第30話 探偵《エージェント》サニー 

 橘サニーは歓楽街の一角にある古いビルの中に居た。

 時刻は8時を回る頃、外の喧騒が洩れ聞こえてくる。

 年期の入った雑居ビルの2階、エレベーターから続く細く薄暗い廊下を、サニーはうろうろと所在無く立っていた。

 ビルを借りている事務所と見られる細い入口のドアには、表札も看板もかかっていない。

 間もなく、エレベーターから人が降りてくるのに気づくと、サニーは慌てた様子で駆け寄って声をかけた。


「もしかして、ここの……探偵社の方ですか?!」

 男は驚きながら答える。

「え? あぁ、そうだけど……」

「さっき、中から物音がしたので、会社の人かと思ったんですが、照明あかりはついてないし、鍵は閉まってるしで……、もしかして泥棒なんじゃないかと……」

「えぇ?」

 男は慌ててドアに近寄り中の様子を伺うが、人の気配はない。

「特に何も聞こえないが、聞いたのはいつ頃だい?」

「10分……は経ってないと思いますが……外に人がいるって気付かれたかな……。確かに物音が聞こえたんだけど……人が居たらセキュリティシステムとか、作動しないんですか?」

「そんなモンつけちゃいねぇよ。遠隔カメラはついてるけど、盗まれちまったらそれまでだ。仕事柄ヤバイもんも扱ってるだろーによ。嫌なとこに来ちまったなぁ。兄ちゃん、ちょっと手を貸してくれるか?」

「え……手って何をするんですか?」

男は音を立てないようにポケットから取り出した鍵をドアに差し込んだ。

「踏み込むから、ドアを塞ぐように立って貰って、盗っ人が居たら捕まえるの手伝ってくれねぇかい」

「え……?! そんな……」

 サニーの及び腰に

「よし、行くぞ!」

とドアを開け男は作戦を強行した。

 薄暗い部屋の中は雑然としていて机や書棚で部屋全体は見渡せない作りだった。

「き、気のせいですかね。カメラはどこに? 確認してみたら……」

「カメラは社長にしか見れねーんだよ。会社内ここで見てもしょうがないからパソコンには入れてないんだ」

 そう言いながら男は部屋の電気をつけた。

 遠隔カメラは異常なく作動している。

 見える範囲には人影はない。

「人が隠れそうなところは?」

 恐る恐る言いながらサニーは部屋の中へ歩みだした。

「流しとトイレだな。あと、休憩兼来客用の別室」

 指をさしながら男が言う。サニーのすぐ近くに流しがあった。なんとなく男は別室、サニーは流しを見に行くことで合意がなされる。

 男が別室に人が居ないのを確認していると、パッとすべての電気が消えた。その瞬間「うあ!」という呻き声とバタバタっという物音が響いた。

「おい! 誰か居たのか?!」

 戻った部屋は真っ暗で人の気配はない。男はスマートフォンのライトをつけて、部屋の中を照らすがサニーの姿はない。男がまだ確認されてないであろうトイレに近づこうとしたその時、

ガッ

首に何かが強く当たって男はガタガタン! と崩れ落ちた。


 それから1時間後、男は冷やっとする感覚で目を覚ました。

 額に冷たい何かが乗せられている。

「大丈夫ですか? 目を覚まされましたか?」

 真っ暗な部屋の中に、廊下の照明あかりが入ってうすぼんやりと周囲の状況が見えた。

 寝ている横で座り込んだサニーが濡れタオルを額に当てていた。男の額の上にあったのも濡れタオルだった。身体を起こすと物凄い痛みが頭を襲った。

 くっ……

「逃げられちゃったみたいです」

 サニーは申し訳なさそうに言った。

「だな。兄ちゃんを巻き込んじまって悪かったな。依頼だったのかい?」

 濡れタオルを首に当て変えて、男はサニーに問いかけた。

 帽子を目深にかぶって、黒縁のメガネをかけて、ダサいマフラーをぐるぐる巻いた、いかにも根暗そうな男。

 でかい図体の癖に、卑屈に背を丸めて、実際の背格好より一回りも二回りも小さく見えているはずだ。

 どうせ人生も根暗なんだろう、男はそう判断していた。

「はい……依頼するかは分からないけど、相談だけ……て。でも、怖い世界なんだって思い知りました。もう、帰ります……」

 濡れタオルを男に手渡し、そっと立ち上がった。

「そうか……悪かったな。まぁ、また気が変わったら来いや」

 ペコペコと頭を下げながら帰るサニーに雑に手を振ると、男は社長に電話をかけた。

「社長、入られましたぜ」


 男が寝ている1時間の間に、サニーが目的のファイルを見つけるのは簡単だった。

 あの手の会社は実害がなければ警察へは届け出ない。

 ブレーカーを落として遠隔カメラは潰しておいたし、サニーが怪しいと気づいても、特定するだけの画像は残っていないだろう。

 スマートフォンで撮影して持ち出した、目的のファイルの写真を開く。

 一条美月の調査依頼。

「……ちょっと意外だったかな」

 自分にしか聞こえないくらいの声で、サニーは呟いた。

 秀平に頼まれて希望が丘女子学校へ出入りするようになってから、学校周辺で何やら調べている不審な男が気になった。後をつけたところ、三流探偵事務所の調査員だと判明したので、下調べの後踏み込んだのだ。

 秀平案件とは無関係の空振りか、大穴で金井渡邉絡みかという軽い気持ちだったのだが……。


 依頼人は、田中一郎。依頼日は11月2日日曜日、金井栞が事故死で発見された・・・・・日だ。


「依頼人からの提示情報は氏名と電話番号とSNSアカウント、あと在籍の可能性がある学校名。回答内容は素性、素行、交遊関係、全てか」

 スマートフォンをポケットにしまいながら、誰にともなくサニーは呟いた。

 田中一郎といういかにも偽名のようなありふれた名前と電話番号だけで辿り着けるだろうか。記載の住所は見た感じでたらめそうだ。

 サニーは2時間前に買った帽子とマフラーを外し、通りに座るホームレスに「良かったら」と手渡すと、お礼代わりに教えて貰った美味しいパスタを食べられる店へと向かったのだった。

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