第24話 ヘルメスの囁き①

 11日20日水曜日の放課後、希望が丘女子学校では今週も一斉部活動が行われていた。

 華道部が活動する教室に、真剣な顔で花にハサミを入れる美月がいた。


「あら、素敵ね」

 古文教師の寺嶋先生は美月の横で立ち止まるとそう声をかけた。返事をする代わりに、美月は寺嶋先生に照れ臭そうな笑顔を向けた。

「桔梗の一輪挿しね。かすみ草を添えても、華やかになると思うけど……、そうね、葉も茎も花の形も綺麗だから、このまま一輪でも充分……。ちょっといい?」

 寺嶋先生は美月の頷きに微笑むと、ひゅっと伸びる桔梗の葉を一枚手に取り、くるっと廻して剣山に挿した。その途端に、可憐な桔梗に凛とした気高さが生まれた。


「今日はこれで終わりにします。出来上がった人はいつもの通り、廊下の出窓に作品を飾って帰ってください。未完成の人は持ち帰って、完成させること。それでは、さようなら。みんな、気をつけて帰ってくださいね」

 部活動の時間が終わり、美月は桔梗の一輪挿しを出窓の一角に飾った。北側に面した窓からの光を受けて、より桔梗の佇まいが美しく映えた。

「うん。素敵」

 部室のある3階から階段を下り、2階の教室へと戻ると、美月は鞄を机の上に乗せた。ヴヴヴ……と鞄の中のスマホが振動する。

『嘉多山先生の買い出しを手伝うことになっちゃった!先に帰ってて(。-人-。)』

 香鈴奈からだ。

 香鈴奈はバレーボール部で、いつも部活が終わってから教室で待ち合わせて一緒に帰っている。

 嘉多山先生のクラス、金曜日調理実習なんだ。なんて思いながら返信を打ち込む。

『おけ(^^)dまた明日ね!』

 送信して、鞄を肩にかけた。

 さぁ、帰ろう。


 寮へ向かう道はちょっとした庭園風になっていて、四季を彩る草木が遊歩道の周囲に植えられている。しばらく進んだところに、休憩処として開放されている東屋がある。校舎からかなり離れてしまうので、屋外行事でもない限り、利用している人はいない。美月もいつも通り東屋へと向かう分かれ道を無視して、温室へと向かう道を進んだ。

 温室の入り口が見えてきた辺りで、また道が二つに分かれる。去年はこのまま温室へ立ち寄り、少し休んでから帰るのがルーティンだった。毎日のように訪れていた温室を避けて行くことに複雑な思いを感じながら、美月は温室を迂回する方へ進む。温室から先は、本当の意味で寮への連絡路になる。道幅も人2人が並んで歩くのがやっとくらいの小路だ。

「一条さん」

 後ろからかけられた声に、美月は体が強張るのを感じた。

 この声は……

 硬くなった体で恐る恐る振り返る。

「……渡邉先生……」

 白衣姿の渡邉が満面の笑みを浮かべて立っていた。


「今帰り?ちょうど良かった。少し、時間いいかな」

 美月の表情かおが強張っているのは気づいているはずなのに、笑みを少しも崩さないのが気持ち悪い。

「こないだ話した件だよ。ここで立ち話って訳にもいかないから……座って落ち着いて話せるところへ行こう」

 どうしよう、どうしよう、どうしよう……

 美月の頭の中で、『2人にならない』『人気のないところでは会わない』秀ちゃんの言葉がぐるぐると回り始めた。

「あの……、私……」

 なんとか断らなくちゃ……

 急いでるって言って走って逃げれば、流石に追いかけては来ないか……

 そんなことを考えながら美月が少し後ずさると、

「そんなに緊張しないで。あんまりそういう態度を取られると、僕も他の先生方に指導をお願いすることになるよ」

 渡邉は強い口調で美月の腕を掴み、校舎とは逆の方向に歩き始めた。美月は半ば引き擦られるような形で歩きながら、渡邉の手を振りほどこうとするけれど、渡邉の手は少しも緩まない。

「先生っどこへ行くんですか?」

 辺りは外灯も少なくなり、夕陽に覆われてきた。

 このまま進んでも、もう座れるようなところなんてないはずなのに……

 薄暗くなりつつある周囲に美月の不安が増した頃、小路の周囲に植えられている立木がパッと開けて、薄闇の先に西門と、建物のようなものが見えた。

 え……

 心なしか渡邉の足取りが速くなる。

 嘘……まさか……

 『絶対に近づかない』秀ちゃんの言葉が頭の中で警報を鳴らす。美月は必死で引き擦られないように抵抗するが、渡邉の勢いを止められない。

 嫌だ……秀ちゃん! たすけ……


 パアーッとまばゆい光が、辺り一面を凪払うように白く照らした。あまりのまぶしさに、美月も渡邉も、とっさに手で目を覆う。腕を掴む渡邉の手が離れた感覚があり、美月は『窮地は脱した、逃げなくちゃ』と、まぶしさにくらんだ目を慣らそうと、必死でまばたきを繰り返した。

 ぼんやりと回復していく視界の先に一人の人影が見えた。

 あれは……太陽の人……

 理由わけもなく、美月の中に安堵感が生まれる。今回は逆光ではなく、彼自身が━━正確には彼の右手に握られている大型のライトが、まばゆい光を放っていた。

 彼は屈託のない顔でにっこり笑うと、ライトを光らせたまま一歩、渡邉の方へ近づいた。

「渡邉先生、探しました」

 刺すような白い光が渡邉を照らす。

「ちょっと! ライトの向きを考えてくれ! 眩しくて目が見えなくなる!!」

 さっきまでとはうってかわって、苛立ちが満ち溢れた声だ。

「あぁ、失礼しました」

 気づかなかった、とでもいった感じで、事務員の橘はライトの明るさを切り替えた。黄色みを帯びた、柔らかな光に照らされた渡邉が美月の方を見た時には、渡邉と美月の間を隔てる直線上に邪魔者が立つ形になっていた。

「渡邉先生はこちらで何をしていましたか?」

 乱入者に屈託のない声で屈託なく尋ねられ、渡邉の表情には苛立ちと動揺が現れていた。

「何をって、生徒と話をしていただけです」

「それは良かった! 私は先生をお呼びするよう、水野先生から伝言を預かってきました。先生と今日面談する約束の生徒さんから、予定変更の連絡があったということです。大至急、水野先生のところへお戻りください」

 こいつ━━━っ

 渡邉は『屈託のない使者』を睨み付けた。

 そんな伝言はあり得ない。

 今日、生徒と面談の約束をしているというのは、渡邉が作ったまったくの嘘なのだ。相手もいないのだから、変更の連絡などあるはずがない。

 しかし、それを言うことは、自らがついた嘘を告白することになる。つく必要のないでたらめな嘘をついた理由を隠すためには、今すぐ水野先生のところへ戻らなければならない。

 変わらず向けられている屈託のない笑顔とは裏腹に巧妙な仕掛けに、渡邉は苛立ちと怒りが全身に満ちるのを感じた。

「わかった……。一条は……」

 悔しそうに絞りだされる声。渡邉は美月を見ようと目を動かしたが、邪魔者が視界を遮るように移動していて、美月を見ることすら出来なかった。

「もう暗くなってしまったので、生徒さんは私が安全なところまでお送りします。渡邉先生を見つけるのに時間がかかってしまって、水野先生をお待たせしています。お急ぎください」

 向けられた笑顔が渡邉の感情を爆発させた。

 茶番だ! もう、二度とこんな邪魔はさせないようにしないと……こんなヘラヘラするしか出来ない優男、俺を怒らせたことを後悔させてやる! …怖れろ! 怯えろ!

 渡邉は全身に力を込めて、『欺瞞の使者』を睨み付け、彼の笑顔を歪ませようとした。

 よく見ると、笑顔の中の目は少しも笑ってはいなかった。邪魔な優男は笑みの表情は変えることなく、睨み付ける渡邉の目を、静かに、だが力強く見つめ返してきた。夕陽に溶け込みながら、いや、否、夕陽を取り込みながらどんどんとその目は大きくなり、渡邉を飲み込むほどに迫ってきた。

 くそっ!!

 逃げるように走り去ったのは、渡邉の方だった。

 気づけば黄昏時になっていた。

 陽が陰り始めるとともに、辺りに穏やかな静寂が落ちてきた。

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