第109話 遥かに続く道の途中
白銀桐子の朝は早い。
日が昇る前に目覚めて朝食の仕込みを始めたり……するのはむしろ彼女の雇い主にあたるクロエの仕事なのだが、日が昇る頃になるとキリコは見回りを兼ねて屋敷周辺から続く西部領の一部を走り込んでいる。これだけでは単純なロードワークに思えるが、驚くべきはその速度と移動ルートにある。
魔力を用いて強化した身体能力は人間の常識を軽く凌駕する。
魔界と呼ばれる大陸を横断する魔導列車よりは流石に劣るものの一般の魔導車を追い抜く程の速度で、それでいて建物という名の障害物を避けるべく上下に拡がった立体的な走行ルート、さながら魔界式パルクールがシロガネ・キリコの毎朝の日課なのだ。
キリコは早朝に自らが仕えているシュヴァリエ家、西部領の領主邸を出てそのまま西部領内の主要都市へ。往復で一時間ほどかけて屋敷に帰って来る。
だが、彼女の朝の日課はそれだけでは終わらない。屋敷に戻ると休憩もそこそこに戦闘訓練を始める。流石に朝早い時間でもあるので相手の居ないいわゆる形稽古のような物でしか無いが、そこに手を抜く様子は感じ取れない。
突いて、蹴って、ごく単純な基本動作をどこまでも丁寧に。己という刃を鋭く研ぎ澄ますように日々の鍛錬を繰り返す。『道に終わり無し』その言葉の意味をキリコは改めて体感するようになった。
そんな呼吸するかのように鍛錬を繰り返すキリコだが、彼女が養成所を卒業してシュヴァリエ家に仕えるまでに一悶着あった事を彼女は知らない。元々キリコの卒業後の進路を決めたのは今から二年前の話、当時の西部領が抱えていた問題を解決に導いた立役者として持ち上げられた時であった。
領主であるクロエとの関係性も良く、能力的にも申し分無し、そのうえ大衆からの支持も得られている好機を逃すような前領主のローザでは無かった。騒動から数日後には根回しを済ませてキリコの卒業後の進路を当人の意志を確認すらすることなく決定してしまった。
しかし、それから二年経つ。三日会わなければ見違えると言われるのは男子だが、女子であってもそれは例外では無いだろう。ましてや養成所でのサニーによるしごきを乗り越え、さらに自主的な鍛錬を欠かさなかったキリコのことである。近接戦闘においては養成所訓練生のレベルを裕に飛び越え、軍の中でも個人戦力に優れている第7隊の隊員と正面から戦えるまでに成長した。
……早い話が成長し過ぎてしまったのだ。青田買いに近い形で進路を決定してしまったことを咎められるくらいには。当然ながら山のようにやってくる各方面からのお話をローザとクロエ、そしてカーラが必死になって潰して回った。
一方でその話題の中心にいるキリコが何を思っているかというと。
「まだまだ、道半ばにも程があるわね」
基礎能力とでもいうべき体力や魔力は未だ発展途上、魔界に来る原因となった魔法の制御はそれなりになったものの、追加の課題とばかりに押し付けられた鍛治の神が造り上げた槍は手に余り、槍を理解する一助になればと教えを乞うた黒峰からは『槍にあって槍にあらず』などと禅問答めいた助言をもらう始末、これらもまた乗り越えるべき試練なのだと己に言い聞かせるもあまりの手がかりのなさに投げ出したくなってくる。
「それでも、出来る事をやってかないと」
道のりが険しいことも、その果てが見えないことも、自分が一番よく分かっている。
けれどもそんなことは歩みを止める理由にはなり得ない。
小休憩を終え呼吸を整えたキリコは身体に流れる魔力を抑えた後、気の運用へと鍛錬を切り替える。いつもと変わらないルーティーンであるにも関わらずキリコはふと去年の事を思い出していた。
「もう、一年経つんだよね」
キリコは去年の今頃ちょうどこの場所で死にかけた。
何かに襲われた訳でもなく、知らぬ間に病に蝕まれていた訳でもない。ただ無知な己が興味本位で力を振るい自滅しただけの話だ。魔力も気もそれらが何かよく分かっていないにも関わらず両方を同時に扱おうとして体内を酷く損傷した。朝食の準備を終えたクロエがキリコを呼びに来るのがあと少しでも遅れていたら命はなかっただろうというほどに危険な状態だったらしい。
周囲の助けを借りて幸運にも危機的状況を脱したキリコはそのまま黒峰理沙に気の扱いについて教えを乞う事となった。いや、鬼気迫る表情で詰める理沙を前にキリコの選択肢が残っていなかったというのが正しいかもしれない。
実際、理沙からしてみてもキリコの存在は無視できるようなものではなかった。黒峰の認知しない所で見つかった明らかに黒峰の拳筋を有する少女、そのくせ力は強く技術は未熟、不安定で危うい事この上ない彼女を前に理沙の提案は二つ。この場で死ぬか、それとも理沙が良しとするまで鍛錬を進めるか。
結局、キリコはその年の休みをほとんど使い潰す形で気の扱いを習得する事となった。
「ひとまず自滅するような事はなくなったけど、手掛かりが何も無いままなのよ」
形稽古を再開しながらキリコは考えを巡らす。
実の所、キリコが気の鍛錬を始めたのは去年が最初という訳ではない。彼女が魔法を使えるようになる前、事故に近い形で真希を刺してしまうより前に黒峰の元でその鍛錬を開始している。当時のキリコはなんとなくだが気を知覚する事はできていた。にも関わらず、それを自身の身体で扱う事は出来なかった。
「ひょっとして、本能的に気の運用を忌避していた?」
過去の自分の無意識なんて当てにするものじゃないだろうけど可能性はある。生来、無意識に魔力を扱っていたのなら。魔力と気が反発する事を本能が感じ取っていたならば。いくら黒峰の教えを受けたとて後天的な気の運用に才覚を見出せないことはあるだろう。思い起こしてみれば確かに周囲の人達よりも身体能力に優れていた自覚はある。それが無意識下における魔力による身体強化の恩恵だったとするならば。
「なんか、ズルしてたみたいで申し訳なくなってくるなぁ」
少しばかりの後悔、今更思ったところでどうにかなるものではないのだが。
「結局、魔力ってなんなんだろ?」
不意に魔法が使えるようになって3年、キリコの悩みは一周回って元の位置に帰って来た。最初にサニーから魔力の説明を受けた時『体内に魔石を有する者が扱えるエネルギー』と教わった。気の運用を理沙から教わった時『気は生命と意志から発するもの』と説明を受けた。
ならば互いに反発するこれらは一体何なのだろうか?キリコは思う。
『気は生命と意志から発する』これはおそらく正しい。キリコにその運用を教えた黒峰は遥か昔からその技術を世代を超えて繋いできたのだ。流石に今更になって大きく間違っているなどという事も考えづらいし、なによりキリコ自身が気の運用とはそういう物だと体感している部分もある。
ならばそれと反発する魔力は真逆の存在だろうか?
魔力は生命から発するか?と問われればキリコは必ずしもそうではないと答えるだろう。彼女の周囲で言えばクロエなんかが良い例だ。吸血鬼である彼女はいわゆる一般的な生物としての生命活動をしていない。魔力を燃料に稼働する死体で他者から摂取する血液は一時的なブースターだ。生き物というより機械という方が表現としてはしっくりくる。
じゃあ、魔力は生命活動とは関係ないエネルギーなのか?と問われればキリコはやはり必ずしもそうではないと答える他ない。自身の感覚的な物でしかないが体調の影響を少なからず受けるし、他者を観察していても概ねそういう傾向にあると言っていいだろう。
つまり、よく分からない。
そして、魔力は意志に反する物なのか?と問われればそんな筈ないとキリコは答える。少なくとも自身は自らの意志で魔力を操っている筈なのだ。意志の全てが自らの内から発するものかと考え出すとキリがないが、キリコの魔力はキリコの意志によりその有り様を変化させているように彼女自身は感じ取っている。
様々考えを巡らせてみたが、やっぱりよく分からない。
「考えたくらいで分かる答えならとっくの昔に見つかってるはずよね」
キリコは生じた悩みを振り払うように拳を、脚を振るう。気を巡らせると自らとそれ以外の境界をより強く感じるのは気のせいだろうか?自らの感覚が鋭敏になっているのか、あるいはそれとも。
「私の気と周囲の魔力が反発してるとか……流石にある訳ないか」
一時の迷いから生まれた仮説を自ら否定する。
「でも、試してみるのはタダよね」
それでも、期待ばかりの仮説が正しくない事を証明するくらいはしても良いだろう。
あくまでも実験、仮に発動してしまっても被害が出ないように方向は真上……水はダメ、火もダメ、風なら大丈夫だろう。あまり難しい魔法を選ぶのも良くない……その場の空気を押し出すシンプルなやつにしよう。
身体の内から発する気を外へ、世界の有り様を自らの意志で塗り潰すように。空間そのものに魔術式を刻むように手脚を動かす。上に向けてしまったせいで奇妙な動きになってしまったが、今は気にしないでおく。そんな事よりも大事なのはハッキリと大きく魔術式を構築する事、仮に発動したらそれがきちんと分かるように。
「“最初は大きく伸び伸びと……”だっけ、懐かしいな」
それは魔法を知る由も無かったかつての自分に向けられた言葉。はるか未来の幼い頃に黒峰の屋敷で武術の手ほどきを受けた時に教わったもの。
「魔術と武術に関係性は見出せそうにないけど……っ!?」
なにかの型のようなそうでないような奇妙な動きを終えて魔術式を完成させる。予想通りやはり何も起きないかと思った次の瞬間、キリコの頭上で強烈な突風が空に向かって吹き上がった。
「うわっ!ちょっ!」
突如として吹き上がった暴風に飛ばされないようにキリコは近くの木にしがみつく。
「この規模はさすがに予想してなかったんだけどな……」
『きっと何も起きないだろう。何か起きれば儲けものだな』程度の気持ちで行動を起こした彼女は自身が引き金となった事態の様子を呆然と眺めるほかなかった。自身の魔力で行使した魔法でないが故に加減ができず、そのうえ状況が魔法をきっかけにして引き起こされる物理現象となってしまってはもはやキリコにできることは何もない。周囲を巻き込んで吹き荒れる暴力的な上昇気流が収まるのをじっと耐えて待つのみである。
「……うわー、ひどい目にあった」
しばらく吹き荒れた風が収まった頃、ようやくキリコはしがみついていた木から離れた。
髪は乱れ放題、服は風に吹かれて飛んできた葉っぱやら木くずやらでひどい状態になってるものの、どことなく他人事のような感じがするのは自身の手に負えない事象を前に苦笑するしかない状況だったからかもしれない。
魔力について、気について、はたまた二つの関係についてまだまだ実験したいことはたくさんあるものの、ひとまず朝の日課を終えて屋敷へ戻ろうとするキリコの視界、その上方に人影が飛び込んできた。
「キリコ!この辺りで巨大な魔法反応があったんだけど何か知らない!?」
そう声を上げる彼女はクロエ・シュヴァリエ。キリコの雇い主で、親友で、大切な人。そして西部領の領主でもある彼女が自身の屋敷の範囲内で異常を察知すれば飛んでくるのは当たり前の話、だけど今近くに来られるのは都合が悪い。彼女を見上げたキリコはその背後にある空模様を見てそう判断した。
「クロエ!今こっちに来たらダメ!」
西部領特有の湿った空気を勢いよく打ち上げればどうなるか、改めて説明するまでもないだろう。キリコは異変を察知して飛んできたクロエと共に突然の大雨で全身余す所なくびしょ濡れとなった。
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