第3話 蜘蛛
寝込んでから六日目の夕方、私は知香と一緒にテレビを見ながら晩ごはんを食べていた。テレビに映っていたのは世界のいろんな動物の生態を紹介する番組だった。画面に醜い顔をした蝙蝠が映る。名前はチスイコウモリ。南米のジャングルに住み、夜になると家畜小屋に飛んでくるのだという。チスイコウモリは牛や馬などの家畜に背後から近づき、鋭い牙で家畜の皮膚に傷をつける。にじみ出てくる血をちろちろと舌を動かして舐め取るのだ。唾液には麻酔と血を固まらなくする成分が含まれているのだという。獲物は血を吸われていることに気づかない。チスイコウモリはじわじわと滲み出る血をいつまでも舐め続ける。
私はぞっとして目をそらせた。ふと知香を見ると、彼女はうっとりと画面を見つめている。ちろりと出した舌で上唇を舐めた。
「悪いけど、チャンネルを変えてもらっていい?」
知香はびっくりしたように私を見た。
「いいわよ。瑞葉はこういうのは苦手なの?」
「だって、気がつかないまま血を吸われ続けるなんてひどいと思わない?」
「本当は血を吸われている方も気がついているんじゃない? 麻酔物質で気持ちよくなって、そのまま吸わせてあげてるんじゃないかしら」
私は朦朧として傷口を差し出す動物の姿を想像して、おぞましさに鳥肌が立った。
「いやだ! 血を吸われても抵抗しないなんて。麻酔物質で気持ちいい? それは、体だけでなく心も弄ばれているってことよ」
「やだ、冗談よ。本気にしないで」
知香がリモコンのボタンを押すと、画面はたわいもないゲームに興じるタレントたちに変わった。
その日の深夜、ベッドの中で浅い眠りと目覚めを繰り返しているうちに不思議な夢を見た。目は覚めているのだけど、体を動かすことができない。部屋を見回すと、ベッドの脇のテーブルに誰かがつっぷして眠っているのが見えた。知香だ。意識の中のさめた部分で、これは夢だと気がつく。だって、知香は晩ごはんを一緒に食べた後、自分の家に帰って行ったのだから。夢の中の知香は昼間と同じ薄紫のチュニックとジーンズを着ていた。違うのは赤いピアスをしていること。現実の知香は私の部屋に来るようになってからはピアスを付けていない。眠っている知香はとても幸せそうな寝顔をしていた。
知香の耳のあたりで何かが動いた。赤いピアス、あの蜘蛛のピアスだけど、脚は金色ではなく黒色だ。その脚がひくひくと動く。折りたたんでいた脚を広げると、8本の脚はリズミカルに動き出した。ピアスではない。生きた蜘蛛だった。蜘蛛は耳を這いまわり、耳たぶに達するとお尻から糸を出し、ぶら下がってミニテーブルの天板に降りて行った。天板の上を這って知香の顔にたどり着く。ふっくらとした唇に前足をのせて、閉じた唇をこじ開けようとする。虫の力でこじ開けられるはずもなく、しばらくすると諦めたようにあたりを這い回り始めた。やがて、知香の指の間を這いあがり、手の甲、手首を通って袖口の中に消えた。チュニックの布地がわずかに動くので、蜘蛛が服の中を通って行くのがわかる。二の腕、肩口、そして、襟の内側から姿を現し、首筋を登って行く。再び、耳介に達すると耳の中に姿を消した。
私は夢うつつのまま、知香をぼんやりと眺め続けた。どれだけの時が経ったのか、耳の中から再び蜘蛛が姿を現した。蜘蛛は耳たぶに這って行き、糸を出してミニテーブルに降りて行った。そして、知香の耳から別の蜘蛛が出てきた。やはり血のような赤い色。その後ろから、また蜘蛛。一匹だけではない。次から次へと蜘蛛が耳から出てくる。蜘蛛たちは糸を出して耳たぶから降りると、天板の上にたむろした。数十匹はいる。
私が見ていることに気付いたのだろう。蜘蛛は少しずつ私の方に頭を向ける。やがて、一斉にこちらへ向かってきた。ミニテーブルの端まで来ると、糸を出してぶら下がり、床に降りた。糸を切って床の上を這い、近づいてくる。ベッドの足もとまで来ると、ベッドの陰になり姿が見えなくなった。代わりに小さなカサカサカサという足音が聞こえてくる。
夢の中の自分をもう一人の自分が眺めている感覚。私は心の深いところで、蜘蛛が私を獲物として見ていることを知っていた。そして、身動きできない私が抵抗できないことも。私は蜘蛛におびえるとともに、蜘蛛の姿を近くで見たいという好奇心にかられていた。私に襲いかかる蜘蛛の姿、そして蜘蛛に食べられる自分の姿を見てみたい。倒錯した思いが心の中に渦巻いていた。
カサカサカサ。音は聞こえるが、いつまでたっても蜘蛛はベッドの上に現れなかった。そして、私は気がついた。チスイコウモリのように、蜘蛛たちも私の死角、背後から近づいている、いや、既に私に取りついていることを。カサカサカサ、蜘蛛たちは獲物に痛みを感じさせずに血をすする。カサカサカサ、足音を聞きながら私の意識はまどろみの中に沈んで行った。
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