第2話 ヒュペリーオーンの来臨
月曜日は職員会議の日なので、美月にとっては温室に行くチャンスの日である。
学校からの帰り道、美月は一人、温室へと向かっていた。中等部の校舎と寮とを結ぶ、遊歩道のちょうど中程あたりに温室が建てられている。美月のお気に入りの場所だ。
香鈴奈は美月と同じく寮住まいなのだが、今日はバレー部の練習に参加すると教室で別れていた。
バレー部は毎日早朝と終業後に練習を行っていて、その多くに参加している香鈴奈が、美月と一緒に登下校することは少なかった。
一人の時に渡邉先生と会うことを避けている美月にとって、温室へ立ち寄れる機会は週に一回に減った。
それが月曜日の帰りだった。
今日は疲れる一日だったな……。
美月は朝からの出来事を思い出しながら考えていた。校内は終日新しい事務員の噂話で持ち切りだった。
名前も分からない、素性も分からない、そんな不確定な人にあんなに騒ぐなんて。
みんなのミーハーぶりに呆れると同時に危機意識の低さにも違和感を感じていた。
外見の印象でその人の評価を簡単に決めてしまうなんて。いくら見た目がかっこ良くったって、男の人は男の人なのに。渡邉先生だって、まだ学校に来てから半年しか経たないのに、もはや信頼できる教師の一人みたいに扱われている。むしろ、見た目や雰囲気の人気のせいで、先生の中でも良い先生にランキングされている。
背中で何かが
私にとっての「真実」を
温室のドアを開けると、すうっと
うわぁっ! やっぱり癒される。好きだなぁ!
中へ進むにつれ、ほんのりと暖かさと湿度が感じられ、身体がくつろいでいった。
「ふふっあったかぁ~い♪」
つい声に出しながら進むと、カーブした通路の先、温室の中心部分に先客が居るのが見えた。
えっ?! 渡邉先生……じゃないか。な訳ないか。私ってば、ビビり過ぎ。
沈みかけた日の光が遮るものなく差し込んで、温室内は橙色に輝いていた。
美月の位置からだと、先客の立つ位置は逆光になっていて、西陽にまだ慣れていない目には影しか捉えられなかったけれど、渡邉より遥かに背の高い体格と、白衣ではないシルエットから、渡邉ではないと判断できた。
向こうもこちらを見ているようで、「さっきの独り言、聞かれてたかな」と、少し気恥ずかしさを覚えた。
西陽に目を慣らせつつ、相手が誰だか判別出来る距離まで美月は歩み寄った。
斜陽が作り出す
身長は180cm以上あるだろうか、ちらりと裏ボアが
足なっがっ……あぁ……姿勢が良いんだこの人……。
背筋が伸びた立ち姿からは、大地から
背の大きい人は珍しくはないけれど、力強さもある人は初めてかも、と美月は見入っていた。
「こんにちは」
その体の
ドキンッ
うわっ心臓、跳ねた……
ドキ ドキ ドキ……
「こんにちは。あの…お邪魔しちゃって、すみません」
「いいえ。温室があるなんて、素敵だね。良く来るの?」
少し低めの、背格好の印象よりは柔らかめの声だった。
「はい、
「それは良かった。こんなに早く会えたしね」
「?」
早く会えて良かった? 誰に、誰が? なんのことだろう……。
「あの……」
疑問を解消しようと美月が口を開きかけるのと、彼が話を続けるのがほぼ同時だった。
「今日面接が終わって明日から勤務することになったから、許可を貰って校内を探索してたんだ」
「あ! 噂の……」
事務員さん、と言いかけた言葉を飲み込んだ。
きっとこの人は今日学校中で自分が噂されていたなんて知らないだろうし、そのまま知らない方が良いだろう。どう取り繕おうか考えていると、にこにことした顔に先手を取られた。
「分からないことばかりですが、明日からよろしくお願いします!」
元気良く言うや、深々とお辞儀をした。美月も慌ててお辞儀を返す。
「いろいろ教えてね」
そう言ってウインクした姿は映画の主人公みたいに魅力的だったけれど、美月には戸惑いという違和感の方が多く残った。
なんか……この人……人なつっこい??
美月は距離感を掴みかねて、とても落ち着かなさを感じた。
早めに挨拶して、今日はもう帰ろうか、と考えていると
「すごく機能的に作られてる学校なんだね。小中高一貫なのに、それぞれをうまく独立させている。仕事がやり易くて助かるよ」
まるで友人に話し掛けるかのように打ち解けた
事務員さんは、温室内をか、その向こうに続く校内をか、ぐるりと一周見渡すと、近くの植物に目を落とし、一つ一つの草木を確認するようにゆっくりと歩み始めた。
「この温室もコンパクトに作られているけど、中身はちょっとした植物園並みだね。温度や湿度、場所や高さ、気流や採光、隣接する植物からの影響まで、良く考えて配置されてるんじゃないかな。
話のところどころで、こちらに向けられる楽しそうな笑顔に、美月は鼓動が大きくなるのを感じていた。
ドキ ドキ ドキ ドキ
葉を裏返して何かを確認したり、そっと撫でる仕草や、植物たちに向けられる眼差しがすごく優しげで、絵になる人ってこういうことを言うのか、と美月は知った。
夕陽に全てが染まった幻想的な光景の中、
……妖精みたい。樹の妖精ってこんな感じかな。確かにかっこいい。これは、学校中で騒ぎになるよ……。
美月は高まる鼓動を誤魔化すように、話し掛けた。
「前任の澤木さんのことは知ってますか?」
「澤木さん? 名前だけは。会ってはいないし、仕事のことくらいしか聞いてはいないけど」
答えながら美月の方へやってくる。
「この温室の手入れも、澤木さんがしてたんです。時折、定期的に、専門家に見て貰ってはいたらしいけど、植え替えとか、普段の空調管理とか、勉強してバランス調整に気をつけてるって言ってました」
「そうなんだ。業務マニュアル読む楽しみが増えるね。早速教えてくれてありがとう」
低い位置に花が群生しているエリアにしゃがみこんだ事務員さんは、満面の笑顔を美月に向けた。
ギュンッと心臓が握り締められたようなる。
きゃーっっ!! 笑顔ヤバい!! 何このお散歩に行けると分かった
美月は飛び跳ねてる心臓の音を気取られないように、反対側の植物を見るふりをして彼に背を向けた。
「全然です! 澤木さんが説明してくれたこともあったけど、あんまり覚えてないし……」
静まれ、心臓。顔、あ、耳、赤くなってないかな、一方的に照れてドキドキしてるとか、恥ずかし過ぎる。この人、こんなにかっこいいのにいつもこんな感じなんだろうか。初対面なのに、まるで親しい知り合いみたいに人懐こくて、……そう、心の距離感が近い。そして、それが不快じゃない……。
そっと振り返って、彼の広い背中を見た。
こんなに男らしい体格してて、可愛らしく懐いてこられたら、女の人みんな恋しちゃうんじゃないかな。淡白って心配されたばかりの私ですら、事務員さんが特別な人なんじゃないかって気がしてきてる。
っってダメじゃん! 危機意識でしょ、危機意識! かっこ良くても男の人。どんな人か分かるまでは、ううん、分かってからも、警戒心!!
動揺を必死に抑えながら、やっぱり早くここから立ち去ろう、と美月は決心した。
「もっと、教わっておけば良かったです。植わってる木や花の名前すら、私全然知らないし……」
美月は名前の書かれた札を探す素振りで、少しずつ彼から離れて距離をとった。
「ここに咲いている白から紫の可愛い花はヘリオトロープって言うんだ」
中心部の低い位置をたくさんの小さい花で埋め、白から紫のグラデーションを魅せている植物をつつきながら事務員さんが話し始めた。
「ヘリオトロープ?」
「うん。南アメリカ原産だったかな、高温多湿に強い品種で、アフリカとか暖かい地域で良く見る花だよ。小さい花が密集して咲いてる様が可愛いよね」
ちらと彼の方を見ると、視線を花に注いだまま話している。
「甘い、良い香りがする花ですよね」
「そう。ヘリオトロープはハーブなんだ。花の色が濃い程香りが強いんだったかな。ドライフラワーやポプリ、お菓子や香水の原料にも使われる。バニラみたいな甘い香りから、英語ではcherry pieって呼ばれたり、日本語でも
「詳しいんですね」
美月は少しびっくりして口を挟んだ。
「母が植物を愛する人でね。全部母からの受け売りです」
咲き終わった花を一つ一つ取り除いているようだ。そういえば澤木さんも良くしていた。
「澤木さんも良くそうやって、花がら? 取ってました」
あ、彼がこっちを向いた、と思ったら優しく微笑んだ。ドキンとまた心臓が跳ねる。
でも、今回はすぐにその微笑みはヘリオトロープへと戻された。
「ヘリオトロープの花一つ一つは2~3日で終わってしまうんだ。でも、次から次へ、つぼみが出てきて、一年の半分くらいは開花し続ける。それを助けるのに、終わった花は取ってあげるといいんだ」
花相手になんて優しく微笑む人なんだろう、と美月は思った。
「長い期間咲く花と香りに加えて、葉の緑もこの花の魅力なんだけど、手入れをちゃんとしていないとこの濃い緑で綺麗な葉にはならない。澤木さんが
葉っぱのこと、ちゃんと見たことあっただろうか。美月は近くに行って見たい気持ちを抑えて、後で見てみよう、と記憶に刻んだ。
花がらを取り終わったのか、事務員さんは立ち上がって、赤橙色の花が咲く低木の方へ歩き始めた。
「ヘリオトロープの花言葉は知ってる?」
「いえ、知りません」
木の幹や枝や葉に目をやりながら、彼は話し続けた。
「ギリシャ神話に太陽神ヘリオスとその寵愛を受けていた水の精霊が居てね、二人の愛は永遠かと思われていたんだけど、ヘリオスはアフロディーテ、美と愛欲の女神の逆恨みを買ってしまって、強制的に人間の王女に狂わされてしまうんだ。それは酷い狂いぶりで、生真面目なヘリオスの評判を落としてしまって、神々の間でも問題視されるほどになった。水の精霊はヘリオスのために、王女の父親に二人の関係を話してなんとかするように命じたんだけど、父親は厳格な王だったから、娘を生き埋めにしてしまったんだ……」
なんとなく、真っ直ぐな視線や笑顔を向けられることが減ったため、美月は安心して彼の姿を目で追うことができた。内容だけに、斜陽の照明を浴びた、森のような植物を舞台にした、朗読劇を見ているかのようだった。
「ヘリオスは王女の死をとても哀しんで、神だけが飲む不死の薬をかけてまで生き返らせようとしたんだけど、ダメだった。でもまあ、アフロディーテの仕掛けた王女が亡くなったから、元の生真面目なヘリオスに戻って神々の間での問題も解消されたんだ」
赤橙色の花の前に着いた事務員さんは、肩辺りの位置にある花を片手で撫でながら、顔を近づけて香りを嗅ぐような仕草をした。
あの花も香りがするんだろうか?後で嗅いでみよう、とまた記憶に刻む。
そうだ、今なら、と美月はヘリオトロープの方へ移動する。
良い香り。なんだかいつもより強く感じる。美月は目を閉じて、その甘い香りに身を投じた。
「水の精霊はヘリオスが一生涯背負う程の哀しみを招いたのは自分だと、自責の念に駆られてしまい、そのことをヘリオスに告げてしまうんだ。直接的に王女を殺させた訳じゃないし、行動を起こしたのもヘリオスのことを案じてだったんだけど、王女への嫉妬が無かったとは言えないからと自分を恥じた」
「そんな……」
語られる神話の嫌な展開に、美月はつい声を漏らして彼の方を見た。
彼は変わらず赤橙色の花を眺めていたけれど、どこか遠い目をしていた。
「ヘリオスは彼女を許さなかったんだ。かつては毎日のように会っていた彼女に、二度と近づかなかった。太陽は毎日空を横切るから、ヘリオスを愛し続けた水の精霊はその姿を追い続けたんだ。大地に座り動くこと無く、ただひたすらに愛するヘリオスの姿を……。そうして9日間が経った時、水の精霊は花になってしまった、それがヘリオトロープなんだよ」
悲し過ぎる……この甘い香りの、可憐な花が……
美月はヘリオトロープに視線を戻して、そっとその葉を撫でた。
「ギリシャ語で太陽が『helios』、『trope』は向くって意味なんだ。だから、花言葉は『献身的な愛』」
事務員さんは美月に背を向けて、太陽の方向を眺めていた。
なんだろう……これと言って根拠はないけど、言動を眺めていると、この人、やっぱりいい人かも……
彼の今の
いや、悪い人じゃなさそう、が危ないんだっけ。
金井栞の言葉を思い出し、足を止める。
金井さん……「
途端に底知れない悲しさがこみ上げてきて、美月は
金井さんには、もう会えない……二度と……。
ぱちん、と指をならす音が響いて、美月はハッと音の鳴った方へ顔を上げた。
そこはちょうど夕陽の方向で、
眩しい……
黄金色の光の中、逆光に立つ事務員さんがかろうじて見えた。こっちを向いているけれど、目が慣れなくて表情が見えない。
美月は温室に入った時と同じように、ゆっくりと目を慣らしながら近づいて行く。
「悲しいことは、避けられないよね」
さっきまでとは少し違う、少し低めの力強い声だった。
「懸命に生きれば懸命なほど、悲しいことは増えるようにも思う。でも、こんな風に暖かい光はいつも誰にでも注がれていて、優しく見守ってくれているんだ」
うっすらと、
「目を伏せてしまったら気づけないから、顔を上げて。ね」
あぁ……樹の妖精じゃない……太陽だ……太陽の妖精。
美月は
「じゃあ、私は先に失礼します。温室ゆっくり楽しんで」
事務員さんは軽く会釈をすると、にっこり笑いかけてから温室を出ていった。
なんだろう、初めはあんなに落ち着かなかったのに、途中からはむしろ安心してた。初対面の人と出くわしたのに、いつもよりすごく癒されたように感じる。
もう一度ヘリオトロープの所へ戻って、咲き乱れる花全体を
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