第31話 王子と姫とJerk(悪党)

 11月30日土曜日、本来なら人はいないはずの希望が丘女子学校に二人は来ていた。

 今日は西門からではなく、正門から。

 三者面談の時とは違う、冬の空気のような冷たい緊張感を美月は感じていた。

 教室のドアを開けて入ると、教室の中の先客から視線を一斉に向けられた。

 校長先生、教頭先生、生徒指導兼風紀担当の高尾先生、渡邉先生、事務員の橘さんだ。

 教室の机を一部向かい合わせて、下座側に先生方が着席している。

「一条さんですね、あちらのお席にお掛けください」

 声をかけられてその方向を見ると、廊下側に二人の男性が立っていた。

 二人のうち一人には見覚えがある。神奈川県旭署の警察官、阿久津だ。

 美月と秀平は阿久津達と教師陣に軽く頭を下げて、用意された席に腰掛けた。

「本日は急なお呼び出しにも関わらずお越しいただきありがとうございます。実は、そちらに居る渡邉先生による青少年健全育成条例事件の捜査をしています」

 美月はハッとして、阿久津と渡邉の顔を見た。

 阿久津は鋭い目つきで美月を見ている。渡邉は苛立った表情で俯いている。

 指先から血の気が引いていくような感覚が襲う。

 あぁまたか、この後冷えきった手から震えが始まるんだ、とどこか冷静な自分がいたがそうはならなかった。

 大きくて温かい手にぎゅっと机の下の手を握られる。

 美月は隣に座る秀平の顔を見上げた。

『大丈夫だ。』

秀平の琥珀色の瞳はそう言っていた。

 ……そうだ、秀ちゃんがそばに居たんだ。

 トクン……ッ、トクン……ッ、血液と一緒に温かい何かが身体中をめぐる。

「……そのことについて、何か知っていることや話したいことはありますか?」

 淡々とした口調とは裏腹に、鋭い眼光で見つめながら阿久津が言う。

 ……凄い目力。刑事さんって、こうやって取調べをするんだろうか。

 他の先生方は困ったような沈鬱な表情で美月を見ている。

 ……一人だったら、とてもじゃないけどこんな状態では顔を上げることすら出来ないよね。

 美月は秀平の手をそっと握り返して、渡邉を一瞥すると、阿久津に視線を合わせて口を開いた。

「一度、渡邉先生に身体を触られました。3年生の……亡くなった金井さんに助けて貰って、その時は逃げ出すことが出来ました。それからは渡邉先生を避けるようにしてたので、触られたりしたことはありません」

 先生方から驚きと諦めの溜め息が漏れた。

 ……大丈夫、だって、私は何も悪いことはしていない。

 美月は阿久津と目を合わせたまま、言葉を待った。

 阿久津の目から力が解かれ、ふと優しさが宿った。

「分かりました。他には、何かありますか?」

「他には……特に思い当たりません」

「ご協力ありがとうございます。先生方からは、何かありますか?一条さんやお兄さんに対してでも、警察に対してでも構いません」

 元の鋭い目つきに戻った阿久津は、教室の中の全員を見回した。

 校長先生がそっと右手を挙げて、阿久津が「どうぞ」と促した。

「今までまるで気がつかず、申し訳ありませんでした。一条さんにも、ご家族にも、なんとお詫びを申し上げたら良いものか……これから学校側としてどんな対応が出来るのか、真摯に考えたいと思っております」

 秀平がぺこりと会釈をしたので、美月も合わせて頭を下げる。

 校長先生もつられた形で頭を下げると、言葉を続けた。

「正式な御詫びは改めて後日させていただきます。事実確認をすべて終えた後でと考えております……。それで、一つだけ、その、一条さんが被害にあわれたのは・・・・・・・・・何時いつですか?」

 美月は秀平の表情を伺った。秀平は変わらず穏やかな表情で美月に頷いた。『大丈夫だ。』

「10月30日、ハロウィーンパーティーのあった金曜日です」

 美月の答えを聞いて、教師陣が渡邉に侮蔑の表情を向ける。

 渡邉は俯いたままだ。

「その事を誰かに話しましたか?」

 一つだけのはずの質問が続き、美月は戸惑いながら秀平を見る。

 秀平が静かに頷くのを見て、

「はい……、その日のうちに、兄にだけ話しました……」

と答えた。その答えに初めて渡邉が顔を上げた。

反射的に顔を背けた美月に、校長先生がまた問いかける。

「なぜ学校に相談しなかったのですか?」

「そのことについてはこちらも申し訳なく思っています」

 美月が見上げるより早く、秀平が答えていた。

 良く通る、落ち着いた、理性的な声だった。

「学校に相談することも考えはしました。ですが、あの時点で話したところで妹をすべて・・・から守れるとは思えなかった。だから止めました。|これ以上妹を傷つけることは許せない、絶対に《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。然るべき時が来たら、お話しようとは思っていました」

 低く力強い声が帯びる威圧感に、教室そこに居た全員が沈黙した。

 秀平の鋭い眼差しは渡邉一人に向けられていて、その凛然とした面持ちには、何者をも屈服させる風格があった。渡邉は顔を苦痛に歪め、秀平の眼差しから逃げるように俯いていた。

 秀平は傍らで緊張した面持ちをしている美月に顔を寄せ、何かを囁いた。

「わたし……っ」

 突然大きな声を出した美月に、教室内の全員が驚いた。

 美月は秀平の方を見たまま真剣な顔で叫んだ。

「すごく、気持ち悪かった!! 触られたのは一度だけだったけど、ずっとっ、ずっっと気持ち悪くてっ……。また同じことがあったらって、怖くてっ、怖くて…、毎朝学校に行くのがすごく怖くて……」

 机の下で握りしめた秀平の手を潰してしまいそうなくらい、身体に力が入っていた。

「許せなかった……渡邉先生のこと、嫌だったっ……すっごく、嫌だった!!!」

 はぁ……はぁと少し息があがっていた。握り過ぎて秀平の手を痛めてしまったのでは、と美月が見上げると、潤んだ視界に秀平の優しい表情かおが映った。

 美月の全身に貼り付いていた緊張が解ける。

 秀平は小声で一言美月に告げると、再び厳しい表情かおで渡邉を睨み付け、力強い声を放った。

「こんなにも傷ついた妹を見て、簡単に片付けることなんてできないんです・・・・・・・・・・・・・・・

 この教室にある全ての音が、秀平の声に薙ぎ払われたかのようだった。

 しばらくして、その重苦しい沈黙を破ったのは阿久津だった。

「では、一条さんとお兄さんには別室で引き続きお話を伺わせてください。学校側へは、支障のない範囲にはなりますが、伺った内容を警察からお伝えします」

 阿久津の言葉を合図に、後ろに控えていたもう一人が美月達に退出を促す。

「繰り返しにはなりますが、今後はこの件に関することを当事者に直接問い合わせることは止めてください。問い合わせの必要がある場合は、必ず警察を通すようにお願いします」

 ドアへと移動する美月達をはじめ、教室内の一人一人に廻らされた阿久津の視線に、それぞれが小さく頷いた。

「学校の皆さんもこれで本日は終了となります。長い時間、ご協力ありがとうございました」


 教師陣が机を元に戻して立ち去った後、教室には阿久津とその部下、そして渡邉が残されていた。

「先生、立てますか。これから署でお話聞きたいんで、早く移動しましょう。いつまでもここで待ってる訳にはいかないんですよ」

 空手でもやっていそうなスポーツ刈りの男が渡邉に呼び掛ける。渡邉は涙目で俯いて座ったまま、身体を震わせていた。

「埒が明かねぇ。佐藤、お前肩貸して車まで運んでいってやれ」

 阿久津はそう言うと一人先に部屋を出ようとする。

「えぇ?! 嫌ですよ。ちょっと、渡邉さん!」

 佐藤と呼ばれた男は、慌てて渡邉にまくし立てる。

「すごい迫力だったからブルッちゃうのも分からなくはないですけどね、それだけのことをやったんだから自業自得でしょう。相手に比べて自分が小物過ぎて悔しいんですか? それとも全部バレたこれからの人生が怖くて悲しいんですか? なんにしろ、いつまでも泣いてたってしょうがないでしょう! やってしまった罪と向き合ってさ、行動の責任を受け止めて、先に進みましょうよ」

「ふっ……ざけんなっ……おぉれはぁっまっ……けてなぃ……っ」

渡邉の身体の震えはガタガタと机を揺らすほどに大きくなり、目からは涙が溢れ始めた。

「うっわ……最悪じゃん……」

頭に手を当てて佐藤は呟いた。

「お前何やってんだ! 煽ってどーすんだよ!」

戻ってきた阿久津に軽くはたかれる。

「いってぇっ……」

「渡邉さん、落ち着いてください。深呼吸出来ますか? 深く吸って、吐いて……もう一度……吸って……」

初めはぎこちなかった深呼吸が普通に出来るようになった頃、渡邉は落ち着きを取り戻していた。

「校舎を出てすぐの所に車を停めてあります。ご同行願えますね」

阿久津の指示を受けた佐藤に腕を支えられながら、渡邉はやっと立ち上がった。


 車の後部座席に渡邉を乗せ、そのまま隣に乗り込んだ佐藤は、背もたれにどさりと寄りかかった。

「渡邉さんさぁ、全然反省してないでしょ」

 渡邉はいつもの無表情に戻って俯いている。

「佐藤、聞こえてるぞ。余計なこと言ってんじゃねぇぞ」

 運転席に座った阿久津が車を発進させながら釘を刺す。

「余計なことなんて言いませんよ。必要なことを言うだけです。渡邉さんさぁ、男が少ない女子校でちやほやされて勘違いしたんだろうけど、あんた、あんな風に何人もの女に手ぇ出していい種類の男じゃないから」

 佐藤は至近距離の渡邉に軽蔑の眼差しを浴びせる。

「あの環境じゃなかったら、あんたただの性犯罪者だから。自分のしたことの気持ち悪さとか卑劣さとか、ちゃんと理解してくれますかねぇ」

 今日、あの教室では同じようなことが4回行われていた。

 呼ばれた女生徒のうち二人は無関係を装い、一人は交際を認めた。それぞれの両親を同席させていたが、彼らが見せたのは想定外に静かな反応だった。

 二組は娘本人が否定したとはいえ、この状況でだ。そして、外から見て取れた感情の動きは家族内に向かっていて、元凶の渡邉などまるで目に入っていないかのようだった。

 育成条例違反なんて大した罰則じゃない。再犯率も高い。

成り行きに流されてやらかしてしまう渡邉こいつみたいなバカ野郎に、自分のしたことを考えさせることができるのは被害者家族からの激しい感情くらいのものだ。

 それが、唯一まともに感情の刃をぶつけたのが、未遂に防いだ生徒の、事情を知らされていた兄だけだとは。

 隣から覗き込む佐藤の顔を見もしないで、面倒くさそうに渡邉は目をつぶった。

 ……くそっ俺が何言っても無視かよっ。

「確か……ガン泣きしながら負けてないとか言ってたけど、まさかあのお兄さんに張り合うつもりでいたんですか」

 渡邉が目を開けてじろりと佐藤を睨んだ。

 どうもあの兄は渡邉こいつの地雷らしい。佐藤は嬉しそうにわらいながら、またまくし立てる。

「図星かよ。半年で4人も、しかもあんな100人に1人いるかレベルの綺麗な少女にも手を出そうとするとか、相当勘違いとは思ったけど自分がどんな奴が忘れちゃった? 身の程知らずもここまで来ると滑稽を通り越して憐れだな! あんたとあのお兄さんとじゃ世界もレベルもまるで違うだろ」

 渡邉は拳を握りしめ身体を震わせ始めていた。今回の震えは、怒りによる震えだとすぐに分かった。

 佐藤はわざと身体を寄せて、渡邉を煽り続ける。

「男も二度見するようなイケメンとあんた、ファッションモデルばりの体格とあんた、座ってるだけでにじみ出る品格やオーラとあんた!外見だけでも勝負にならないのに、中身となったらあんたそれこそ最低じゃねぇか。今までの人生思い出して見ろよ。えぇ? 本当は勝負にならねぇの自分でもわかってんだろ?」

 嘲笑する顔を近付けて挑発するも、渡邉は涙を滲ませて佐藤を睨むだけだった。

「もうすぐ署に着く。佐藤、そのくらいにしとけ」

「……おまぇが……ぃうなぁっぉお前がぁ……っっ」

 渡邉が絞り出したように言うのと、阿久津が制止するのがほぼ同時だった。

「俺には言われたくないですか。まぁ俺はあんたと同じ、その辺に良くいるレベルですからね。でも、一応警察官やってるんで、淫行で捕まってるあんたよりはだいぶましだと思うんですけど! そう思うのは間違いなんですかねぇ」

 声の調子から、阿久津も佐藤に共感する思いがあることは分かっていた。

 ……一発くらい殴られてやるつもりだったのに、それすら出来ねぇクソかよ。

 渡邉を監視する目は残したまま、佐藤は渡邉から離れてシートに深く腰掛けなおした。

 いつからこんな社会よのなかになったのか、それとも昔から現実はこんなもんだったのか。

 佐藤達けいさつが捕まえる犯罪者の大半は「悪」というより、平凡な何かにすらなれない「クズ」みたいなしょうもないやつばかりだった。

 正義感や、使命感だけではモチベーションが続かない。

「あのお兄さんみたいに圧倒的な人以外に言われたくないのは分かりますよ、でもあそこまで完璧な人だとあんたみたいなのをわざわざ責め立てないらしいんで、代わりに言わせて貰ったんじゃないですか。そんなことも分からないんじゃ、もう黙りますよ。めんどくせぇ。……それにしてもさすが兄妹って感じだよなぁ。ああいう綺麗な少女には、あのくらいのいい男が相応ふさわしいんでしょねぇ。あんな清々しい完璧さ、俺初めて見ました」

 途中からは阿久津に向かって話していた。阿久津も分かっていたらしく、

「王子様かと思ったら、ドラゴンも一刀両断ってな」

と返ってきた。

「あはっ阿久津さんも思いました? 相当でしたよね」

 二人が笑うと、黙って俯いていた渡邉が口を開いた。

「……分かってないバカはどっちだよ……。親が不在なのをいいことに妹に手を出してるあいつは俺と同じじゃないか! いや妹に手を出してる分、俺よりクズだろ!」

 佐藤は思わず目を見開いていた。

 目の前の渡邉は切り札を放ってやったとばかりに嗤って佐藤を見ている。

「今……なにを……」

 佐藤が言いかけた矢先に車が大きく回り停車した。

「着いたぞ、佐藤、さっさと降りて、捜査員呼んでこい」

「あっ、はいっすんませんっ!」

 阿久津の低い声に慌てた佐藤が飛び出して行く。車内で二人、迎えを待ちながら阿久津が呟いた。

「渡邉さん、これから、いろいろお話を伺うことになります。分かってはいるとは思いますが、発言の内容には慎重に、良く考えて、事実のみをお話ください」

 それがあなたのためですよ、と運転席から振り向いた阿久津は口角を上げた。

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