かおうと店を出る。

 少し進んだところで、目の前の光景に絶望した。

 昼間ののどかな陽射しの中に、似つかわしくない悪魔が立ち塞がっていた。

「なん……で……」

「栞ちゃん、嘘つくとか、どーゆーことよー。友達なんかいないじゃん。一人で食うなら、オレと食えるでしょ。栞ちゃんがそーゆーことすると、オレ、今までみたいに優しくはしてやれねぇよー?」

 腕を強く掴まれて、裏道へと連れ込まれる。周りをがらの悪い男達に囲まれて、停めてある車へと押し込まれた。車内は男達の臭いか、芳香剤なのか、少しえたような煙草のような不思議な香りがした。

 シートの隣で腕を掴んだままの悪魔が微笑んだ。

「なんでここにいるか驚いた? 位置情報って知ってる? 知らないかー。悪用する側には簡単なんだよねー」

 逃げられねぇよ、ボスから逃げようとかムリムリ、と栞以外の下卑た笑いが車内に響いた。

 見知らぬ男が運転する車は、見覚えのあるビルの前まで走って停まった。

 道中、悪魔と男達が何を話していたのか、まるで耳に入ってこないほどに恐ろしかった。

 運転する派手な服装の男が、ルームミラー越しに舐めるような視線を向けて来たのだけが記憶に残っている。

 エレベーターで部屋のある階まで着くと、悪魔が顎で促して、がらの悪い男達はそのままエレベーターでどこかへ消えていった。

 今なら二人だけだ、逃げ出すなら今だ、今ならまだ、一条さんとの約束にたどり着ける…っ

 悪魔は左手で栞の腕を強く掴んだまま、部屋の鍵を探していた。

 この手を緩ませなければ、緩ませられれば、横の非常階段から逃げられる。

 鍵を開けて悪魔の片手がドアを開けた時、栞は悪魔の左腕に両手を添えてそっと背を伸ばした。

はだけた服から覗く胸のタトゥーが栞の目の前を下に降りていった。

 栞はゆっくり顔を上げて、そこにある美しい悪魔の顔を見据えた。

 硝子ガラスのような、どこを見ているのか、本当は何を見ているのか分からないだった。

 出会った時から、何回も見つめ合った後の今でもそう感じた。悪魔だから、目も人を魅了するだけの偽物かざりなのかもしれない、それくらい美しいと思った。

 一瞬が永遠のように長く感じられた。その一瞬の中で、栞に見つめられた悪魔のに驚きの色が射したように見えた。開けかけたドアを支えるために右手が塞がっていた悪魔は、反射的に栞の頭に添えようと左手を緩めた。その瞬間、栞の両手が力一杯悪魔の左手を振り払った。

「まっっ…」

 栞は必死で走って、非常階段のドアを開け、ビルの外へ逃れる。

 悪魔は栞を追っては来なかったようで、非常階段のドアは大きな音を立てて閉まった。理由は直ぐに分かった。

 栞が非常階段を見下ろすと、一つ下の踊り場から、さっき別れたばかりのがらの悪いの男達が栞を見上げていた。




 これが終わりの時なのか

 人生が走馬灯のように見えると聞いたことがあったけど

 見えるのは、あの間違いの始まりから、落ちる前までの半年間だけだった

 永遠に落ち続けているみたいに、流れ続けるパノラマヴィジョン

 あぁ、痛々し過ぎて目を背けたくなることもある

 繰り返される、愚かなわたしの姿

 映画のように客観的に

 叙情詩のように感情的に

 苦悩ばかりではなかった

 愉楽ゆらくも希望もあった

 孤独ではなかった

 交遊も心頼こころだのみも目を向ければそこにあった

 今ならその時気づかなかったいろいろなことが

 見えてくる、知ることができる

 なんの復習タイムなんだろう

 やりなおしの機会は来ないのに


 冬の空は高く澄んでいるのね

 なんて綺麗なんだろう

 白い光が目に暖かい

 もっと目を開いて見ておけば良かった

 この綺麗な世界を

 もう少し…






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