第5話 激情
私は知香に向かって大声で叫ぶ。
「知香! 耳を見せなさい」
「どうしたの、いったい?」
「いいから早く」
きつい口調になるのをどうしようもない。
(あの女が、知香に、蜘蛛を植えた)
「わかったわ」
知香はベッドに腰を下ろした。
「どうすればいいの?」
「そこに横になって」
(あの女が、知香に、蜘蛛を植えた)
「これでいい?」
知香はベッドに横向きに寝そべった。私はベッドに膝をついて知香の上に覆いかぶさる。 LEDライトをかざして、躊躇なく耳の中を覗き込んだ。
(あの女が、知香に、蜘蛛を)
得体のしれない生き物がいるかどうか調べるなんて、いつもの私なら怖気づいているはずなのに。
(あの女が、知香に、蜘蛛を)
右の耳に蜘蛛はいなかった。
「次は左よ!」
「はいはい」
知香が体の向きを変える。
(あの女が、知香に、蜘蛛を)
自分を突き動かしている衝動が何なのか、自分でもわからなかった。知香を守りたいと言う気持ちなのか、蜘蛛への恐怖の裏返しなのか、それとも……。
(あの女が、知香に……)
舐めるようにして知香の耳を覗き込む。左の耳にも蜘蛛はいなかった。
(良かった)
安心したとたん、体を支えていた腕の力が尽きた。支えを失い、私は知香の体の上に崩れ落ちた。
「ちょっとお、どうしたのよ?」
知香に声をかけられ、私はのろのろと体を起こし、ベッドのふちに腰をかけた。一時の興奮が収まり、前よりひどい脱力感に襲われていた。
「いったい、どうしたの?」
知香も私の隣に座り、問いかけてきた。
「あなたの耳の中に蜘蛛がいるんじゃ無いかと思ったの」
「蜘蛛って、あの赤い蜘蛛のこと? で、どうだった?」
「いなかった」
「当たり前でしょ。でも、どうしてそんなことを思いついたの?」
私は答える代りに質問した。
「知香、あなた昨夜、そこのテーブルで眠ってなかった?」
「え?」
「自分でも、夢だか現実だかわかんなくなっているんだけど、ゆうべ、真夜中に目を覚ましたたら、そこのテーブルであなたが眠っていたの、そして蜘蛛が……」
「昨日帰った後、夜中にもう一回来たかってこと? そんなことはしてないわ。だって、わたしはあなたの母親でも恋人でもないんだから、そこまで面倒はみられないわよ。そうでしょ?」
そう言いながら、知香は私に微笑みかける。文字通りにとればそっけない言葉なのだけど、知香の微笑みといたずらっぽく問いかける口調から、私に何か特別な返答を期待しているような気がした。けれど、脱力した頭では考えをまとめることができなかった。
その時、耳の中に違和感が残っているのに気がついた。蜘蛛は取り除いたはずなのに、まだ耳に中に何かいるような感触がする。
「耳がおかしいの。まだ、中に蜘蛛が残っているんじゃないかしら。」
「わかった、見てあげる。ライトを貸して」
今度は私がベッドに横たわり、知香がライトで照らしながら耳の中を念入りに見てくれた。
「だいじょうぶ、もう耳の中には何にもいないわ。中でもがいたせいかしら、耳の中がちょっと傷になっているから、それで何かいるような感覚がするのかも」
「そう……。良かった」
再び、知香と並んでベッドに座り、思いつくまま頭に浮かんだことを話した。
「この蜘蛛はいったい何なのかしら、耳に住みつくなんて。もしかして、人間が獲物なのかも。人間の体に寄生し、血を吸って生きているのよ」
知香は私の考えに懐疑的だった。
「そんな蜘蛛がいるなんて聞いたことがないわ。たまたま、入り込んだだけじゃないの」
「宿主、つまり寄生された人間と共生関係にあるんじゃない? チスイコウモリが麻酔物質を出すみたいに、何かの化学物質、脳内麻薬みたいなもの、を分泌して宿主へのごほうびにし、自分たちの繁殖を手伝わせているのよ」
「繁殖を手伝う宿主って珠美さんのこと? でも、わたしも珠美さんにピアッシングしてもらったけど、耳の中にチクッなんてことは無かったわ。耳に蜘蛛がはいっていないのも見たでしょ」
「全部の人に植え付けているんじゃないかも。何か特別な条件が……」
「なんだか妄想の世界ね。ずっと家の中にいるから、そんなことを考えるのよ。外に出てきれいな空気を吸ってくるといいわ。隣の公園を散歩してきたらどうかしら。これは……」
知香はバスタオルやティーポットを見やった。
「わたしが片づけておいてあげる」
知香の顔を見ていると、なんだか、それがとてもいい考えのように思えてきた。
「ありがとう。そうさせてもらうね」
私はTシャツとジーンズに着替えると近くの公園に散歩に出かけた。体調もずいぶん良くなった気がする。見上げた太陽がまぶしかった。さっきの考えがばかばかしいものに思えてくる。振り返ると、ワンルームマンションの私の部屋のベランダから知香が私を見守ってくれていた。
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