一週間ほど前の学校の帰り、駅の構内で神野と今と同じように笑う笑わないについてそんな話をした事があった。

『お前さ、絶対笑わないよな。少しは笑ってみろよ』

『ほっとけよ。人それぞれだろ。それに動物だって笑わないじゃないか』

 しつこく僕につきまとい、うるさく僕の事をいう神野との会話だった。

 まさかそれを聞いていたとか?

 その事を神野に言えば、あっさりと納得した。

「ああ、それはありえるかもな。あの時の会話を聞いて、それで笑っている犬の写真を見せたのか。ということはあてつけだな。『私の犬とあなとは違うんです。一緒にしないで下さい』なんてな」

「ええ、そんな事でこの写真を押し付けるもんなの?」

「だって、返して下さいって書いてるんだろ。やっぱり透のこと気に食わなかったから、そんな手段をとったんだな。なんかその女の子面白いな」

 ケラケラと笑う神野とは対照的に僕はげんなりとしてしまった。

「でも、これでよかったじゃないか。透が何も心配することないんだから、彼女と会ってさっさとその写真返せばいいじゃないか」

「それもそうだけど」

 なんだか納得いかない。

 もう一度写真を見てみた。犬の笑顔は僕を不思議な気分にしてくれる。この写真を撮ったのはあの女の子なんだろうか。犬の笑顔があまりにも人間的で目の前の人物が好きでたまらないって顔をしているように見えた。

 そう思った時、はっとした。

 和香ちゃんも、郁海ちゃんも、そして未可子さんも僕に素敵な笑顔を見せてくれた。

 僕もその時同じように笑っていたと思う。

 まだ無邪気に笑っていた自分。でも僕は死神だった。僕が笑ったせいでみんな死んでしまったように思えてくる。

 犬の笑顔を見ながら無性に腹が立ってきた。僕の封印を解かないでほしい。僕はもうあんな悲しみをしたくない。

 犬が笑って、僕が笑わない。当て付けだとしても余計なお世話だ。

 こんな回りくどい事をするなんて、一体どういうつもりなのだろう。僕はその犬の写真をすぐに返したくなった。


 放課後、神野にも一緒に来てほしいと頼んだが、用事があるといってさっさと帰っていった。今まであんなに僕につきまとったというのに、僕がようやく心開けばさっさと見放された。なんだか一抹の寂しさを感じてしまう。構ってほしくなかったくせに僕もどうかと思うけど。

 悶々とした気持ちを抱え、僕は早足に駅に向かった。もしかしたら時生映見が僕を待ってるかもしれない。返してと書いていたのだから、僕はまた会えそうな気持ちを確信していた。

 駅に着くまでどんな顔だったか思い出そうとしてると、髪の長い女の子を見る度に時生映見に見えてしまう。ずっと女の子なんて見てなかったから、ふいに目が合う度に僕は胸の鼓動がドキッと跳ね上がった。

 だから駅について、朝見たのと同じ顔がそこにあったとき、僕の心臓は益々ドキドキしだした。彼女がまさに僕を待っているように駅の前で立ってたからだ。

 お嬢様学校と呼ばれるところの制服はデザインが洗練されていた。白い襟がアクセントのグレーのワンピース。腰にベルトをしてキュッとしまっている。制服というよりも余所行きのフォーマルな服装に見えた。白いソックスにつややかな黒いローファーもいい感じに決まっている。きっちりとした身なりが清楚でさすがお嬢様と呼ばれるに相応しい姿だった。

 今までまじまじと見た事がなかった僕は、急にその制服に圧倒されてモジモジしてしまう。さっきまでは手紙を叩き返そうと思っていたのに、華やかにすらっと佇んでいるその姿を目の前にしてすでに怖じ気ついていた。

 彼女も僕がやってきたことに気がつき、気まずそうに僕を見たり俯いたりとそわそわしだす。

 僕は間違った事をしているようで急に帰りたくなってしまった。でも今更遅かった。彼女も僕に近づいてきた。

「写真、見てくれた?」

 時生映見の方から声を掛けてきた。

 僕は肩にかけていた鞄からその手紙を取り出し、何も言わずに差し出した。

 それを受け取り、彼女はにっこりと微笑んだ。

「かわいかったでしょ。犬も笑うんだよ」

「これ、なんの真似だ?」

「気に入らなかった?」

「だから、なんでこんな事をしたのかって訊いてるんだ」

 強く言ったつもりはなかったけど、笑わない僕の無愛想な顔が怒ってると思ったのか、彼女は混乱し今にも泣き出しそうになっている。

 それを見た僕もそういうつもりじゃないとおどおどしてしまう。周りにいた他の学生たちも僕たちの異様な雰囲気を感知し、すれ違いざまにじろじろと見て気にしていた。

 僕は一体何をしているんだろう。女の子を虐めているのだろうか。動揺しすぎてまるで異次元の中に飛び込んだみたいで急にクラクラしてくる。僕は軽くパニックに陥ってしまった。

「大丈夫?」

 反対に僕が声を掛けられた。

 そして袖を引っ張られ、気がついたらその辺にあったベンチに座らされていた。

 暫くぼうっと座っていると彼女が話し出した。

「あの犬ね、柴太君っていうの」

「シバタ君?」

「柴犬の柴太君。『犬』の漢字の点の位置を下に置き変えると『太』ってなってそう読めるでしょ」

 全く脈絡がない。僕はゆっくりと彼女に顔を向け、眉間に皺を寄せたまま黙り込む。映見は僕をじっと見ていた。

「えっと、私って変かな?」

「うん」

 僕は素直に返事した。

「そっか。でもそれでいいんだ」

 分かっていたといいたそうに彼女は笑ってからまた話し出す。

「だってさ、動物は笑わないって決め付けてたからさ、柴太君の笑顔を見てもらいたかったの」

「それ、僕と友達との会話のことだよね。聞いてたの?」

「うん」

 思った通りあの会話が発端になってた。確かにあの時は周りにたくさんの人がいたと思うが、まさか聞かれているとは思わなかった。でもなぜそんな奇妙な事をしたのだろう。僕は怪訝にもっと眉間の皺を増やした。

「あの会話が気になってから、気がついたらあなたをずっと駅で探してたの。そしたらいつも下向いて背中丸めて不機嫌に歩いている姿ばかり見たの」

 確かにいつもそうしてたけど、見られていたなんて知らなかった。

「私ね、気になるともうだめなの。この人はどういう人なんだろうって思うと好奇心が疼いちゃって、それでつい柴太君の写真見せたらなんか変わるかなって思いました」

 なんで最後で敬語? しかも棒読みのわざとらしさ。

「迷惑だった?」

「うん……」

「ああ、やっぱり」

 彼女は反省するどころか開き直って笑っていた。

 これはもしや。なんだか相手してはいけないようなそんなヤバイ人に見えてしまう。

「そうなの。私ね、よくエキセントリックって言われるんだ」

 口に出してないのに伝わっている。恐るべし洞察力。そして「気にしないでね」と付け足した。

「気にするもしないも、気にしてるのはそっちでしょ」

「そうだね。ところで、名前なんていうの?」

 彼女に名前を訊かれあまり答えたくなくて、絞った声があやふやに出た。

「西守……」

「えっ、死神?」

 彼女から言われた言葉に僕はドキッとして「えっ!?」と叫ぶと、彼女も「えっ!?」とまた返してきた。

「いや、その、西に守るって漢字で『にしがみ』って読むんだ。西守透」

「そっか、じゃあ面白いから、『死神君』って呼ぶね、死神透君」

「えっ、ちょっとそれは……透だけでいいから」

「そう、じゃあ、透」

 おい、いきなり呼び捨てになってるじゃないか。

「あの、僕、映見さんと仲良くするつもりないから」

「仲良くってやっぱり、手を繋いだり、抱き合ったりとか?」

「えっ?」

「そんな、私だって最初からそんな事思ってないから、安心して」

「はぁ?」

「私ね、あまり友達いないのね。だからこうやってお話してくれるだけですごく嬉しいの」

「いや、そうじゃなくて、僕は話すことも嫌で……」

 その時、僕たちの目の前に数人の女子高生が固まって現れた。みんな映見さんと同じ制服を着ている。

「ちょっとトキオ。こんなところで何してるの。今日、掃除当番さぼったでしょ」

 そのうちのひとりが叫んだ。

 トキオと聞いて男の子みたいな名前だと思ったが、映見さんの苗字が時生だったと思い出した。

「ごめん。見逃して」

 映見さんは僕をチラッと横目で見てから、女子高生たちに察してほしいと思わせぶりな態度をとっていた。しかも適当なジェスチャーまでしている。

「ああ、そういうことか。だったら仕方ないね」

 どういうことだよ、何が仕方ないだよ。心の中で僕は突っ込んでしまう。

 掃除をサボって責めていたはずなのに、いつの間にか大団円になっている。

「ありがとう。やっぱり持つべきものは友達ね」

 いるんじゃないか、友達。

 数人の映見さんの友達は小声で「頑張って」とエールを送りながら明るく去っていった。

 映見さんも手を振り返していた。

「あの、さっきからなんか話がちぐはぐしているような気がするんですけど」

 僕が言うと、映見さんは屈託のない笑顔を向けた。

「気のせいです。これでいいんです」

 一体何がこれでいいのだろうか。

「とにかく、これからは僕に話しかけないでほしい」

「はい」

 映見さんはあっさりと返事してにこっと微笑む。意表を突かれて僕の方が調子狂う。そうしているうちに映見さんは変な事をし出した。

「ん、ん、ん、ん」

 口を閉じたまま唸りながら、手を動かし何かを僕に伝えようとしている。ジェスチャーだ。

「んんんん、んん、んんん」

 あちこちに手が動き、全く意味がわからない。さっきの女の子たちには通じていたけど、これで一体何がわかるんだ。

「もう、分かったから口で話していいよ」

「いいんですか。話しかけても」

「いいよ、もう」

 ヤケクソになっていた。

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