田中美咲④
美容院を出ると、由紀さんは「それじゃあお幸せに」と言って私を見送ってくれた。
来た時に降っていた雨は止んでいるようだ。
空は相変わらず厚い雲で覆われていたが、すっきりした気持ちだった。首元を通り抜ける風が冷たくて気持ちいい。
しばらく歩いたところで、私はふと傘を忘れていることに気づいた。
うっかりしていた。すぐに来た道を戻ると、美容院の入口までたどりつく。
お客さんはいないようで、店内には由紀さんや他のスタッフの姿はなかった。
傘立てに置いてある自分の傘をとって店を後にしようとする。
その時、奥にあるバックヤードから声が聞こえてきた。
おそらく由紀さんと、店長をしている旦那さんが話す声だ。
「なんであのこと言わなかったんだよ」
「だってすごい幸せそうな顔してたんだもん。水を差すようなこと言えないわよ」
「彼が初めてこの店に来た時、美咲ちゃんが通っているかって聞いてきたんだろ? しかも美咲ちゃんの今日の話だと、出会う前のことじゃないか。ストーカーかもしれないぞ」
店内に少しの沈黙が流れる。
「変なこと言わないでよ。大事なのは出会い方よりも今幸せかどうかでしょ。彼女が幸せだったらそれでいいのよ」
私は音を立てないように注意しながら店を出た。そして、急いでもいないのに家まで小走りで帰った。
家に着くと、そのまま自分の部屋に駆け込む。部屋の中には、自分の呼吸音だけが響いている。
あれは、どういうことなのだろうか。
初めて美容院の話をした時、卓也は目を丸くして驚いていた。
「僕と同じところかも!」
あれが演技だったなんて思えない。
でも、由紀さんの旦那さんはたしかに言っていた。
半年前に初めて来店した時、卓也は私が通っているかどうかを確認していたと。
その頃、私たちは出会ってさえいないはずだ。なのにどうして私のことを知っていたのだろうか。
そのあとどんなに考えても、この状況を説明できる理由が見つからなかった。
卓也に問いただしたい気持ちと、今の関係を壊したくない気持ちが、心を両側から押し潰していく。
その時、鞄の中でスマートフォンが振動した。画面には卓也からのメッセージが表示されている。
「今週末、箱根に旅行でも行かない?」
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