第10話 群れることと社会で生きることは別物

 群れることをしたがる、あるいはさせたがる手合いについて論じて参ったが、群れることと社会の中で生きていくこととは、似て非なるものである。

 それに気づかないのが、無能の無能たるゆえんなのです。


 人と協力し合う、人とうまくやっていく。

 もちろん、大事なことです。

 しかしながら、それと、群れることとは、似て非なるもの。

 しつこいけど、あえて言いますね。


 単に群れることと、社会で生きていくことは、まったくの別物です。


 この区別のつかないのが、無能の無能たるゆえんなのです。

 ~それにしても、しつこさ感あふれていますな(苦笑)。


 昭和中期の、まだ孤児院と言われていた時代の雰囲気が残っていた頃の養護施設あたりには、群れていれば社会性が身に着くとでも思っておって、それで何とか年端のいかん子どもらをつるませておけば、そのうち「社会性」も身についていく、ぐらいに思っていたのでしょう。

 だが、今どき、いえいえ、私が中学生や高校生の頃(1980年代)にはもはや、そんなものでは通用しないところまで、時代は進化していたのですよ。


 それは何も養護施設という特殊な環境だけの話じゃ、ないよ。

 その頃からでしょう。

 いわゆる「いじめ」の問題、高校中退の問題、それに伴う大検こと大学入学資格検定の受験者、合格者が過去最高を毎年更新し始めたのは。

 文部省の「子どもだまし」が、だんだん、通用しなくなっていた時代でもある。

 わしは、そう思っております。


 学校に行っていれば、社会性が身に着く。

 逆に言えば、学校に行かなければ、社会性が身につかない。

 それこそ「トモダチ」もできないから・・・。


 そんな浅はかにして短絡な思考をして、いよいよ大検を使って大学に行かねばならんと真剣にテメエの人生と向き合っていた少年に向って、わかったような口を利いてきた無能な職員もいたけどさ、まあ、今思っても、不快である。


 あ、なお、誤解のないように言っておくけど、その職員さん個人は、ものすごく善良なだけでなく、いい人ですよ、「人間的」には。だが、人間的にいい人だからと言って、それで免罪符になるわけでもないからね。そこは、勘違いしないように。

 こういうとまた、「そんな、お世話になった人に向って無能呼ばわりとか何とか、今この年に至ってまでこんな言葉で書き倒さなくてもいいではないか、過去のことは水に流すという言葉もあるだろう。大目に見るという概念も、許すという心根もないのか・・・」などと、わかった口を叩いてくる低能が沸いて出るのが相場である。


 勘違いするなよ。

 これはわし個人の私的な恨みを晴らすために書いているのではないことに、気付けよな。あ、気付けないから、低能なのだね。ごめんごめん。

 もうひとつ。「お世話になった」とか何とか、第三者のオドレが勝手に抜かすな。そうであったかどうか、逆に相手にしてみれば、「きちんと世話した」と言えるかどうかはな、当事者が決めることや。

 第三者のオドレが何様か知らんが、生意気抜かすなよ。

 その減らず口があるなら、厚生労働省のその筋の部局に、文句は直接言いに行きな! 何なら、書面の一つでも作って、提言でもしてみな。

 できねえなら、すっこんどれや、雑魚が(ま、無理だろう)。


 ということで、低能の罵倒はこれまで。

 次回からは、その「トモダチ」論をやっていく所存である。

 これこそが、「社会性」の核(中核は・・・=中核派、じゃないよ。別に、ゲバ棒もヘルメットも毒ガスマスクも出てこないからね~苦笑)となる部分であるからな。

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