10
僕が何かを言えば、映見さんは斜め上の答え方をして、結局僕は何一つ思うように映見さんに伝えられず、映見さんは自分の都合のいいように理解して、僕はそれに折れてしまう。完全にお手上げだ。
「どうして笑わないの?」
「それは、笑いたくないからだ」
「もしかしたら事故にあって、なんらかの作用で脳に障害があるとか?」
「事故になんて遭った事ないけど、そういう障害でもない」
映見さんは怪訝な表情で嘗め回すように僕を見た後、またニコリと微笑んだ。
「じゃあ、もし笑ってしまったらどうする? 何かが変わる?」
「どうするって、だから、笑わないし」
隣に座っていた映見さんはすくっと立ち上がり僕に彼女の影を落とした。僕が見上げたと同時に、映見さんはいきなり僕のわき腹にくすぐりを入れてきた。
「おい、何するんだよ。やめろよ」
「こちょこちょこちょこちょ!」
「や、やめろ」
正直やばかった。小さいときに未可子さんにも同じ事をやられて、くすぐったくて僕は苦しいほど笑い転げていた。僕はわき腹に弱い。
『透ちゃん、こちょこちょこちょ』
『やだ、やめてよ、あはははははは』
あの時の事が脳裏をよぎる。昔は素直な子供だった。
「もういい加減にしてくれ」
我慢できずに僕は立ち上がった。映見さんの手の動きが止まる。僕はゼーゼーと肩で息をしていた。
「筋金入りに笑わないんだね。久々に燃えるかも」
「あの、どうか僕の事を放っておいてもらえませんか」
丁寧にお願いしてみた。
「それはできないな。だって私、気になるとスイッチが入っちゃって止まらないの」
「じゃあ、どうすれば放っておいてもらえるんでしょう」
意気消沈に首をうな垂れ、哀れな感じを出してみた。こんなので通用するとは思わないが、少しばかり沈黙が続いた。映見さんは僕を暫く見つめて考えている。
あどけない瞳を僕に向けてはいるが、頭の中ではコンピューターを作動するように何かを企んでいる様子だ。一体何を言われるのだろう。僕も目が離せなくなって、彼女を見つめた。
三十秒くらいまでは成り行きで気にしなかったが、そこからまだどんどんと時間が過ぎても彼女は黙っていた。
一分も過ぎれば、僕の方が居心地が悪くなってくる。僕をロックオンしたその瞳はまだ僕を見続けている。見つめ合いがここまで続くと視線を逸らすのも今更できなくて、根競べになってきている。平然と僕を見つめる彼女に対して、僕は段々と落ち着きをなくして心なしか心拍数も上がっているようだ。
何なんだ、いつまでこの状態が続くんだ。
まるでタラリタラリとがま蛙のように脂汗が出てきそうになった。僕が手で額を拭おうとしたとき、彼女はついに口を開いた。
「答えは明日でもいい?」
「明日?」
「うん、一晩ゆっくり考えてみる。透にとっても私にとってもいい答えを見つけてくる」
「いや、その、できたら、僕は放っておいてほしいことを忘れないでね」
「放ってほしい、放ってほしい……だね。わかった」
本当にわかったんだろうか。果たして本当に放ってくれるのだろうか。
いや、ちょっと待てよ。明日答えを出すということは、また僕は映見さんに明日会うということじゃないか。そんな事をしなくったって簡単な方法があった。
「いや、その、もう別にいいから。ただ、会わなければいいだけだから」
今更はっとしてしまう。
僕が避ければいいだけの事を、僕はもっとややこしくしてしまっていた。ここでさっさと逃げればよかっただけだった。
お人よしな僕が自分の気弱さを呪っている時、映見さんはニコニコと僕に迫ってくる。
「それじゃ帰ろうか。透の家はどこ? 私はね……」
やっぱり僕の話を聞いてない。ひとりで自分のいいようにもっていく。それを跳ね除けられないから、まだ映見さんと一緒に過ごさないといけない。もし逃げようとしても途中の乗り換え駅まで同じ電車だった。途中までというのがまだ幸いだったかもしれない。とにかく今日のところは我慢だ。
僕は口を固く閉じながら、彼女と肩を並べて駅に向かう。駅の構内に入れば、ホームで電車を待っている人たちの中に、僕たちと同じように肩を並べているカップルがいた。だから僕たちが一緒に居ても見かけ上なんら違和感がなかった。
だけど強いていうなら、映見さんは同じ制服を着ている女子高生の中でもどこか目立っている。僕にははっきりした美的感覚はないし、顔で女の子を判断することもないのだが、すでに話をした後では映見さんに慣れたせいで親しみやすい顔に思えていた。
はきはきとした態度と、惜しみなく見せる笑顔は彼女をかわいく見せ、実際彼女は整った顔をしているからかなり美人だと思う。もう一度確かめようと、ホームの向こう側を見ている映見さんの横顔をちらりとみれば、妙な感覚が横切ってふと違和感を覚えた。さっきまでの積極さがその時消えていたように思えたからだ。
何かが違うと感じたけど、映見さんが僕の視線に気がついたときは、すでにその違和感も消えていた。
「一+一は?」
映見さんは脈絡なしににこやかに僕に問う。
「えっと、二」
条件反射で僕は答えると、映見さんは首を横に振る。
「もっと語尾を延ばして言ってみて。もう一度。一+一は?」
「二―?」
「だから、もっと口を横に開いてニィーーーーってな感じで」
彼女が白い歯を見せてニィーと言ったその時、気がついた。それは笑えという意味だった。しょうもうない手を使って僕を笑ったことにしようとしている。
「それ、あれだね、写真を撮る時の、『はい、チーズ』と同じ手だね。その手は食わないよ」
僕がそういったとき、彼女は閃いたように突然ポンと手を叩いた。
「あっ! そっか」
「えっ、な、なんだよ、急に」
「いい事思いついちゃった」
「何をだよ?」
僕が訊いたその時、ホームから電車の入る放送が流れ出した。その後、軽やかなチャイムも流れると、電車がホームに入ってくる。
映見さんは電車が近づいてくるのを見ながら何かを考えていた。電車に乗ればその後の話をするだろうと思っていたが、それ以上映見さんは思いついた事を僕には話さなかった。
つり革をもって隣に立つ僕を、時折り鋭い眼差しで抜け目なくチラチラ見ている。一体何を企んでいるのだろう。
そうしているうちに、僕の降りる駅に着く。映見さんは乗り換えなしにそのまま乗り続ける。ここでやっと僕は彼女から離れられる。
「それじゃ、また明日の朝、今日と同じように改札口で待ってるから。それから私のことは映見って呼び捨てで言ってみて」
降りる僕の後ろから映見さんは声を掛けてきた。
僕は何も言わずそのまま降りてさっさと乗り換えのホームに行けばいいものを、ドアの外で立ち止まりつい振り返ってしまった。
頭の中では『映見』と呟く。
映見さんは僕の呼び捨てした声が聞こえたようにそれに反応して僕に手を振っている。僕は無視できず、弱々しく手を振り返した。そうしてドアが閉まって、電車がゆっくり動き出す。映見さんが去っていくのを僕は目で追いかけ、結局電車を最後まで見送った。
電車が見えなくなると大きなため息がふーっと漏れた。鞄を肩にかけなおし、映見さんの事を思い出しながら僕は足を動かす。
かつて初対面でこんなに馴れ馴れしい女の子に会った事あるだろうか。えっと、なんかあったっけ?
死神と呼ばれてからいつも女の子には避けられていたし、そう呼ばれる以前であってもこんな話の通じない女の子とは出会ったことがなかった。あれ? やっぱり居たかな。自分の記憶の曖昧さに参ったなと困りながらも、どこかで心底嫌じゃなかったことに僕はハッとしてしまった。映見さんのペースに乗せられ、気が緩んでいたことに僕は危機感を覚える。
僕は女の子と肩を並べて歩いちゃダメなんだ。話をしたらダメなんだ。僕は死神だ。それなのに、成り行きとはいえ映見さんと途中まで一緒に帰ってしまった。そして僕はそれを知らぬうちに受け入れていた。
僕はぐっと足に力を込めて緊張感を出し、もう一度自分の立場を自分に叩き込む。これ以上映見さんに会わない事を肝に命じ、徹底的に避ける覚悟を決める。
明日は誰よりも早く学校にいけば、朝駅で会うこともない。簡単なことだ。この時まではそう思っていた。
「映見……」
ひとり事を呟くように僕は彼女の名前を知らずと呼び捨てにしていた。どこか胸が疼いては危機感に似た不穏な感情を抱いてしまった。
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