小説が書けない日のエッセイ

底道つかさ

小説が書けない日のエッセイ

今日は小説が書けなさそうなのでこの雑記を記します。


 何も考えずに書き叩く小説は意外とスラスラ文が出るものです。しかし自分が本当に書きたいと思っている、「これは」というものについて書こうとすると途端にキーを打てなくなります。

 いろいろな設定や場面が浮かんできます。でもその肉をくっつける骨子となるテーマが決まらない。なんで自分はこの話を書きたいのかという、その根本的な理由が判然としない。


 この問題を対処するべく一旦自分という個人から離れて、自身を大衆の一部として世間が何を求めているかという観点から自分が求めているものを探ってみます。


 しばし前からよく目にするキーワードは「エモい」「尊い」「推せる」。多様性の坩堝に堕ちて意味消失したこの単語を自分なりに解釈してみます。

 流行りのソシャゲのシナリオ郡に合わせて解読してみると、「悲しくて辛いけどそれに負けない人物たちの姿が{エモ}くて{尊い}、それで好きになったから{推せる}」という感じでしょうか?


 ではこの解読から見える世間の需要とは何でしょう。


 1.「悲しくて辛い」、これは求めるそのものではない気がします。我々は常に、こと最近の数年においては現実で有り余る苦しみ辛み悲しみを得すぎた。この上フィクションでも更に求めているというのはちょっと違う気がする。「現実と非現実は別腹」「自分より酷い物を見て安心する」という場合には好まれると思います。


 2.「過酷に負けないキャラクターの姿がエモい、尊い」、これが求められいるものとしては一番近いと思います。「自分の現実は覆しようがないけど、物語の中でより過酷な環境にあって負けずに戦う姿に励まさせる。勇気や力が湧いてくる」。これは某拳闘パンアニメや某改造され人間、巨大全身タイツ英雄などから通ずる物語の基本的な制作と鑑賞者の共通の動機でしょう。

 揺籃から墓場まで捨てられない、種全体の生存本能が文化として昇華され、いかなる時代でも求められてきたもの。それが今もまさに欲されているという事と考えるとわかりやすい感じがします。


 3.「好き、推せる」。説明がいるでしょうか?好きな人がいるから頑張れる。愛は次元を超える。二次元だからそいつがサイコ野郎でも全くOK(欧米とかだと常識的にNGだったりしますが)。「好きな人に会いたいから見る」ので表現力や完成度とか全然気にしない。問題は自分で迎えに行く際の経済的高度のみ。これもまた非常にわかりやすいですね。


 さて、ぐだぐだと良い連ねましたがここいらで自分の体に戻って改めて、上記の要素に自分が書きたい話の骨子に当たるものがあるか見直してみます。


「……………………………………」

なんかどれも違う。

当たり前やろ、世間様と個人の需要が合致するわけなかろ。

考える前に気づけや。


 さて、もう締めてしまいましょう。個人的な決めつけから始まり個人的な分析によって得られたものとしては、私の場合、一番近いのは2.「負けない姿がエモ尊い」であった気がします。

 でも抗っている姿が良いのであって、別に負けてもいいし死んでもいいと思います。理不尽や不合理をそのままにしてもいいのかといえば違いますが、フィクションだからってそれが絶対ひっくり返らないといけないってことはないと考えています。

 では、わたしの書きたい話において重要なこととは何か。

 「許せないことに対して怒り、嘆き、聞き分けなく抗うこと」。溢れる衝動をぶちまけることが、自分にとってはマストなのかもしれません。より完結に言うと

「気に入らないからとにかく暴れないと気がすまない」になるでしょうか。


 まあ、こんなところでおしまいです。

 ご拝読ありがとうございました。


 「それで結局書けそうなの?」

 「まだ難しいんとちゃうかな……」

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小説が書けない日のエッセイ 底道つかさ @jack1415

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