シアーデルンの城壁じょうへきは、我が子をいだく母親の腕のように都市部をぐるりと囲みこみ、東西にある二門以外からの出入りを一切ゆるさない堅牢けんろうさをほこっている。

 城壁の全長は五キロとも六キロともいわれており、近年、正確な測量そくりょうが行われていないせいで真偽しんぎのほどは不明のままであるが、仮に最小の五キロだとしても、都市を守る城壁としてはローデラン随一ずいいちの長さを誇ることだけは確かだった。

 その名誉めいよは、一代いちだいきずかれたわけではなく、何世代にもわたって改修かいしゅう拡張かくちょうがくりかえされた結果だった。

 それはすなわち、この地が多くの為政者いせいしゃにとって重要だったことを意味し、また、外敵がいてきにとって魅力的な土地だったことを意味する。

 ローデランの北部と西部、そして南部へと通じる交易路がここで交差する。交易路はそのまま軍隊を運ぶ経路けいろともなる。ゆえに、シアーデルンが軍事上でも重要な要衝ようしょうとなることは宿命だった。

 当初は一大交易都市として名をあげたシアーデルンも、そこをうばい奪われをくりかえした歴史のなかで囲いの壁をより高く、よりあつくしていき、ついには城塞じょうさい都市へと変貌へんぼうをとげたのである。

 つるぎの時代の第六紀二九七年、五月四日、朝──。

 城塞都市シアーデルンから、いくすじもの黒煙こくえんがあがっていた。

 城内に撃ちこまれた無数の火矢によって木造家屋が炎上し、あるいは死体が焼かれているのである。

 ただし、城壁そのものはたいした損傷そんしょうを受けておらず、不埒ふらちな外敵を寄せつけまいとするかのように威風堂々いふうどうどうとそびえ立っていた。

 シアーデルンの長い歴史において、何度もくりかえされてきた光景である。

「やれやれ・・・・・・わかっていたことだが、シアーデルンの壁はあいかわらず高くて厚いな」

 英雄エリンデールに重用ちょうようされていた〈九枚の大楯ナインシールズ〉のひとり、セラン・アルミナルは、甲冑かっちゅうを脱ぎすてた軽装けいそうで丘の斜面に腰をおろし、遠くで黒煙をあげている城塞都市を他人事ひとごとのようにながめながらそうぼやいた。

 栗色くりいろ頭髪とうはつを風にゆらしつつ、晴れた空色そらいろの瞳で戦場を見つめる眼差まなざしは、まるで見世物みせもの小屋で演劇でも観賞かんしょうしているかのように穏やかで、勝敗の行方をさとったかのようにすずやかでもあった。

 だが、傍観者ぼうかんしゃなどではない。それどころか、歴史の表舞台に主演として立っているという強い自負じふが彼にはあった。

 フィオラ・グランゼスにぐ若さで〈ナインシールズ〉にじょされたアルミナルは、一〇代のころから一介いっかい義勇兵ぎゆうへいとしてエリンデール軍に加わり、戦場で数々の武勲ぶくんを重ねたのち、エリンデールの目にとまって親衛隊しんえいたい抜擢ばってきされた。

〈ナインシールズ〉のひとりとなってからは将軍としての才能も開花かいかさせ、下賜かしされた領地の運営もそつなくこなし、エリンデールが存命ぞんめい中は忠義心ちゅうぎしんにあつい重臣じゅうしんとして内外から一目いちもくおかれる存在だった。

 そんな彼が、エリンデール戦死のほうれるやいなや、ためらわず王を自称じしょうして独立、かつての同僚たちに宣戦布告して野心をむきだしにした事実は、彼を知る多くの者の耳目じもくを疑わせたことだろう。

陛下へいかへの忠義立てはあの世にいってからつづけるとして、現世げんせに生き残っている俺としては自分自身を救わなきゃいけないんでね」

 独立を宣言した〈ナインシールズ〉のなかで、アルミナルほど自分に正直な理由をかかげた者はいなかった。

 主君しゅくんかたきをとるだとか、英雄のこころざしぐだとか、統一と平和のためだとか、仰々ぎょうぎょうしい理屈はこねない。

 ただ生きる。

 そのためにアルミナルは自立したのである。

「そして生きる以上、裕福ゆうふく豪奢ごうしゃなほうが楽しいに決まってる。そのための努力はしまないさ」

 部下にそう公言こうげんしたように、アルミナルはフィオラがシアーデルンを留守にしていることを知ると、ためらうことなくみずから二万の大軍をもよおしてシアーデルン攻略に着手した。

 シアーデルンという軍事・経済の一大拠点を手に入れられれば、アルミナルの地歩ちほはさらに盤石ばんじゃくのものとなるだろう。それこそ、人生が裕福で豪奢になるほどに。

 だが残念ながら、その戦況せんきょうは今のところアルミナルにとってかんばしくなかった。

「シアーデルンの壁は、まるでもちが固いご婦人のドレスのようだな」

「それ、気のいた冗談のつもり?」

 背後から流れた女の声は、みずからはじめた戦いを下品な冗談で揶揄やゆするアルミナルをなじっているようにきこえた。

 声の正体を知っているアルミナルは、いちいちふりかえらずに平然へいぜんと言ってのけた。

「ああ。我ながらいいたとえだと自負している。一枚一枚はがしていく楽しみが共通している点なんか、特にな」

「くだらないこと言ってないで、さっさと戦況せんきょう好転こうてんさせてちょうだい」

「では、なにか妙案みょうあんを、軍師どの?」

 ここでようやくふりかえったアルミナルの視界には、浅黒あさぐろはだをした若い女性が立っていて、ニコリともせず真顔まがおのままこちらを見おろしていた。

 彼女の髪は肌以上に黒いが、みがきあげられた黒檀こくたんのようにつややかで、さげすむように見おろしてくる黒い瞳も星空のように美しくきらめいている。

 彼女の名をラーシアといった。年齢は、アルミナルの見立てでは二〇歳前後といったところ。浅黒い肌と漆黒しっこく頭髪とうはつから、彼女がはるか南方にあるアディーム砂漠の出身であることは疑いないが、話す言葉は流暢りゅうちょうなローデラン語だった。

(あのみすぼらしい茶褐色ちゃかっしょくのローブと鉄の手甲ガントレットを脱ぎすてて、きらびやかなおどり子の衣装でも着てくれれば、さぞ、あでやかだろうに・・・・・・)

 ラーシアを見つめていると、ついそのような邪念じゃねんにとらわれるアルミナルだったが、一見しただけでは無害に思えるこの美しい女性が、実は恐ろしい智謀ちぼうのもちぬしであることを忘れたことは一度もない。

 ラーシアがアルミナルの幕僚ばくりょうに加わってから半年がっている。だが、彼女のほうにうちとけようとする意思はまったく見られず、それどころか反抗的ですらあった。

 今も、アルミナルから「妙案を」とうながされても、ラーシアに策をけんじる素振そぶりはまったく見られない。

「わたしのさくっておいて、なによ、今さら!」

 腕を組んでプイとそっぽを向くラーシアが、アルミナルの目にはこの上なくいとおしくうつる。

(これで、もう少し素直であってくれたらなあ・・・・・・)

 そう思う一方で、ツンとまして強がっている姿もまた魅力的で、ようするに、アルミナルは「ラーシアだったらなんでもいい」のである。

 それでも、愛おしい軍師の誤解はといておく必要があった。

「きみの策を無下むげに蹴ったわけじゃない。いくつか修正を加えただけさ」

「その結果が、これ?」

 ラーシアが、たまりかねたように声をりあげ、遅々ちちとして進展していない戦場を指さした。

 そこでは、アルミナル軍の弓箭隊きゅうせんたいがシアーデルンに向かって間断かんだんなく火矢をこんでいた。時おりシアーデルンから撃ちかえされてくる矢の雨を、歩兵たちが獣皮じゅうひや板で防ぎ、弓兵たちをかばっている。が、アルミナル軍のその他の兵種へいしゅ、たとえば攻城戦こうじょうせんでは活躍の場にとぼしい騎兵部隊などは、前線から遠く離れた丘の上に配置され、皆一様みないちよう所在しょざいなげであった。

「あなたが言う修正とやらのせいで、我が軍は攻城兵器をき、シアーデルンへの攻撃はちっともはかどってないわ! そもそも、攻城戦に不向きな騎兵をなぜ大量に編入へんにゅうしたの? なにか秘策でもあるのかと黙って見守ってたけど、どうやら、そんなものはわたしの思いすごしだったようね! 火矢を放っていれば、あの堅牢な壁が勝手にくずれてくれるとでも思った?」

「ははは、だといいなあ」

茶化ちゃかさないで!」

 怒鳴どなったあと、ラーシアは深いため息をきだして口調をやわらげた。

「あのまちを攻略する気が本当にあるの?」

「ない」

「え?」

 思ってもいなかった言葉が即答で返ってきたからだろうか、ラーシアは目を丸め、ぽかんと口をあけていた。

「今はな」

 あっけにとられているラーシアの表情を存分ぞんぶんに目で楽しんだあと、アルミナルは立ちあがり、長らく座っていたことで固まった全身の筋肉をほぐすためびをした。

手薄てうすとは言え、シアーデルンは堅牢な城塞だ。落とすのはたやすくない。フィオラの軍がせまっているとなれば、なおのことな」

「彼女は来ないわ。今ごろ、わたしの同志どうしがニアヘイムでくぎづけにしているもの」

「きみはフィオラという女をあなどっている。彼女はシアーデルンをあっさりと他人にあけわたすほど無能じゃない。シアーデルンの危機を知れば、ニアヘイムなど見すてていもどってくるさ」

「あなたこそ、わたしたちを侮っているわ。南方の同志には、わたしの師も同道どうどうしているのよ? わたしの師が、必ずやフィオラ・グランゼスを滅ぼすわ」

「あれほどの美女を滅ぼしてしまうのは、ちとしいなあ」

 アルミナルがとぼけると、ラーシアは眉間みけんを寄せてにらんできた。

「わたしは真面目に言ってるの!」

「はは、そうこわい顔しないでくれ。ま、怒った顔も魅力的ではあるが・・・・・・ああ、いや、わかった。ちゃんと説明する。だから剣のつかに手をかけるのはやめてくれ」

 冗談が過ぎたようである。本当にりかかってきそうなほどの怒気どきを立ちのぼらせる女軍師に、アルミナルはあわてて降参こうさんして自分の考えを言葉で披露ひろうした。

「正直に言って、今の俺の戦力ではシアーデルンを落とすのは困難だ。上手くいって落とせたとしても、我が軍は甚大じんだい損害そんがいをこうむり、瀕死ひんし同然さ。そこを別の誰かに襲われてみろ。せっかく手に入れたシアーデルンを三日と維持できず、自領じりょうへ逃げ帰るのがオチさ」

「なら、なんのために出兵したのよ」

「きみの頼みだったからさ。『フィオラの留守をねらってシアーデルンを攻めてください。そうしたら、わたしはあなたのものになりますから』ってね」

「言ってないッ・・・・・・後半の部分は」

「まあ、なんにせよ、きみへの義理はこれで果たしたわけだ」

「なら、もう一度、お願いするわ。シアーデルンを攻めるだけではなく、落としてちょうだい。今すぐに!」

「じゃあ、落とせたら、なにをしてくれる?」

「別に、なにも」

「・・・・・・」

「わかったわ・・・・・・あなたを尊敬してあげる」

「ふん、話にならんな」

 愛ならまだしも、敬意などというものに毛ほども価値を見いだせないアルミナルは、ラーシアの横をとおりすぎて本陣がある丘の上へ歩きだした。

「ちょ、ちょっとッ・・・・・・話はまだおわってないでしょ!」

 背中にかかるラーシアの声を無視してアルミナルが本陣に向かっていると、こちらへけ寄ってくる騎士の姿があった。アルミナルが信頼している副官である。

「どうした、カイゼル」

後続こうぞくの補給部隊が敵の急襲きゅうしゅうを受けた模様もようです。敵の軍旗ぐんきにはアザミをくわえたカワセミがえがかれていたとのこと」

「フィオラの部隊だな」

 アルミナルにおどろきはない。ラーシアとことなり、〈紅炎こうえんの聖女〉と呼ばれている女将軍が早々そうそう帰還きかんしてくることは想定ずみだったからだ。

「どうやら、きみの師と同志はフィオラの足止めに失敗したようだ」

 アルミナルは肩ごしにふりかえってラーシアに嫌味いやみをあびせ、彼女の顔がおどろきで青ざめていくのを微笑ほほえましく見つめたあと、副官に向きなおってただした。

「で、敵の規模は?」

「二〇〇〇ないし三〇〇〇とのこと」

「少ないな。別働隊べつどうたいか」

「補給部隊は救援きゅうえんうています。いかがなさいますか?」

「ふむ・・・・・・仲間を見すてることはできん。その仲間が大事な食料をかかえているとなれば、なおのことな。さっそく救援に向かうとしよう。全軍で」

「ま、待って!」

 副官とのやり取りに、女軍師があわてた様子で割って入ってきた。

「全軍でって、シアーデルンはどうするの? まさか、あきらめる気?」

「うん。あきらめる」

 アルミナルがあっさりうなずくと、ラーシアはふたたび眉間みけんにシワをきざんだ。

「ずいぶんとあきらめがいいのね。女を口説くどく時はしつこいくせに」

 ラーシアの皮肉めいた非難ひなんに対して、アルミナルは冗談めかして応じた。

「女の性格にあわせて口説き方をかえてるだけさ。フィオラは気が短いからな。しつこくするとあとがこわい。このへんが潮時しおどきさ」

 アルミナルの不真面目ふまじめな回答で、ラーシアはあきらかに気分をがいしたようである。その声にわずかながら苛立いらだちをのぞかせた。

「本気で撤退てったいする気?」

「そう言ったろ?」

「約束がちがうわ! せめて、もう少しねばってもらわないと──」

「おいおい。俺をめるのはお門違かどちがいだぜ。そもそも、フィオラがこんなに早く帰ってくるとは想定していなかったろ? きみの話じゃ、彼女は南でくぎづけってことになっていなかったか?」

「どうやら、南で不測ふそくの事態があったようね・・・・・・」

「不測の事態ねえ」

 アルミナルはニヤリとほくそ笑んでラーシアを見やった。彼女が自分たちのを認めるのはめずらしいことだったからだ。

「まあ、その不測の事態とやらを責めはしないさ。戦いにはってものがあるからな。だから、きみも俺を責めるな」

 アルミナルが副官のカイゼルをかえりみて全軍の撤退命令をくだし、これ以上、議論する気がないことを示すと、ラーシアはつぶやくようにどくづいた。

不甲斐ふがいないアドラフめッ・・・・・・」

 南で不手際ふてぎわをしでかした同志を責めているものと思われたが、アルミナルはきこえなかったふうをよそおって別のことを口にした。

「ところで、帰ったら俺と一緒にあみでもしないか? そのうるわしい肌が戦塵せんじんにまみれて、さぞ不快ふかいだろ?」

「お気づかいなく。戦塵にまみれるほど長くは戦ってませんから」

 あっさり撤退を決断した弱腰よわごしをあてこすっての回答だったが、アルミナルはこれにも気づかないフリをして話をつづける。

「そう遠慮するな。きみのためにレビンティア産の香油こうゆを取り寄せてあるんだ。肌が若く美しくたもたれると評判の香油さ。俺の手で、きみの全身にやさしくりこんであげよう」

「なら、おかえしに、わたしも閣下かっかの体に塗りこんでさしあげるわ」

「おい、ほんとか? 本気にしていいんだな?」

「ええ、もちろん。閣下の体に塗ってあげる。閣下ご自身の血を、たっぷりと」

「・・・・・・・・・」

 本気とも冗談ともつかぬ返答にアルミナルが背筋をゾッとこおらせていると、ラーシアは「殿しんがりの指揮をとってくるわ」と告げて歩み去った。

 遠ざかる彼女の後姿うしろすがたを見送りつつ、アルミナルは精悍せいかんほお苦笑くしょうぎみにゆがませた。

「どうして俺がれる女はみな気が短いのかね・・・・・・」

 いで、黒煙こくえんをあげているシアーデルンを遠望えんぼうしつつ、心のなかに赤髪の女将軍を思いえがく。

「ま、とりあえず無事でなによりだ、フィオラ。心配はしてなかったがな」

 おなじ主君しゅくんをあおぎ、ともに戦場に立ったこともあるかつての同僚を、アルミナルは心から崇敬すうけいしていた。それは、フィオラが美女だからというだけではなく、戦士としても将軍としても一流だからだった。

 だが、むろん、崇敬しているからといって、それがそのまま服従ふくじゅう降伏こうふくへとつながるわけではない。

「おまえが誰かに負ける姿はどうも想像がつかん・・・・・・俺以外の手によっては、な」

 誰にともなくつぶやいて、さりげなく自負じふのぞかせるアルミナルであった。



 少し時間をさかのぼった五月四日の早朝──。

 レイタス率いるグランゼス軍の分隊ぶんたいは、シアーデルンから南東へ半日ほどの距離にある田園でんえん地帯で、アルミナル軍の補給部隊を捕捉ほそくした。

 偵察ていさつ騎兵の報告から割りだしたとおりの地点で目標をとらえたレイタスは、すべて騎兵で編制へんせいされた三〇〇〇の部隊に号令ごうれいし、アルミナル軍の補給部隊を襲撃しゅうげきした。

 この急襲きゅうしゅうは完全に敵の意表をついたようで、無防備だった側面そくめんを襲われたアルミナル軍の補給部隊はたちまち混乱し、迎撃げいげき態勢たいせいを整えるのにいくばくかの時間をようした。

 その猶予ゆうよを長引かせる気はレイタスにない。

 レイタスは側面からの突撃で敵をふたつに分断すると、一方が混乱の鎮静化ちんせいかと迎撃態勢の準備に手間取てまどっている間に、もう一方を集中攻撃で壊滅かいめつするよう指令しれいした。

 この、グランゼス軍の一方的な殺戮さつりくで勝敗が決するかと思われた戦いの趨勢すうせいは、だが昼すぎ、シアーデルン方面を監視かんししていた弟子の絶叫ぜっきょう一変いっぺんする。

「レイタスッ、敵の増援ぞうえんかも!」

 馬上から遠見とおみつつのぞきこんで遠方をながめていたセルネアが、レイタスをふりかえってそうさけんだ。

「かもってなんだ、かもって! 正確に報告しろ!」

 同じく馬上で剣をふるっていたレイタスは、弟子のいい加減な報告をたしなめつつ、左からりかかってきた敵兵の斬撃ざんげき手甲ガントレットで受け止め、すかさずりをくりだして相手を馬の背から突き落とした。落馬した敵兵は、自分の乗馬のあしによって蹂躙じゅうりんされるという不運にみまわれて絶命ぜつめいした。

「かわれ!」

 レイタスは、右手の剣はそのままに、左手で遠見の筒を取りだし、左目にあてた筒の先を北西に向けた。

 わりにセルネアが遠見の筒をしまって剣を抜き、無防備なレイタスを守るために乗馬を寄せてくる。

 はるか遠方の景色が拡大して見える遠見の筒のなかでは、セルネアの言うとおり、敵の増援と思われる大集団がこちらに近づいていた。そして、彼らがかかげている軍旗ぐんきのあたりにしてレイタスは確信した。

「たしかにアルミナル軍の増援のようだ。それにしても、かつての主君しゅくんと同じ赤竜せきりゅうの紋章を掲げるとは・・・・・・自分こそがエリンデールの正当な後継者こうけいしゃだという演出えんしゅつか」

「うちの閣下かっかが知ったら激怒げきどしそうだね」

 敵兵があげる絶叫のあとにきこえてきたセルネアの声に、レイタスは遠見の筒を覗きこみながらうなずいた。

「まったくだ。彼女に報告するのがためらわれるな・・・・・・」

 飛翔ひしょうする赤竜の意匠いしょうは、今はき英雄エリンデールの紋章として名高なだかい。

 伝説上の生物である竜はローデランにおいて権力の象徴しょうちょうであり、天空を支配する神の化身けしんともいわれていることから畏敬いけい信仰しんこうの対象でもあった。

 そんな神聖な竜を紋章として掲げられるだけの実力と名声をゆうした人物は、後にも先にもエリンデールただひとりであろう。

 にもかかわらず、いまだ一地方の軍閥ぐんばつちょうにすぎないアルミナルが、かつての主君よろしく赤竜を軍旗にいつけ、それを臆面おくめんもなく堂々と掲げているのだった。

 英雄エリンデールを敬愛けいあいし、心から忠誠をささげていたフィオラがこれを知れば、神聖な偶像ぐうぞう侮辱ぶじょくされたと受けとることだろう。その怒りが冷静な判断力をくるわせ、大局たいきょく見誤みあやまらせかねない。

(あるいは、それがねらいか・・・・・・)

 自分の正当性をこれ見よがしに喧伝けんでんし、同時にライバルたちの心をさかなでる。紋章ひとつで、アルミナルはそれをやってのけようとしているのだ。

「食えない人物のようだな、セラン・アルミナルという人物は」

 そのことは、筒のなかで見えている増援の規模からもうかがい知ることができた。

「増援の数が、およそ二万とは・・・・・・さすがにこれは予想していなかった」

 目測もくそく算出さんしゅつした新手あらての規模をレイタスが口にだした途端とたん、セルネアの頓狂とんきょうな声がかえってきた。

「二万? ちょっと! それって、偵察騎兵からの報告にあった敵の全軍に相当する数だよ!」

「ああ。どうやら全軍を率いて救援にけつけたらしい」

「シアーデルンをほったらかして?」

「そうなるな」

「バカなの? アルミナルって人」

 セルネアの感想は率直で、常識的だった。

 五〇〇〇程度の分隊を編制して救援に差し向ければじゅうぶんなところを、アルミナルという人物は、シアーデルンの攻囲こういを中断して全軍で救援にかけつけてきたのである。頭の中身を疑われても仕方がない愚挙ぐきょであろう。戦略目標を放棄ほうきして部下を救いにきた、と言えばきこえはいいが、そんなお人好ひとよしでは一軍いちぐんの将はつとまらない。

(なにか秘策ひさくがあるのか、あるいはシアーデルン攻略を断念したか、それとも、本当にお人好しのバカか・・・・・・)

 レイタスはあらゆる可能性を考慮してみたが、アルミナルという人物に関する情報が不足しすぎていて、今は納得のいく解答を得られそうになかった。

 レイタスに言えるたしかなことはひとつだけである。

「シアーデルンの包囲が解けたのなら、こちらの目的はたっしたも同然だ」

「でも、補給部隊を助けたあと、敵がまたシアーデルンに引きかえすかもしれないよ?」

「そのころにはフィオラがシアーデルンに入城しているさ」

「そっか・・・・・・なら、ここに長居ながいは無用だね」

「そういうことだ。急いで退くぞ、セルネア」

 レイタスにうながされたセルネアが、腰にるしていた小ぶりの角笛つのぶえを手に取り、深く息を吸いこんで両ほおをいっぱいにふくらませると角笛を口にくわえた。

 水牛のうなり声のような低音が、独特な音調で三回、戦場一帯に朗々ろうろうとひびきわたる。それは、レイタス率いるグランゼス軍分隊の撤退合図であった。

 角笛のに従って、グランゼス軍が整然と撤退を開始する。

 敵の追撃ついげきはなかった。アルミナル軍の補給部隊は、追撃よりも援軍との合流を選んだようで、レイタス率いるグランゼス軍の分隊はなんなく安全けんへとだっすることができた。

 レイタスは、フィオラの本隊と合流するまでの指揮を騎士のひとりにゆだねたあと、弟子の姿をさがした。

 隊列の真ん中あたりでセルネアを見つけた時、彼女は落とされないよう馬の背にしがみついているのがやっと、というていたらくだった。どうやら、角笛を何度も吹いたせいで軽い酸欠さんけつをおこしたようだ。

「うまくけたじゃないか。練習したかいがあったな」

 すっかり弱りきった様子の弟子をレイタスが苦笑くしょうしながらからかうと、セルネアはめずしくをあげた。

「角笛を吹くのがこんなに大変だったなんて・・・・・・うう~、まだ頭がガンガンする~・・・・・・もう二度とやんないよ・・・・・・」

 こうして、グランゼス軍の分隊とアルミナル軍の補給部隊との小競こぜり合いは、アルミナル軍の全軍が来援らいえんし、数的劣勢すうてきれっせいに立たされたグランゼス軍分隊がすみやかに退いたことで終結した。

 結果として、シアーデルンはアルミナル軍による包囲からだっした。

 補給部隊を急襲してアルミナル軍に救援の必要をせまることで、攻囲こういにさらされているシアーデルンの負担を少しでも軽くして時間をかせぐという、レイタスのもくろみは一応、成功した。

 ただ、よもや敵がシアーデルンそのものをあきらめるとはつゆほども想像していなかったので、この成功に釈然しゃくぜんとしないレイタスの胸中きょうちゅうにはもやのようなものが残った。

 翌五月五日、太陽が中天ちゅうてんからやや西へかたむきだした昼さがり──。

 レイタスたちの分隊は、シアーデルンの城門が肉眼にくがんでもはっきりと確認できる地点でグランゼス軍本隊と合流した。

 帰還した軍師をフィオラは笑顔で出迎でむかえてくれたが、レイタスの表情はえないままだった。

「どうした、レイタス。シアーデルンをわずか三〇〇〇の手勢てぜいで救ってくれた英雄にしては、かない顔ではないか」

 上機嫌じょうきげんのフィオラはレイタスの肩に手をおき、今回の功績を高く評価してくれた。

 だが、レイタスはかぶりをふって正直に告げた。

「俺の手柄てがらではありません。敵が勝手に包囲をいてしまったのです。しかも、その理由がわからず、正直、困惑しています」

「ふん! 考えるだけ無駄だ」

 急にフィオラの表情がけわしくなった。美しく整ったまゆを寄せて、忌々いまいましげにちゅうをにらみつける。

「あの男のことで頭を悩ませるくらいなら、鎖帷子くさりかたびらくさりの輪を数えていたほうがよっぽど有意義ゆういぎだぞ。保証する」

 あの男、とは、アルミナルのことをしているのだろう。

 彼との間になにやら因縁いんねんがありそうなフィオラの発言をきいて、レイタスは興味をそそられた。

「いったい、どのような人物なのです。セラン・アルミナルきょうは」

 今後、障害になるであろう人物を知っておくことは、軍師にとって重要かつ不可欠ふかけつである。フィオラは彼と旧知きゅうちであるから、有益ゆうえきな情報が引きだせるにちがいなかった。

 ところが──。

軽薄けいはく! 不遜ふそん! 破廉恥はれんち! この世のありとあらゆる侮蔑ぶべつをこめても語りつくせぬほどのクズだ! あんなやつを、陛下へいかはどうして〈ナインシールズ〉に抜擢ばってきなさったのか!」

 フィオラがきすてるように即答そくとうした。その顔には、思いだすのも腹立はらだたしいとでも言いたげな表情がひろがっている。

 レイタスは、それですべてを理解した。

「なるほど・・・・・・今回のみならず過去にもちょっかいをだしてきたことがある、というわけですね。閣下ご自身に」

「ちッ」

 レイタスの指摘でいやなことを思いだしたのか、フィオラはほおを赤らめながらもキッとにらんできた。

「思いっきりかえりちにしてやったぞ! 今回と同じようにな!」

「それはそれは・・・・・・同情します。アルミナル将軍に」

「どういう意味だッ」

「いや、まあ、とにかく──」

 フィオラの怒りの矛先ほこさきが自分へ向けられてしまう前に、レイタスはさりげなく話題をかえた。

「シアーデルンはひとまず安泰あんたいです。このまま入城なさいますか?」

「ああ。連日の強行軍きょうこうぐんで兵たちは疲れきっている。早く休ませてやりたい」

 ふりあげたこぶしのおろしどころに困って、ムスッとした仏頂面ぶっちょうづらでそう答えるフィオラだった。

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