忘れらない儚き者 ビーノ 13歳年上のカノジョ

しまざき乃奈

第1話 故郷での記憶

 私の故郷は千葉県南部の太平洋側、房総半島の外房と呼ばれる地域にあり、東京駅から最寄りの鉄道駅までは、電車を乗り継いで片道三時間ほどです。

 バスタ新宿や東京駅前から高速バスで館山駅まで来て、そこから電車を使う別ルートもありますが、時間的には大して変わりません。


 駅周辺や国道沿いには、それなりに店舗や民家がありますが、少し離れてしまうと山と田畑と、どこまでも広がる海だけです。夏休みや秋の行楽シーズンだと、多少の観光客もいますが、普段は昼間でも道行く人影はまばらで、公共交通網の貧弱さ故に車やバイクを持ってないと買い物にも不自由する典型的な片田舎です。


 以前の住所は「町」でしたが、平成の市町村合併によって、近隣の町村と統合して「南房総市」になりました。里帰りをする都度、感じるのですが市になったことで、当時の役人や政治家たちには旨味があったのかもしれませんが、住民の生活は何も変わらず、街並みは寂れる一方です。


 私こと島崎瑛斗しまざき えいとは、1969年10月に生まれ、大学入学で1988年に上京するまで、こんな環境の中で暮らしてました。



「この辺は、そこそこ食っていける仕事ならあるけど、

 家族を養えるだけの給料を机に座って貰いたいなら、迷わず町を出るんだよ」


 地元の高校を卒業後、都内の簿記学校に進み、台東区蔵前の玩具問屋で経理事務員として働いていた母親は、口癖のように言っていました。


 県施設の職員だった父親と結婚し、故郷に戻った母親は、両親から引き継いだ畑を耕して自家消費プラスα程度の野菜を栽培する一方、学生時代からの親友だった大垣晶子おおがき あきこさんが経営する大規模なキャベツ農場で帳簿付けや収穫、出荷などを手伝っていました。


 島崎家と大垣家は、母親同士が親友で家も近かったので、家族ぐるみの付き合いをしており、どちらも子供は一人っ子ということで、私と大垣家長女の佳奈江かなえさんは、同い年ながら姉弟のように育てられました。

 小さい頃から「瑛ちゃん」「佳奈ちゃん」と呼び合って、お互いの家を頻繁に行き来し、小学三年生くらいまでは泥だらけになって遊んで、一緒にお風呂に入るのが日課でした。


 住み込みの従業員の他にパートさんやバイトを雇うほど、収穫や出荷が忙しかった大垣家に代わって、島崎家の家族旅行やドライブには、佳奈江さんを連れて行くのが恒例で、小学六年生までは、学校帰りに我が家に寄って、宿題を一緒にやってから晩御飯を食べて、彼女のお母さんが迎えに来るまで、二人でテレビを見ていました。


 さすがに今では変だったと自覚してますが、二人とも妙な姉弟感覚が高校卒業辺りまで抜けず、他人で異性という意識が極めて希薄でした。小さい頃から、佳奈江さんとは同じ布団で昼寝をしていたせいか、高校生になっても学校帰りに制服のまま、私の布団に潜り込んできて、「瑛ちゃん、昨日の夜、眠れなかったから横で寝ていい? 瑛ちゃんの匂い嗅ぐと、すぐ眠れるんだ」と添い寝をしており、こういう彼女の無防備かつ大胆な行動は「ちょっと佳奈江! それはヤバいって!」「お、お前らは、そういう関係なのか?」と、しばしば同級生たちを驚かせていました。


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 私の身体に変化が始まったのは、小学六年生からで、まず胸が膨らみ始めました。中学一年生の頃には乳首も含めて、十代始めの少女のようになり、尻や太腿も同年代の男子より太く丸みを帯びた反面、男性器の発育は著しく遅れていました。


 胸が膨らんで乳首が痛痒くなった頃に両親に相談したら、すぐ近所のかかりつけ医に連れて行かれ、女性化乳房と睾丸と陰茎の発育不全という症状から、性染色体の数が通常よりも多い「クラインフェルター症候群」という聞き慣れない病名の可能性を告げられました。しかし、田舎の開業医では正確な診断や治療ができないということで、紹介状を書いてもらって、県内の大学付属病院に通うことになりました。


 検査の結果、性染色体の数は正常で、当時、クラインフェルター症候群患者の外観的な特徴とされていた高身長でもなかったので、病名は「性分化疾患」とされ、女性ホルモンの分泌が多く、男性としての二次性徴が始まる前に乳房の発達が始まったという診断でした。


 成人してから医師の鮎香瀬和子あゆかせ かずこさんの秘書になって教えてもらいましたが、本来、性分化疾患の患者は、生まれて間もない頃に外性器で診断されることが圧倒的で、私のような二次性徴期の段階で判断されるケースは珍しく、どうも当時、合致する病名がなかったから、そう診断された可能性が高いとのことでした。

 私が診察を受けたのは1980年代初頭でしたが、その後、正常な性染色体を示す細胞が混じっている「モザイク型クラインフェルター症候群」が存在することや、高身長ではない患者も数多く確認され、もしも今、診察を受けていたら、違う診断結果になる可能性があります。


 大学付属病院での治療は、男性器の発育を促すことが最重要課題とされ、男性ホルモンが投与されました。

 担当医は膨らんだ胸も小さくなるかもと期待を持たせる説明をしていましたが、結果的には、髭が生えて体毛が濃くなっただけで、男性器の成長は期待ほどではなく、お尻や太腿、膨らんだ胸や大きな乳首もそのままでした。しかし精通が確認され、男性器も勃てば、かろうじて平均的サイズに達したということで、二年足らずで通院は終了します。


 私は男性らしい身体になるまで治療をしてくれると信じていたので、見捨てられた感がありました。身体つきは女性っぽいままなのに髭とすね毛が生えた中途半端な状態にして放り出すのなら、何もしてくれなかったほうが良かったと担当医師に文句を言いましたが、「治療の効果は人によって異なる」「我々もベストを尽くした」「これが精一杯」を繰り返すばかりで「将来、僕は結婚はできますか? それ以前に、こんな身体で付き合ってくれる女性はいますか?」の問いに返事はなかったです。


 もしも、10年後か20年後に生まれていて、こんな結果で放り出されるとわかっていたならば、治療などせずにネットで情報を集めて、女性ホルモンを個人で入手し、男の娘とか外見だけでも女性になっていたと思います。

 残念ながら1980年代は、まだスマホもパソコンもSNSもなかったので、そんな生き方があるという情報を得るのは、千葉の片田舎では不可能でした。


 治療が始まった頃、両親は気を回して、水泳の授業や身体測定などは配慮して欲しいと学校側に申し入れました。ところが頭の悪い体育教師がプールの授業の際、クラス全員に「島崎は、身体が女になる聞いたこともない病気だからプール(の授業)は免除だ」といい加減な説明をしてくれたお陰で、すぐにいじめが始まり、一時期は登校拒否になってました。


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 こんな普通とは違う身体の少年が、想像もしなかった人生を歩むことになったきっかけは、中学の美術教師だった長谷部響子はせべ きょうこ先生から、油絵のモデルを依頼されたことでした。

 長谷部先生は学校で教師をしながら、コンクールや美術展に作品を出し続けている画家でもあり、私も中学二年と三年のときに授業を教わりました。


 当時28歳だった先生は、外房の風景や農夫や漁師の働く姿を描いており、周囲からは「若手の女流郷土画家」と呼ばれ、学校の応接室や公民館、農協などに作品が飾られるなど、一定の評価を得ていました。しかし、本心で描きたかったのは少年裸画で、いいモデルがいたら実行したいとずっと思い続けてたそうです。


 私に興味をもったのは、顧問を務めていた美術部の生徒より「うちのクラスの島崎くんは、身体が女子みたいになる病気で水泳の授業は見学するだけ」という話を聞いてからでした。


 長谷部先生は絵のアイデアを記録するため、オリンパスXA2という変わったデザインのコンパクトカメラを、いつも持ち歩いており、通勤途中の季節の変化や校内の様子、学校行事に参加する生徒たちをスナップ撮影してました。先生の写真は、毎年、多数が卒業アルバムに使われるので、生徒たちはカメラを向けられると誰もが喜んでポーズを決めていました。


 先生は校内で私を見かける度、呼び止めて写真を撮ってくれました。撮る際に「島崎くんは、いい顔してるね」「鼻が高くてカッコいい」「首が長いんだね。歌舞伎の女形役者みたいで素敵だよ」などと褒めてくれるので、中学生ながら悪い気はしなかったです。


 大垣佳奈江さんは「美術部の友達が教えてくれたけど、長谷部先生、瑛ちゃんの写真をこっそりと沢山撮ってるんだって。ちょっと気持ち悪いから、気をつけたほうがいいよ」と忠告してくれましたが、いつも褒めてくれる先生に悪い感情はなかったので、気にせずにいました。



 中学の卒業間際に長谷部先生は、私を美術教室に呼んで、ずっと構想を練っていた十代半ばの少年裸画を描きたいので、ぜひモデルをやって欲しいと頼んできました。


「幼馴染から先生が私の写真を集めているって聞いたんですけど、

 ひょっとして、その準備のためですか?」


「そうなの。最初は何人か候補がいて、島崎くんもその中の一人だったけど、

 何枚も写真を撮ってるうちに、だんだイメージが固まってきて

 これは島崎くんで決まりだなってなったの」


 真面目な性格の先生らしく、在学中に引き受けてもらうと依怙贔屓えこひいきだとか、成績に手心を加えたとか疑われるのが嫌だったので、卒業まで我慢していたそうです。


 裸画だとモデルも全裸になるのかを尋ねると「本当は、それが理想的だけど、海パン姿で大丈夫だから」との返事で「自分の身体は普通の男子と違うけど御存知ですか?」と確認すると「もちろん知っているし、その身体だからこそ、お願いしたいの」と言ってくれたことが、自分の存在を認めてもらえたようで、とっても嬉しかったです。

 もともと先生に対する印象は良かったし、モデルというのもアカデミックで面白そうだったので、やってみることにしました。


 先生は、しばらくアトリエに通ってもらうことになるので、誤解がないように御両親に説明したいと週末、菓子折りとイメージのラフスケッチを持って、自宅まで挨拶と説明に来てくれました。


 息子が女流画家のモデルになると聞いて、最初は意味がわからず困惑していた両親も、メガネをかけて化粧っ気がなく、地味な長谷部先生を見て安心したようで、アトリエ通いを承諾してくれました。

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