第3話
桐生は警察と救急を呼ぶ前に、大久保の亡骸に向き合った。
手を合わせてからライトを点したスマートフォンを手に、荷物を改める。桐生より背が高く、手の大きい男だった。これから司法解剖され、灰になる。家族の話はしたことがなかった。同僚の話も、浮ついた話も聞いたことがなかった。話しておくべきだったかは、今考えることではない。桐生は手を動かすのに集中した。
目当ての、それらしきものは亡骸の近くの地面に落ちていた。大久保か、彼からそれを奪った刺客が落としたのであろうUSBメモリ。桐生は大久保が命がけで桐生に渡そうとしてくれた記憶装置を見つめた。
「それは?」
朱音は刀袋に収めた木刀を抱きしめて問う。桐生は手の中の重さを確かめながら答える。
「俺はある事件を追っていて、その情報をこの人から受け渡してもらう予定だったんだ。おそらくそれは、このUSBメモリに収まっている」
「事件?」
「詳しくは話せない。事情を知っていたこの人は警察官だった。彼が殺されたというのは……厄介なものを敵にしているかもしれない、ということだ」
曖昧に濁し、言葉を切る。朱音は、意外にも迷いのない声で言った。
「警察の方は、信用できませんものね」
桐生が驚いて朱音を見ると、彼女は大きな瞳を伏せた。
「私も……人捜しをしているんですが、警察の方は頼れないんです。その……昔頼ろうとしたら、無下にされちゃって。あんまり当てにならないことを、知ってるんです」
少女の手が強く刀袋を握りしめる。その言葉の裏には、額面以上の意味がある気がした。桐生はUSBメモリをポケットに入れ、提案をする。
「君には命を救ってもらった大きな恩がある。俺にできることであれば力になりたい。たとえば、その人を捜すのを手伝うとか」
朱音はどう答えるべきか逡巡しているようだった。桐生は真剣な声で重ねる。
「すぐには判断できないと思う。俺の身の証も立ててないしね。ゆっくり考えてほしい」
「分かりました。ありがとうございます」
桐生はスマートフォンのボタンを押した。画面に表示された時刻はまだ二十時にもなっていない。三桁の番号を入力して、彼は朱音に言う。
「警察と救急車を呼ぶよ。事情聴取には時間がかかるから、先に親御さんに連絡しておくといい」
朱音の肩がぴくりと動く。彼女は張り詰めた声で言った。
「家族は、父しかいなくて、その父が行方不明になったんです」
「そうか」
桐生に答えられたのはそれだけだった。彼は発信ボタンを押すと、スマートフォンを耳に当てた。
警察と救急隊員は十分も経たないうちに現れた。大久保は担架に乗せられて運ばれていった。警察は桐生と朱音から事情を聞き、現場検証をした。
二人に大久保の死体に立ち会ったときの様子を再現させ、事件のあらましを記録すると、警察官たちは桐生と朱音にパトカーに乗るよう促した。二人はおとなしくパトカーに乗り、警察署に向かった。
警察署ではさらに詳しい取り調べが行われた。桐生は大久保との取引のことは伏せ、それ以外のことは正直に話した。
非番の警察官と待ち合わせをし、先に殺されていた彼の第一発見者となったこと。そこにいた不審な男に襲われたこと。偶然通りかかった朱音に助けられたこと。
我ながら怪しむべき要素しかないと思ったが、状況証拠と朱音の証言が功を奏し必要以上に追及されることはなかった。
それに桐生は知っていた。日本の司法は疑わしきは罰しないという根本的精神を持っていることを。
よく知っていた。
事情聴取から解放されたのは夜空に青みがかかるころだった。
進展があれば連絡する、と言い渡され、桐生と朱音は警察署の入り口まで案内された。
朱音からの聞き込みに当たった警察官は彼女を家まで送っていくと申し出たが、朱音は丁重にそれを断った。
その警察官は桐生に疑わしげな視線を投げたが、桐生はそれを無視した。
桐生と朱音は並んで警察署の駐車場を出て、目の前の道を歩いた。二人の足は自然と駅方面に向かった。角を曲がり警察署が見えなくなるまで、二人とも無言だった。
「お疲れさま」
桐生から声をかけると、朱音は力なく笑った。
「桐生さんこそ、お疲れさまです」
歩きながら小さく頭を下げる朱音の短い前髪が、風にそよぐ葦のように揺れる。
「俺は夜型だから大丈夫だけど、吾妻さんは今日学校があるんじゃない?」
「さすがに休みます。取り調べがこんなに時間がかかるなんて知りませんでした」
ため息交じりに言う彼女に、桐生は同調した。
「そうだよね。事件を解決するためとはいえ……」
言ってから、犯人が見つかったところできちんと罰せられるのだろうかという疑問が頭をもたげる。同じことを思ったのか、朱音は気難しげに言った。
「犯人が単なる通り魔の可能性は確かにあると思うんです。でも、犯人が桐生さんの言うとおり、大久保さんが警察にとって都合の悪い情報を漏らそうとしたから、大久保さんを消そうとしたんだとしたら……」
桐生は少し考え、打って変わって明るく言った。
「吾妻さん、やっぱりそれは俺の考えすぎだよ。俺はオカルト記事のライターだからね、どうしても陰謀論的な考え方をしてしまうんだ。心配させてごめんね」
済まないという気持ちを込めて眉尻を下げたが、朱音は鋭い目で桐生を見た。
「どうして今更そんなこと言うんですか、桐生さん」
明け方の街に二人の足音だけが響く。重い頭を回転させて、桐生は答えた。
「あのときは動揺して不安が前面に出てしまったんだ。事件が起こったあの辺りは治安が悪いしね、通り魔というのも十分考えられる」
「動揺したから、本音が出たんじゃないですか。あのとき桐生さんは、本心で私と話してくれていたように見えました」
思いのほか強い朱音の語調に、桐生は喉の奥が引きつるのを感じた。
「それは、なにを根拠に」
「勘です」
朱音は立ち止まり、桐生の目を覗き込んだ。桐生は立ち止まり、それを真正面から受け止めてしまう。女の勘は怖い、と思う。実際そうであることから言い逃れようとするほど、桐生は不誠実でも器用でもなかった。桐生は目を伏せ、ため息を吐いて言った。
「白状するよ。君の言うとおり、俺は大久保さんは消されたんじゃないかと疑っている。俺が大久保さんに情報を渡してもらうよう頼んだ事件は、警察がその痕跡をもみ消すほどやばい案件だったみたいなんだ。でも、君には話せない。理由は……察してほしい」
「察するなら、その理由は私にも危害が及ぶかもしれないからですよね」
「それを言葉にしてしまうのは、賢明ではないよ」
弱々しく忠告するが、朱音は一切物怖じしなかった。
「いいえ。私に危険が迫ると言うなら、桐生さんはそれを私に話すべきです。ただの好奇心からではありません。一度自分の足であの場所に踏み込んで、桐生さんを助けるために犯人と打ち合ったことで、私は桐生さんの相対するものを敵に回しました。縁と仇を結んだ以上、後戻りはできないんです。敵の正体を知って対策を立てるためにも、事情を話してください」
反論を、説き伏せるための根拠を、考えようとした。しかし何も思い浮かばなかった。桐生は苦し紛れに疑問をぶつけた。
「どうしてそこまで。俺は警察にとっては敵なんだ。俺のほうが悪人かもしれないんだよ」
朱音はほんの少し、語調を和らげて言った。
「悪い人が、自分からそんなこと言うと思いますか?」
「確かに、そうだ」
思わず素直な声が出て、自分がすっかり彼女に降参したことを桐生は悟った。朱音はそれを読み取ったのか、微笑を含ませた声で言う。
「それに、せっかく助けた桐生さんがまた危険な目に遭って、死んじゃうかもしれないのがいやなんです。だから私に守らせてください」
まるで武人のようなことを言う、と桐生は思った。女の勘などではなかった。相手の動きだけではなく心を読み、守るべきものを見定める心眼が、この子には備わっているのだ。
桐生はようやく、苦笑ではない笑いを浮かべた。
「ありがとう。君にはすべてを打ち明けるよ。その代わり、きちんと恩返しをさせてほしい。連絡先を交換して、また会おう」
「こちらこそ。信じてくれてありがとうございます、桐生さん」
ちょうどビルの谷間から日が昇るところだった。暁の光の中、少女の赤茶色の瞳が埋火のように輝いている。
朱音と駅の中で別れ、まだ乗客の少ない電車に揺られながら、縁と仇か、と桐生は考えた。
学校でも仕事でも、利害関係だけで他人とつながり、一人で生きてきたように思う。報酬は情報、金銭。背中を預けられるような存在を、持ったことがなかった。
今日までは。
生まれてはじめて、一人ではないような気がした。
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