第8話 転勤

 付き合い始めた頃、イニシアチブを握っていたのは良枝さんで、彼女が「主」で私が「従」という立場でした。それが明らかに変わったのは熊本旅行以後です。

 電話でも甘えてきたり、すがるような言葉が増え、「キャミ姿にチョーカー巻いた島崎くんが忘れられないの。思い出す度、自分でしちゃうんだけど、その回数が増え過ぎでヤバい」という以前の彼女ならば、到底考えられないコメントを口にするようになりました。


 1993年の年末は、12月28日が仕事納めなので、翌29日の午後便で羽田に到着後、そのまま彼女のマンションに二泊して、31日の午後に外房の実家に帰る予定でした。

 良枝さんのマンションに着くと、いきなり玄関でキスされ、そのまま服を脱がされて、エナメル製のボンテージ風衣装を着せられました。その後は全く離してもらえず、外房の実家に顔を出せたのは年明け2日だったので、母親から、かなり怒られました。


 その年の二月に上司から「島崎、まだ、ここだけん話じゃっど」と前置きがあって、四月から勤務地は宮城県の仙台支店になると伝えられました。私も、そのつもりでアパートの家賃相場や支店の周辺をチェックし、良枝さんにも「次は仙台だって。牛タン、食べに来て」とか言ってたのですが、正式辞令が交付されたら、愛知県の名古屋支店で「え? 仙台支店って何だったの?」状態でした。


 名古屋は鹿児島市と違って新幹線に乗りさえすれば、都内から2時間弱で着くので、お盆や年末年始休暇だけなく、いつでも良枝さんと会えるようになりました。

 金曜の夜から東京に行って、彼女のマンションに泊まったり、その逆パターンも毎月のようにやっていました。私が出勤している間に彼女が名古屋に来て、市内観光や気になるお店を巡ってから、夕方に二人で落ち合って食事したり、伊勢志摩、奈良、高山などへの週末旅行にも出掛けました。


 このように充実していた名古屋時代でしたが、1995年に些細なことから良枝さんと大喧嘩をしてしまい、別れることになります。


 発端は勤務先の先輩である中西さんから誘われた合コンに、良枝さんと似ている女性が参加していたことでした。よく見ると顔の輪郭や目鼻立ちが違うのですが、思わず「知り合いに似た人がいます」と話し掛けてしまいました。


 幹事だった中西先輩が聞き逃さず、「その人は島崎の彼女か?」「ひょっとして、これがお前の口説きのテクニック?」とか面倒くさい絡みをしてきたので、学生時代のバイト先の上司でしたと誤魔化して、結局、本人とは、ほとんど話せずに終わりました。



 数日後の夜、良枝さんから電話があったとき、あまり深く考えずに「この前、良枝さんと似た女性がいたよ」と話題にしたのですが、これが大間違いでした。


「その人とは、どこで会ったの? 合コン? へぇー島崎くん、合コンに行ったんだ。

 うん、いいんだよ。別に行っても。仕方ないよね。先輩に誘われたんじゃね。

 そうだよね、島崎くんは男前だから合コンに誘われるよね。

 楽しいもんね、合コン。若い子と会えるもんね」


「私と似てたんだ。ふーん。その人は何歳なの? 

 へぇー28歳ね。じゃあ、島崎くんより二歳年上だね。

 背は高いの? 165センチはないんだ。じゃあ島崎くんより低いのか。

 やっぱり女性から見下ろされないって、気分いいのかな?

 身長とか年齢とか詳しいけど、結構、その子と話したの? そうでもない?

 ふーん、でも君と似た人がいるんだぜ、とか声を掛けたんだよね?」


 この辺から雰囲気がおかしくなり始めたので、幹事に茶化されて、ほとんど会話していないとか、良枝さんに似た人がいたという単なる世間話で、他意はないと説明しましたが、すでに手遅れでこじらせモードに入っていました。


「ねぇ、この話は何なの? 同じ顔なら若くて小さい人がいいってこと?

 あーそうですか。悪うございましたね。年増の大女で」


「話をちゃんと聞いてくれ? 聞いてますよ。ちゃんと。

 ねるな? 拗ねてなんかいませんよ。いつもどおりです。

 え? 悪いのは私ですか? そうですか。すいませんね。

 年増で大女で、しかも根性曲がりな奴で」


「背が高いのは直しようがないじゃない。

 年齢だってそうだよ。39歳は変えられないでしょう。

 わかっているくせに、どうして、そういうこと言うの?

 私たち、もう5年も付き合っているんだよ。

 28歳の子と比べられたら悲しいよ」


「私、島崎くんと、ずっと一緒にいられるようにランニングしたり、

 食事を気を付けたり一生懸命やっているんだよ。

 だから連絡がないと寂しいし、三日ぶりの電話で若い子の話とかされると、

 本当に不安になるんだよ。その娘とは連絡先の交換とかしたの?

 会う約束とかしてないよね? 島崎くんのこと信じていいんだよね?」


 それまで彼女とは、ちょっと雰囲気が悪くなると、どちらかが謝っていたので喧嘩に至ることはなかったのに、このときだけは私が謝っても許さずに拗ねるばかり。グチグチといつまでも責めてきます。

 発端は私なので我慢して聞いていましたが、ループし始めると、さすがに嫌になって、じゃあ勝手にしなよと一方的に電話を切りました。その後、何度も着信がありましたが、その日は無視して寝ました。


 今から思えば、彼女が負い目に感じていた年齢と身長を無雑作にネタにしていたので怒るのは無理ないのですが、当時は、若かったので、そこまで考えが至らず。

 私としては、この喧嘩の四日後に良枝さんが名古屋に来る予定だったので、対面で謝まれば大丈夫だろうと割と安易に考えていました。


 ところが悪いことは重なるもので、広島に出張予定だった同僚がバイク事故で入院したため、急遽私が代役で行くことになりました。

 良枝さんの訪問日には広島なので、予定を中止か延期してもらうように、すぐに連絡しましたが、彼女は喧嘩中なので、私が出張だと嘘をついて会わないつもりだと誤解して電話口で前にも増して怒ります。


「なんで? なんで会ってくれないの? 広島出張? 

 そんな言い訳、聞きたくない。どうして会ってくれないの?

 出張、出張って、さっきからなんなの? 通用しないんだってば」


「私ね、この前は本当にどうかしてた。悪かったって反省しているの。

 明後日、会っても島崎くんを責める気なんてないよ。

 直接会って謝るつもりなんだよ。だから会おうよ。お願いだから会ってよ」


 私の中での良枝さんのイメージは、いつも冷静で実務的ながらも情熱的な敷島チーフでした。そんな彼女が大好きだったので、このときの良枝さんには「こんな面倒くさい人だったの?」感がすごくありました。



 広島出張の初日、高速道路上で発生した玉突き事故の影響で、搬入する機械を載せたトレーラーの到着が大幅に遅れたため、午後三時に完了予定だった設置作業が終わったのは午後八時でした。

 とんだ貧乏くじを引いたと思いながら、疲れた身体を引きずってホテルにチェックインし、途中のコンビニで買ったパンとサンドイッチを侘しく食べているとき、携帯に良枝さんからの着信がありました。


「島崎くん、今どこにいるの? 今日は何時に帰ってくる?

 私、この前のお詫びに島崎くんが好きなチョコレートケーキを買ってきたし、

 晩御飯も作って待っているんだ。本当に謝りたいの。

 だから、忙しいかもしれないけど、なるべく早く帰ってきてくれたら嬉しい」


 彼女は私の出張が嘘だと思い、予定どおり名古屋のマンションに来て合鍵で入り、ずっと私の帰宅を待っていたのです。


 今なら、そこまでして会いたかったんだな、本当に出張だと理解してもらうまで説明すればよかった、可哀そうなことをしたなと考えられますが、当時まだ20代だった私には、そういう余裕はなく、自分の言ったことを信じてくれなかった彼女に対する怒りと失望感だけでした。


 仕事がうまく進まなかったイライラもあって、ここで書けないくらい酷いことを言ってしまった記憶があります。泣いて謝る彼女に追い打ちをかけるようなことも。


 名古屋に戻ってからも良枝さんからは、直接会って謝りたいという電話が何度もありました。しかしバイク事故で入院した同僚の穴埋めと、大きな新規取扱い案件が重なって出張が続いていたので、一段落したら、こっちから必ず連絡するから、待ってくれるよう何度も頼みました。

 それでも、彼女からの電話は一向に止みません。どうも、このまま会えなくなるのではという不安感から、少し心を病んでいたようです。


「島崎くんのことを疑ってごめんなさい。お願いだから会って欲しい」


「お願いです。少しの時間でもいいから会ってください」


「島崎くん、会ってくれるなら、私、なんでもするから。

 今から来いって言われてたら、すぐ新幹線に乗るよ。

 新幹線が終わっていたら、高速バスで行くから会って。お願い」


 広島出張のときと同じく、待てない彼女に嫌気がさして徐々に避けるようになりました。着信には出ず、メールの返信もせずにいたら、ある日の夜中、就寝中に携帯に着信がありました。


「私です。お願いです、捨てないで……ねぇ、何か話して」


 泣きながらそう告げる彼女にとっては必死の電話だったのでしょう。でも疲れて寝ていた私にしてみれば、「なんでこんな時間に? まるでまるで嫌がらせじゃないか」でした。


「何時だと思っているんだ。いい加減にしてくれ」と怒って切ったら、これを最後に彼女からの連絡は途絶えました。



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