第4話 駆除

 次の朝、目を覚ました私はおそるおそる部屋を見回した。部屋にいるのは私ひとり。どこにも蜘蛛の姿はない。私はゆうべの光景が夢だったことにほっとした。

 時計を見ると、もう昼に近い時間だった。頭の痛いのは少しやわらいだけど、脱力感は前の日よりひどかった。

 何とか起き上ってテーブルのそばに行く。自分でもばかげたことをしていると思いながら、テーブルに蜘蛛の糸が残っていないか調べた。当たり前だけど、そんなものは無かった。


 洗面台に行き、歯を磨いているうちに、自分で施術個所の手当てをしてみようと思いついた。耳たぶとピアスに消毒液を塗ってから、ピアスをつかんで二三回、前後にずらした。チリチリとした痛みがはしる。その時、右の耳の中に違和感がした。何かが詰まっているような感じ。洗面台の鏡に映してみたがよく見えない。

 バッグから携帯用の鏡を取って来て、合わせ鏡のようにして耳の中を映して見た。えっ、耳の奥の方に白いものがある。柔らかい袋のようなもの。見ているとひくひくと動いた。背筋に冷たいものが走った。耳の中に何かいる!


 その時、ドアチャイムが鳴った。鏡を持ったまま、玄関に行って扉を開けると、そこにいたのはコンビニのレジ袋を提げた知香だった。すぐ部屋にはいってもらう。

「知香、ちょうどよかった。私の耳の中に何か変なものがいるの。見てちょうだい」

 知香はきょとんとしていたが、促されて私の耳を覗きこんだ。

「いやだ。なに、これ」

 知香の声が上ずっていた。

「耳の奥に白い繭のようなものがあるわ。中で何か動いている。虫か何かみたい」

「どうすればいいの? 病院に行って……」

 知香は停電時用のLEDライトを持ってきて、奥の方を照らしながら耳を覗き込んだ。

「耳かきで掻き出せないかしら。でも、もし奥に逃げて鼓膜を傷つけたりされたら……。そうだ、ちょっと待っていて」


 知香はミニキッチンに行き、戸棚から何かを取り出して鍋で温めはじめた。

「おまたせ」

 知香は白いティーポットを持って戻ってきた。

「オリーブオイルを人肌に近い温度に温めたわ。これを耳に入れて虫を溺れさせる。殺してから取り出しましょ」


 私は知香に促されて、ベッドに横になった。枕の上に何枚もバスタオルを敷き、右耳を上にして頭をのせる。

「動かないで」

 知香がティーポットからオリーブオイルを少しずつ私の耳に注いだ。耳の中が暖かいもので満たされていく。

 奥深くが満たされた時、何かが耳の中でもがき始めた。耳の中の皮膚を小刻みにひっかかれる感触。オイルに満たされた耳の中で、その動きはグオゥグオゥという音として聞こえた。

 耳の中を傷つけられるという恐怖で跳び起きたくなったが、必死に耐えた。知香が手を握っていてくれた。

 グオゥグオゥ、グオゥグオゥ、グオゥグォ。グオゥ、グォグォ……。

 時間がたつにつれ、耳の中の動きは少しずつ小さくなっていく。

 グォグォ、グォグォ……、グォ…、グォ……、グ…。

 それは断続的な動きになり、間隔が広がり、ついに動きが完全にとまった。

「動かなく…、なったわ」

「念のため、もう少しそのままでいて。時間を計っておいてあげる」

 私は横になったまま、ぼんやりと知香と過ごしたこの六日間のこと、そしてピアスホールを開けた日のことを思い出していた。発熱のためか、はっきり思い出せないところもある。耳の中にいるのが何かは、怖くて考えたくもなかった。でも、ひとつの疑惑が心の中で形を取りはじめていた。

 

「五分たったわ。もういいんじゃない?」

 知香の言葉で、私はバスタオルを折りたたんで右耳に当て、手で押さえたまま体を回転させた。オイルがとろりと流れ出るのを感じる。


 知香がバスタオルを取り上げ、私をベッドのふちに腰かけさせた。バスタオルを見て顔をしかめる。

 私もおそるおそるバスタオルを覗いた。オイルのしみた部分に耳から流れ出したものが引っかかっていた。ひとつは細い糸でできている直径一センチくらいの白い幕状のもの、もうひとつは脚を縮めて死んでいる小さな蜘蛛だった。

 知香は薬箱からピンセットを取って来て、蜘蛛の死骸をつついた。大きさは五ミリくらい。楕円形の胴体は真っ赤な色をし、脚には短い黒い毛が生えている。

 その姿に見覚えがあった。昨夜の夢に出てきた蜘蛛だ。大きさは少し小さいが、形はそっくり。でも、そんなことって。


 知香が死骸をつつきながら話す。

「これって蜘蛛よね? でも、人間の耳に巣を作る蜘蛛なんて聞いたことが無いわ。どうして耳にはいったのかしら」

 私には思い当たることがあった。エステサロンでの右耳の痛み、次の日から急に悪くなった体調、耳から出てきた蜘蛛の死骸。ぞっとする話だけど、きっとあの時に……。

 

「エステサロンでピアスホールを開けてもらった後、エステティシャンが私の耳に顔を近づけてきた。そしてチクッという痛みを感じたの。あの時、卵を産みつけられたのよ……。あの女は来院した人に蜘蛛の卵を植えつけているんだわ」

 口に出した瞬間、平穏な日常が足元から崩れて行く感覚がした。異常な世界が私と知香を飲み込んでいく。


「瑞葉の言っているのは珠美さんのこと? あの人はそんな……」

 知香の言葉に、いやな記憶が次々とよみがえった。知香があの女と親しげに話す姿、あの女のピアッシングの腕をほめる知香、夢の中で知香の耳から出てきた何十匹もの蜘蛛……。

 突然、心の中に恐ろしい考えがうかんだ。

(あの女は、知香にも、蜘蛛を植えたのでないか)

 思いついた瞬間、全身の血が逆流した。怒りがふつふつと沸き起こる。

(あの女は、知香に、蜘蛛を植えた)

 言葉が頭の中をぐるぐると回る。両腕に鳥肌が立ち、うなじの毛が逆立った。

(あの女は、知香に、蜘蛛を植えた)

「瑞葉、顔色がひどいわよ。大丈夫?」

 何も知らずに私を心配してくれる知香を見た時、胸の中でどろどろと渦巻く衝動が自制心を吹き飛ばし……、私は爆発した。

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