第7話
朱音と桐生が喫茶ナギで落ち合う、十五時間ほど前。
都会から離れた山の奥、ひっそりと建つ施設の地下で、重い音を立て鋼鉄製の扉が開いた。
両の手でそれを押し、現れたのは一人の老人だ。壁に点された松明の光の中、顔に刻まれたしわが頬に鋭い影を落としている。広い肩幅と厚い胸板にぴったりとあつらえられた黒いスーツには、鮮血が飛び散っていた。彼自身に目立った外傷はない。彼はその腰に差した刀で、何人もの敵を切り伏せてきたのだ。
そしてこの暗黒の広間に至った。
娘の仇を討つために。
「久しいな、吾妻」
広間の奥、数段高いところに立つ老人が言う。彼は詰め襟の簡素な服を着ていた。吾妻と呼ばれた老人よりも年上に見えるが、その背はぴんと伸びている。彼の痩躯に武器の類いは一切見当たらない。
しかし彼の周囲では何人もの黒衣の兵士が、銃を構えて立っていた。
その銃口は、入り口に立つ吾妻に向けられている。
「そうだな。お前とは初対面のはずだが、初めて会った気がしない」
兵士たちなどその場にいないかのように、吾妻はよく通る声で痩躯の老人に呼びかける。
「どこまでも鈍い男よ。己が何者か、冥土の土産に教えてやろう」
「冥土の土産など、必要ない」
そう言って吾妻は腰の刀に手をかけたが、痩躯の老人の態度は変わらなかった。相も変わらず、余裕綽々としている。
「対話より手合わせを望むか。その血の気の多さ、実にお前らしい」
「何人もの部下に銃を向けさせた状態で、対話だと? ぬかせ。俺の目的は、お前たちを一人残らず斬ることだ」
「では、お望み通りこうしよう。銃を下ろせ」
痩躯の老人の号令で、黒衣の兵士たちは一斉に銃を下ろした。吾妻は周囲に視線を走らせたあと、痩躯の老人を睨んだ。
「何が目的だ」
「お前とずっと話がしたかった。なかなか機会が持てなかったので、今日はこれでも喜んでいるんだよ。顔には出にくいらしいがね」
会話の主導権を握られている、と吾妻は思う。この男と話しているとどんどん調子が狂っていく。しかし彼の正体について、気にかかるのも本当だった。
「自己紹介がまだだったな」
吾妻の心を読んだかのように、痩躯の老人は言った。
「己は雨井洋平。この『星の導き』で司祭をしている」
「なるほど。お父さんの失踪については分かった」
万年筆にキャップをし、それを桐生は手帳の脇に転がした。朱音は空になったカップの前で伸びをしている。桐生は腕を下ろしたまま肩を回すに留めた。
「すみません。結構長くなっちゃいましたね」
朱音が言うと、桐生は柔和な笑みを浮かべた。
「気にしないで。ひとりで抱えてつらかったはずだし。今までよく頑張ったよ、吾妻さんは」
朱音の目の端に浮かんだ涙を、彼は見ないふりをした。桐生は再びメニューを取り出す。窓から差し込む薄橙色の光をラミネートが反射している。
「一回休憩にしよう。おなか空いてない?」
それには朱音は前のめりになり、目を輝かせた。
「そうですね。お夕飯にしましょうか」
その笑顔を見て、桐生は安心する。メニューを見ながら彼女に問う。
「ここは何がおいしいのかな」
「カレーとパスタがおすすめですよ。結構アレンジが効いてて、量もあります」
「そうか。じゃあツナマヨスパゲティにしようかな」
「私はカレーにします」
桐生がカウンターに向かって声をかけると、ウェイトレスがメモパッドを持ってやってきた。ひとりひとり注文を伝える。彼女は注文を書き終えると、カーテンを閉めましょうか、と提案した。桐生はそれを頼んだ。非常に静かな動作でウェイトレスはカーテンを閉め、再び足音もなく去って行った。愛想には乏しいが、店の雰囲気に溶け込んでこちらまで落ち着いてくるようないい店員だ。突飛な服装も今では気にならない。
彼女が遠ざかったのを確かめて、朱音が言った。
「桐生さんのお話を全然聞いていませんでしたね。それについて、あとで話してくれますか?」
ああ、と言って桐生は横目でノートパソコンを見る。その中にはすでにUSBメモリの情報が移されている。
「いや、情報の分析となると時間がかかるかもしれないが、俺の事情と知っていることだけを話すならそうでもないよ。あのマスターが二人分も食事を作るなら時間があるだろう」
そうして桐生は自分の経緯を朱音に話し始めた。
オカルト雑誌のライターをするうちに不可解な事件に遭い、その真相を突き止めるために大久保に情報提供をしてもらっていたこと。その事件というのは都内で起こる連続殺人事件で、非常に猟奇的であるという点で共通していることから、背後で糸を引いている存在がいるのではないかと疑ったこと。
それがもしかしたら、この地球上には存在するとは到底思えない生態をした昆虫かもしれないこと。
「昆虫、ですか」
桐生の話に真剣に耳を傾けていた朱音も、そこには疑問符を浮かべる。桐生はノートパソコンの向きを変え、画面を彼女に見せる。薄いディスプレイには文献をコピーしたPDFが表示されている。古い字体の外国語の中で異様な存在感を放つ、おぞましい姿形の生き物。
「これだ。この昆虫が事件現場にいたという複数の証言がある、ということがUSBメモリの中のファイルに書かれていた」
朱音は目を大きく瞬かせると、頭を抱えた。大丈夫、と桐生が声をかけると、彼女は手を上げて無事を伝えた。
「いえ、この絵を見ていたら気分が悪くなって……」
桐生はゆっくりと語りかける。
「落ち着いて。深呼吸して。ゆっくりでいいから、こちらに戻ってくるんだ」
何度も頭を振って、朱音がまっすぐに桐生の方を向いたのは一分ほど経ったあとだった。表情に少し憔悴の色がある。
「すみません。心が弱いですね。これからたくさん、戦いの中で恐ろしいものを見るに違いないのに」
桐生は柔らかく笑んだ。
「そんなことはないさ。正常な反応だよ。君が正気である証さ。それに、吾妻さんは十分強いよ」
「ありがとうございます」
彼女の目が本来の光を取り戻したのを確かめて、桐生は続けた。
「俺もこの文献を初めて見たときは、ショックだったよ。自分の頭がおかしくなったのかとすら思った。でも、現実だったんだ。この昆虫はこの街のどこかにいて、今も犠牲者を出している。それらの情報は民間人である俺たちのところに届くことはない。それを隠そうとしている連中がいる。俺はなんとしても、それを暴いてやりたいんだ。それが記者の使命だからな」
我ながらいい芝居が打てた、と桐生は思った。大人になるとこういうはったりばかり上手くなる。朱音はしばらく桐生を見て、短く言った。
「桐生さんは、どうしてそこまで」
朱音の疑問も予測済みだった。桐生は身を乗り出し、彼女だけに聞こえるように小声で言う。
「この話には続きがある。吾妻さんが話した『星の導き』に関するファイルが、渡されたフォルダの最下層にあったんだ」
朱音が目を見開く。桐生はそのフォルダの中のファイルを表示し、再びノートパソコンの画面を二人から見えるようにした。ファイルのタイトルには、『特A教団に関するプロファイル_関係者以外閲覧禁止』とある。内容を熟読している桐生が、結論のみを簡潔に述べた。
「大久保さんが俺に渡せた情報の中で最も重要機密であるもの。つまり、この連続殺人事件は、その引き金となっているかもしれない昆虫は、『星の導き』につながっている」
「つまり、私たちの追うものは」
朱音の言葉を引き継ぎ、桐生は言った。
「ああ。同じなんだ」
雨井と名乗った老人は丁寧に頭を下げたが、それは吾妻の目には慇懃無礼な態度に映った。彼は張り詰めた声で言う。
「お前たちの噂は聞いている。慈善家の顔をして世を欺き、影では異端の神を信仰しているとな。そして、多くの無辜の民の血を流させているとも」
雨井は口元に笑いを浮かべる。
「事情通だな。しかしお前は己たちに手を出さなかった。それはなぜか? 八年前の事件でその刃を折られたためだ」
雨井は吾妻の刀を見下ろして続けた。
「目に見える刃ではない。心のな」
「なぜお前がそれを知っている」
まさか、と言って吾妻は目を見開く。雨井は鷹揚に頷いた。
「あの作戦を仕組んだのは己だ。小碓機構最強の剣士、吾妻敏。お前を失脚させ、組織の戦力を削ぐためだった」
雨井が言い終わらないうちに、吾妻は刀を抜き、雨井に迫った。銃声が連続し、吾妻を何発もの銃弾が襲う。そのすべてを吾妻は刀で弾いた。
雨井が手を上げ、味方に攻撃を辞めさせる。
「鬼神のような強さは衰えていないようだな」
吾妻は蛇をも射殺すような目で、雨井を睨んでいる。雨井は唇を歪めるだけの微笑みを浮かべた。
「そう怖い顔をするな。己たちはたまたま仇として生まれついた。だからこそ己は小碓と相対し、己の知恵を試す機会を得た。これを神の授けてくださった僥倖だと思っているよ」
再び銃声が轟く。悲鳴と血しぶきが上がった。一人の兵士がその場に倒れる。吾妻の影は次の対象の前に移動する。兵士の構えたマシンガンごと、吾妻はその兵士を一刀両断した。
「昴」
雨井がつぶやくと、一発の銃声が鳴り響き、吾妻の足下のコンクリートが砕けた。吾妻は動きをぴたりと止め、目だけで狙撃手の姿を探す。それは闇に紛れて見えなかった。
雨井の背後には、炎の揺らめきに合わせて揺れる大きな影が立っている。彼は穏やかな声で言った。
「そう。お前ほどの男は失うに惜しい。だからあのときも、命だけは助けてやった。しかし、愚かな男よの。血のつながりもない小娘のために、みすみす死にに来るとは」
吾妻は刀の柄を握り直した。手の内側に汗が滲んでいる。
「お前には縁の価値が分からないらしい。それは己にとって命よりも大事なものだ。かつてそれを奪われ、また新たに失おうとしている」
「戦う理由には十分か。よろしい、こちらも全力で相手をしよう」
雨井は一度目を閉じ、再び開く。その頬にはもう形だけの笑みすらなかった。冷酷な策士の顔で、吾妻を見据えている。
「今日は会えて嬉しかったよ。吾妻敏。お前の剣の腕は賞賛に値する」
黒衣の兵士たちが次々に銃を構える。吾妻は一人一人の殺気を肌の上に確かめる。全身の筋肉を張り詰めさせ、呼吸を切り替えた。心の臓から指の先まで、燃えるように熱い血が巡っていくのを感じる。
そうだ。この感覚だ。長らく実戦から遠ざかっていたが、忘れることはない。血の匂いすら懐かしく、愛おしい。ここが俺の戦場だ。俺の自我はここで産声を上げた。そして今日、戦士としての俺は死を迎える。
あの策士の胸に、十字架のように刃を立てて。
「失うのが、残念だよ」
朱音の元に帰るときは、父親の顔に戻っていたい、と思った。
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試し読みはここまでです。読んでいただきありがとうございました!
続きは本編でお楽しみください。
仇星のアリア 麻島葵 @kikei
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