第25話 ヘルメスの囁き②

「大丈夫?」

 校舎へと走る渡邉の姿が立木の向こうに消えるのを見送ると、太陽の人は美月の方へ振り返った。

 先週から学校内で噂のイケメン事務員、橘さん。

 そして、温室で会った、太陽の人……。

「寮までの帰り道は私が送ります、美月さん」

「え?」

「え?」

 にっこりと向けられた笑顔に、美月が戸惑いの表情を返したために、太陽の人も目を丸くして驚いたようだった。

「あの……なんで私の名前……」

「!」

 彼は気まずそうな、いたずら少年みたいな笑みで一瞬目をそらすと「まぢか、あいつ……」と呟いた。

 それから、いつもの太陽みたいな笑顔を見せて

「はじめまして! 私は橘サナトリウスです。11月からこちらの学校で事務員として勤務しています」

とかなり改まった自己紹介を始めた。

「そして、実は秀平と同じ大学でした!」

「秀ちゃんと!?」

 美月は思わぬ展開に目をまたたかせた。

 言われてみれば、秀ちゃんと同じくらいの歳に見える。

「美月さんのことは秀平から聞いていたので、てっきり美月さんも私のことを聞いていると思っていて……。今まで驚かせてしまったかも……」

 「今まで・・・」。確かに橘の美月への距離感は寄り気味で、美月には戸惑うことも勘違いしそうなことも多かった。

 お互い既知の友人の妹であれば納得出来ることは多い……かも。相手は近しい感覚で接しているのに、こちらは初対面の他人の感覚でいたのだ。これは恥ずかしい。橘の苦笑いに美月は思わずクスッと笑ってしまった。

「寮まで私が送ります。道は分からないから、美月さんが教えてくれますか?」

 小路を示してを促す所作が紳士的で、笑顔だけじゃなく素敵な人だな、と美月は思った。そして、義兄の特別さを改めて認識した。

 秀ちゃんてば、周囲の人までスペック高いのね……。


 遊歩道を2人並んで歩く。歩幅の大きい橘は、美月に合わせてゆっくりと歩いてくれている。

「渡邉先生は何か話した?」

「いえ、ある生徒のことで話がしたいからって、座って話が出来る場所に移動するところでした……」

 きっと、あのプレハブ倉庫だ……。

「ありがとうございました。橘さんが来なかったら、私……」

 あの時の恐怖を思い出して、救世主にお礼を言いかけ美月はハッとした。

「あ……えっ……と……」

 戸惑った表情かおで橘を見上げると、優しく微笑む橘と目があった。橘は「ん?」と促すようにまた笑った。トクン……と美月の中に温かい何かが湧いた。

 渡邉先生とのことは、さすがに秀ちゃんも話していないだろう。橘さんは仕事で伝言を頼まれて先生を呼びにきただけ。渡邉先生と私の話を中断したことを気にしたのだろうこの流れに、ありがとうございましたとか、私が変過ぎる。でも……。この人になら……。

 美月は視線を足元に落とすと、歩調に合わせるようにぽつりぽつりと話し始めた。

「秀ちゃんにしか、話していないから、橘さんも、他の人には話さないで、欲しいんですけど、……私、渡邉先生が、苦手なんです」

 橘が持つライトの淡い光が、遠く、近く、遠く、近く、相槌のように小路を照らす。

「初めは、温室で、鉢合わせるくらいで、特に話をすることも、なかったんだけど……」

「様子がおかしくなったのは、いつ頃から?」

「夏……休みの、終わり頃から、だと思う……」

 ひゅうっと橘の側から回り込んだ小さな風が、美月の身体を通り過ぎる。肌寒い。

「急に、すごく近寄って来るようになって、手とか、髪とか、か、身体とか、気持ち悪く触ってくるし、触ってくるのは、いつも人が見てないところで、人がいるところでは、なんか、やたらと見られてるような気がして目が合うし……っ」

 やだ、なんか早口になってるっ……

 口調と一緒に足取りも速くなった気がして、美月は歩む足を止めた。

 落ち着こう、美月、橘さんを、困らせちゃうよ……

「美月さん、話しにくいこと、話させてごめん」

 美月が気持ちを落ち着かせてから見上げるつもりだった橘が、先に言葉を発した。そのことが、そのままでいいよ、と受け入れられたように感じられた。この人は本当に、人を安心させてくれる人だ。美月はすがるような目で橘を見上げた。

「怖かったよね。ずっと」

 橘はこれ以上ないくらいの慈しみの目で美月を見ていた……ように美月は感じた。

 今度は目頭が温かくなってきた。

「ずっと露骨に避けてるのに、全然止まなくて、しつこくて、渡邉先生生徒と変な噂もあるし、」

 うわ、視界潤んできた、ダメだ、こらえないと……

 顔を隠すように俯いて、美月はずっと抱えていた呪言のろいごとを吐き出した。

「これは、秀ちゃんにも言ってないけど、……渡邉先生、私と秀ちゃんが、変な関係だって思ってるっ……」

 涙……溢れる……と思った瞬間、ふわっと暖かい空気が美月を包んだ。美月を包んだのが空気ではなくて人の身体だと気づいた時には、美月は橘に抱きすくめられていた。

 え……いや……

 反射的に引き離そうと両手を橘の身体に当てると、美月が力を入れる前にぎゅっと橘が抱き締める力を増した。

「大丈夫。暖めるだけだから。少しだけじっとしていて?」

 低い穏やかな声が、美月の頭の上から響いてきた。

 ……暖める? ほんとだ……いつの間にか身体中が冷えきっていた。反して橘さんの身体はぽかぽかと温かい。

 力を抜いて橘の身体に身を預けると、身体中に橘の熱が伝わってくるように感じた。

 トクン……トクン……

 身体の真ん中辺りの一番温かいところから、橘さんみたいに熱い何かが湧き出てきた。

 あ……秀ちゃんの時と似た感じだ……。

 美月は指の先から頭のてっぺんまで、温かいエネルギーが満たされていくのを感じた。身体が温まり、思考がクリアになってくると、今の自分の状況が恥ずかしくなってきて、橘の身体に添えていた手にそっと力を込めた。今度はその合図に応じるように、橘の腕は美月の身体からほどかれた。

 見上げた橘の顔は、いつもと変わらず屈託ない笑顔で、なんだか恥ずかしかった気持ちもどこかへ消えてしまった。美月もふっと笑みを浮かべ橘に応えた。

「橘さん、ありがとう」

「No worries.」

 英語で答えた橘は、また美月を促して、寮へと歩み始める。先に口を開いたのは橘だった。

「……渡邉先生は、美月さんにつきまとうのは止めないと思います。残念だけど」

「はい……」

 美月もそう感じていたから、特段ショックではなかった。むしろ、橘が状況を同じに捉えてくれることが心強かった。

「しばらくは、表立って近付くことはしないと思う。けれどその分、美月さんと二人きりになろうと画策するかもしれない」

 今日は一斉部活の日だから、通常なら香鈴奈と一緒に帰る日だった。一人なのはとても珍しいイレギュラーなのに、渡邉は現れた。それを考えると不安が増してくる。

「慎重になり過ぎるということはないから、美月さんは些細なことでも注意して。私も気をつけて見ているようにするけど、仕事もあるから完璧にとはいきません。不審なことがあったら、直ぐに知らせてください。危険を感じた時は躊躇ちゅうちょせず私を呼ぶこと、OK?」

 歩きながらさらりと話されたその内容に、美月は少し驚いて橘を見た。いくら友人の妹といっても、親身すぎるのでは。これではまるで……

 美月の視線に気づいて、橘も美月に視線を向ける。

「秀平のやつ、話してないとかほんとに信じられないんだけど……、私がこの学校に来たのは、秀平に頼まれたのが理由なんだ」

「え?!」

 秀ちゃんに、頼まれた・・・・?!

「本当は秀平が来たかったんだろうけど、それは不可能だから、代わりを務められる友人を遣わせたってこと。君を守るために」

 何でもないことのように言って、にこっと屈託のない笑顔を放つ橘が、キラキラと光を帯びて見えた。

 うわわっ何だろう、顔が熱くなってきた。

 照れてしまうのは、凄いことを頼んだ秀ちゃんのせい? それともさらっと頼まれている橘さんのせい?

「秀ちゃんってば……っ」

 火照る顔を橘に気取られないように、前に向け直すと、寮の入口の灯りが見えた。

 橘は歩みを止めると、寮の入口まで続く路を一段明るくしたライトで照らしてから美月に言った。

「じゃあ、私はここで。突然いろいろ知らされて困惑するだろうけど、秀平と、いつも見守ってる・・・・・・・・

 顔の横で指をパチンと鳴らす、あの・・仕草をして、にっこり笑った。

「安心して頼ってくれていいから」

 寮の入口はまだ先だし、ライトは先へ続く路を照らしている。外灯も近くにはなくて、橘さんを照らすものは何もないのに、何故だろう、橘さん自身が光輝いているように見えた。薄闇の中でも、暖かい太陽みたいな光。

「ありがとうございます……。さっきからそれしか言えてないけど……本当にありがとう。……秀ちゃんには、あれ、言いますか?」

 ずっと独りで抱えていた秘密。橘さんが渡邉先生のことを秀ちゃんから頼まれて来たのなら、報告されても仕方のないことだ。橘さんだったら、秀ちゃんを不快にさせないように、巧い話し方が出来るのかもしれない。

「美月さんが話したくなかったことなら、話さないよ」

 橘さんは優しく微笑んだ。

「今は秀平の使いパシリみたいにして来てるけど、実のところ秀平より頼りになるんだ」

 ニコッといたずらっぽく笑うと、さぁ、と美月を促した。美月は後ろ髪を引かれながら、橘に背を向けて寮へと走り出した。入口に着いたところで振り向くと、橘がまだ薄闇の中にいた。ペコリ! とお辞儀をしてから、もう一度橘に目をこらすと、バイバイ、と美月に手を振る姿が見えた。そして、橘はライトの明るさを元の淡い黄色みがかった光に戻し、薄闇の中に消えていった。

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