第5話

 古風な調度品の並べられた一階の店内は、午後の光を大きな窓から取り込んでいるというのにどこか薄暗かった。今日やっと訪れた一人目の客のテーブルを片付けながら、頭に髪飾りをつけたチャイナドレス姿の少女が言う。

「マスター、このままじゃお店潰れちゃうよ」

その台詞にはどこか訛りがある。顔立ちは整ったアジア系だ。服装からしても中国人かもしれない。

 彼女に答える声は、カウンターの奥から上がった。

「いいんだよ、こういうガラガラの喫茶店を持つのがおじさんの夢だったんだから」

高いカウンターの裏に隠れるようにして、そのマスターは椅子に座って新聞を読んでいた。片手の長い指の間に煙草を挟んでいる。年齢は三十代半ばほど。服装はスラックスにワイシャツだが、その襟は広げられ、顎には無精ひげが生えている。おそらく二日は剃っていないに違いない。

「確かにマスターはお給料ちゃんとくれるけどさ、心配になるよ。そんなに貯金があるわけ? もしかして実家がボンボン?」

「余計な詮索はなしだ。それがおじさんと雪蘭の取り決めだろ?」

「今日もとりつく島もなしか。いいけどね」

そう言って雪蘭と呼ばれた少女はテーブルを拭き終えた台拭きを盆にのせ、コーヒーカップと一緒にカウンター裏のシンクに運んだ。

 そのときドアが開き、乾いた音色のベルが鳴った。雪蘭は水を出そうとした手を止めて間延びした声を出す。

「いらっしゃいませー」

客は二人。フリーター風の男と短い髪の少女だ。少女は以前からこの店に通っていた。奥のほうで制服姿のまま勉強をしているのを時々目にしている。学生ながら貴重なリピーターだ。今日は薄手のコートの下にシャツを着て、背中に刀袋を背負っている。男のほうは初めて見た。少女が先に立ち雪蘭に向かって二本指を立てる。

「こんにちは。二人です」

「お好きな席にどうぞ」

二人は奥の席に向かった。雪蘭は盆に氷水と手拭き、店内Wi-fiのIDとパスワードを記したカードと灰皿を載せて彼らの席に向かう。すでに客の少女はメニューをテーブルの上に広げている。

「ご注文が決まりましたらお呼びください」

二人はすぐに注文のために雪蘭を呼んだ。ブレンドが二つ。男はノートパソコンを取り出している。雪蘭はコンセントの場所を教え、長居するならあとで食事を頼んでくれるといいのだが、と思った。

 カウンターに戻りマスターにメニューを告げる。マスターがコーヒーの準備に取りかかる。一度彼はこちらに意味ありげな視線を送った。

 雪蘭も同じことを考えていた。

 余計な詮索はしない。客に対しても。それはもちろんそう。

 しかし何か、雪蘭の起源にまつわる勘が、あの二人に対する警鐘を鳴らしていた。


「確かに、落ち着いた店だね」

店内を軽く見回して、桐生は言った。彼は壁を背に、なめらかな革に包まれたソファに座っている。その反発は心地よく、何時間でも座っていられそうだった。店内に流れるクラシック音楽もボリュームが絞られており、小声の密談を邪魔することはないだろう。ソファの間に立つ植木も青々とした葉をつけている。この店に人気がないのは、ひとえに閑散とした住宅街の中のさらに裏路地に位置しているからだろうと、桐生は思った。

「お気に召しましたか?」

朱音が問うと、桐生は柔らかく笑んで答えた。

「ああ、いい店だ」

注文したブレンドが届くまで、桐生と朱音は何気ない雑談に興じた。

 朱音の学校生活。教室では本を読んでばかりいて、授業が終わるとまっすぐに家に帰ること。桐生の仕事。なぜオカルト雑誌のライターになったか。

「取るに足らない駄文ばかり書いてきたよ。もともと小説家になりたかったけど、親に反対されて都会に逃げてきて、日銭稼ぎに始めたアルバイトを今でも続けているのさ。でも、人脈を広げたり取材をしたりするコツは身についているから、そういった面では吾妻さんの役に立てると思う」

朱音はよく磨かれたテーブルの上で、軽く頭を下げた。

「ありがとうございます。私は剣を振るうくらいしかできませんから。師匠であり唯一の家族である父がいなくなって、途方に暮れていたんです。桐生さんに彼を捜すのを、ぜひ手伝ってほしいと思います」

「任せてほしい。じゃあまず、その話からしようか」

そのとき、チャイナドレス姿のウェイトレスがコーヒーを運んできて、二人は会話を止めた。昔ながらの喫茶店ではその装いは浮いていたが、彼女のたたずまいは淡々としている。湯気を立てるブレンドと、砂糖壺、小さな容器に入ったミルクを置く。ウェイトレスは決まり文句を言うと、足音も立てずにテーブルを離れた。

 朱音はブレンドにミルクと砂糖を入れたが、桐生は熱いままそれを啜った。美味しい。喫茶店は仕事が終わらないときや食事のために何件もはしごしているが、これほど美味しいブレンドに出会ったのははじめてだった。

「美味しい」

桐生が素直な声を出すと、朱音が小さな笑みをよこした。

「桐生さんは大人ですね。私はブラックは苦手ですし、冷まさないと飲めません」

「コーヒーは好みがあるからね。でもここのは本当に美味しいよ。何年か経ったらブラックに挑戦してごらん」

「うーん、この先何年このお店があるか心配です。いつもこんな感じで、お客さんがいませんから」

「そうかな? たぶん趣味でやっているんだよ。潰れないのではなく、潰す気がない。マスターも若いから歳で引退することもないだろう。希望はあるんじゃないかな」

「なるほど」

さて、と言って桐生は指を組み直す。空気を察して朱音もコーヒーをスプーンでかき混ぜる手を止めた。

「本題に入ろうか。お父さんがいなくなったのはいつごろ?」

ノートパソコンは脇に置いたまま、桐生は手帳にメモを取る。朱音は感情を抑えた声で言った。

「十日前です。以前から何日か家を空けることはあったのですが、何も言わずに出て行って音信不通にもなるのははじめででした。それに、父の私室が整理されていたので、なおさらいやな予感がして」

「どこに行ったか、何をしに行ったか、心当たりはある?」

「あります。ただ、事情が入り組んでいるんです。信じてもらえるかも分かりません。それでも、桐生さんだからお話ししたいと思います。聞いてくれますか?」

そう言って彼女はこちらを見た。真剣な目だ。桐生はそれを受け止めて頷いた。

「いいよ。こちらで整理するから、ゆっくり話してほしい」

「ありがとうございます。事の始まりは、八年前に遡るんです」

すう、と息を吸う音が聞こえる。目をコーヒーの水面に落として、朱音は語りはじめた。

「八年前、私の故郷に彗星が墜ちました」

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