混血と、剣戟の音と、翡翠のスタンザ
矢神ケン
序章
プロローグ
プロローグ 01 九年前
あの時のことは、今でも覚えている。
その日は朝から雨が降っていて、少し肌寒い一日だった。侍女のアンナが薄手のガウンを持ってきて優しく肩から掛けてくれ、暖炉に火を入れてくれた。その時、幾つか言葉を交わしたけれどもう覚えていない。ただ、肩にガウンを掛けてくれた時に感じたアンナの手の温もりだけが記憶にある。
こんな日は外に出掛けられないので、いつもは蔵書室に行って適当な本を漁るのだけれど、その日は何故か気が変わって一日中部屋の窓から静かに降りしきる雨を眺めていた。
今から思えば、あの日屋敷の中を歩き回って、出来る限り大勢の見知った人たちと言葉を交わせば良かったと思う。そうすれば悔いも残らなかっただろうし、その日の夜に起こったあの出来事の一端くらいは――あるいは違和感くらいは、感じ取れたかもしれない。
今となっては意味もないことだけれど。
夜になっても雨は止まず、確か、月が山の向こうから昇る頃合いにベッドに入ったのだった。眠るまで傍に居てくれたのは、その日はアンナではなく別の侍女だった。もう、あの朝以来アンナに会うことは永遠に出来ないということだ。
ウトウトしたころ、そっと侍女が部屋を出ていく気配があった。しばらくは自分が呼吸するたびに毛布がわずかに擦れる音と、窓の外から聞こえる雨音に包まれながら微睡んでいたが、ふいにそれらに違う音が混じっているのに気が付いた。
これは、なんの音だろう。と思ったことを覚えている。ああ、そうだ、これは父上に連れられて行った馬上槍試合で聞いた音だ。甲高い音、金属同士が擦れる少し不快な音。そう、甲冑の音だ。
甲冑? この屋敷の中で?
おかしな話だった。王都で最も荘厳な建物であり、厳重な監視のもとあらゆる脅威が排除されているはずの宮殿の最奥部で鳴るはずのない音だった。しかも、こんな夜更けに。
ピン、と空気が張り詰めた気がした。あるいは、あれは私の中の危機感を感じた心が警鐘を鳴らした感覚だったのかもしれない。
ベッドの中で自分の体が強張っていくのを感じ、急速に頭が冴えて目が見開いていく。衣擦れの音や雨音が一切耳に入らなくなり、暗闇に包まれた部屋の中で私は息を潜めるように、いずれ来る良くない事態を予感して縮こまった。
不意に。
バン! と部屋の扉を乱暴に開く音がした。私の体はその音に反応して大きくビクついた。
「ジュディ!」開いた扉の方から、切羽詰まった声色で呼び掛ける男性の声が大きく響いた。「居るのか!」
優しくも芯の通った声。ダン兄上だった。
私はその時どうしたのだったか。確か、飛び起きてダン兄上に飛びついたのだったか。いや、そうではなかった。その時私は毛布を少しだけ下げて、顔を出し兄上と目線を合わせたのだった。年頃というにはまた幼かったが、それでも寝間着姿を兄上に見られることに抵抗があったのかもしれない。
「はい、ここに居ます」
そう発した自分の声に驚いた。その声はか細く震え、自分が思っていた以上に私はこの不穏な空気を敏感に感じ取っていたのだと理解した。何か良くない事が起こっている、そう思わせる程度には起こっている状況は不可解だった。
まずそもそも、甲冑の音だ。まだ遠くに微かに聞こえる程度だが、これは明らかにおかしい。そして、私が最も敬愛し親しくしている親族の一人である兄上だが、その兄上であってもさすがに夜の帳が下りて久しいこんな時間帯に無遠慮に私の部屋に入ってきたりはしない。
異常事態だった。
だが、その時の幼い私の頭では、それ以上のことは分からなかった。いや、たとえ聡明な頭脳があったとしても、あの時どういう状況になっていたか理解しろと言われても無理だっただろう。
「居たか。良かった。早く、支度を」
兄上の言葉は一言一言短く、明瞭だった。普段はゆっくりと丁寧に話してくれる兄上だったが、それは起こっている事態をより重く痛感させられるような言葉遣いだった。
その兄上の言葉に呼応して、スッと後ろに控えていた数人の侍女たちが私に近付いてくる。事態は相変わらず飲み込めてはいなかったが、皆の緊迫した様子に気圧されて、結局、侍女たちのなすがままに私は外出の支度を整えたのだった。
「これは……どういうことなのでしょうか、兄上」
「話している時間はない。行くぞ。付いてくるんだ」
そう言うと兄上は踵を返して部屋を出る。私も侍女たちに連れられ、今朝アンナが肩に掛けてくれたガウンを纏ってそれに続いた。
部屋の外の廊下には、もう二人居た。母上と、一人の騎士だった。
「ああ、ジュディ!」
「母上!」
母上が大きく腕を広げて私を抱き寄せてくる。
ああ、私はやっぱりこの包み込まれる温もりが好きだ、とその時思った気がする。どんなにふかふかなベッドと言えど、母上の抱擁には敵わないのだと。これが、母上の今のところ最後の抱擁だったことを考えると、あの日あの場で母上が抱き締めてくれたのは何よりの幸運だったと思う。
「母上、急ぎましょう。もうじきここに来る」
そう、廊下の奥に目を光らせながら兄上が言った。
来る、何が。とは到底聞けなかった。
侍女の持っていた幾らかの私の荷物は騎士に預けられ、侍女たちは「ここでお別れです姫様、どうぞご達者で」と言って涙を流した。そうして兄上に急かされるように廊下の角を曲がってそそくさと立ち去って行った。
太っちょのエスターにお茶目なイーヴァ、真面目で不器用なリア。いつも私に優しく接してくれ、分からないことは丁寧に時間をかけて答えてくれた。なのに初めて、彼女たちは私に理解できないことを言った。
お別れ? どういうこと? 私はこれからどこかへ行かなくちゃならないの? 来る、何が? あの甲冑の音と関係があるの? ねえ誰か、答えて。
それからは確か、屋敷の地下に設けられた船着き場に行くまでは誰も言葉を発さず無言だった。兄上、母上、騎士に連れられて、当時の私には少し付いていくのが大変な程度の早足で屋敷の中を進んだ。
船着き場には、二人が乗れるほどの小舟が用意されていた。騎士が少し乱暴に私の荷物をそこに放り込み、続いて自身も乗り込む。
「さあ。乗りなさい」母上の声がした。「何も心配はいらないのよ。大丈夫」
私は生まれてこの方母上の言葉を疑ったことはなかったし、この時も疑いはしなかった。母上が心配いらないと言うのならそうなのだろう、と。
だが、しかし、私はすぐには小舟に乗ることはできなかった。母上の言葉を信じる前に、この状況に理解が追い付かなかったのだと思う。
「一体どういうこと? どうしてこの舟に乗らなくちゃいけないの? 私はどこかへ行くの? 母上と兄上はどうするの? なんなの、教えて!」
一度疑問を言葉にすると、止まらなくなった。そして、なぜだか涙が零れてきたのを覚えている。その時の兄上の何かを噛み締めるような表情と、母上の目に浮かんだ涙も、恐らく生涯忘れることはないだろう。
「何も、心配なんて要らないのよ……」
嗚咽と共に、母上はそう言うことしかできなかったのだと思う。兄上はそんな母上を見て、意を決したように私に向かってこう言ったのだった。
「ジュディ、これから言うことをよく聞くんだ。そして忘れてはいけないよ。
お前は、父王に命を狙われている。今晩、あのまま部屋で寝ていたならば、殺されていただろう。信じられないかもしれない。父王はお前をいたく可愛がっていたから。でも、事実なんだ。
お前がなぜ命を狙われたのか、それは、お前は母上の子ではないからだ。お前の本当の母親は、侍女のアンナ。≪
母上も、私もお前を心から愛している。血など関係ない。これだけは信じてくれ。この騎士は私の乳母子で、レイモンドという。実の兄たちよりも絆が強い。生涯に渡ってお前を守ってくれるだろう。アンナの命も必ず守ると誓おう。
どうか分かってくれ、ジュディ。お前はまだ十才で幼いけれど、聡明な子だ。今は全ては分からなくとも、いずれ今日の日のことを理解できる日が来る。いつか、また、私も母上もお前と再び会えることを心から願っている」
頭が真っ白になった。それから後のことは、ほとんど覚えていない。
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