第2話
数日後、大久保から連絡があった。
彼からのメールには、いつもと同じく場所の指定だけがあった。桐生はそれを古い木造アパートの一室で受け取った。一瞬意識に浮上したフラッシュバックを煙草を吸うことでなだめ、短い返信をして仕事に戻る。ちゃぶ台に置かれたノートパソコンの画面には、ほとんど真っ白なエディタが表示されていた。
あの事件が起きてから、ほとんど本業であるオカルト記事の執筆には身が入らない。しかし、貴重な収入源なのでおろそかにするわけにはいかなかった。
その日桐生はなんとか記事を一本書き上げ、編集者に送った。最近は締め切りぎりぎりに提出することが増えている。仕事は些細な行動のタイミングすら評価される、というのが桐生の父の口癖だった。何年も会っていない父。おそらくこの先も、会うことはない。
約束の時間が近づくと、桐生はブルゾンを羽織って家を出た。すっかり暗くなった夕方の街を、家路を急ぐ人々に逆らって歩く。駅前の居酒屋のネオンがちょうど点灯するところを見た。駅に着くとICカードで改札を通り抜け、電車に乗った。
一度乗り換えをして降り立ったプラットフォームで、スーツ姿の会社員たちとすれ違いながら階段に向かった。改札にはこれから夜の街に繰り出すのであろう着飾った男女が待ち合わせをしている。桐生はまっすぐに繁華街に歩いて行った。
頭の中の地図と照らし合わせながら、桐生は裏通りを進んでいく。浮浪者がたむろしているビルの脇から、狭い路地裏に入った。
繁華街の中の、開発の進んでいない古い一帯。こういう土地は、地主が分からない土地がわずかでもあると業者が手を入れることができないと聞いたことがある。大久保が指定したのは、そんな大都会の真ん中で見捨てられたような一角だった。人目を忍ぶのに好都合な場所なのは間違いない。
何度か角を曲がり、桐生はその一角にたどり着いた。三方を古いビルに囲まれた一坪ほどの土地。明かりはないが、ビルの隙間からこぼれる光でその人物を認めることができた。
「大久保さん……?」
名前を呼んで、すぐにそこに立っているのが大久保ではないと気づいた。フードを目深にかぶっており、顔は見えない。長いコートを着ている。その裾を目で追ううちに、桐生は彼の足下に誰かが倒れているのを見た。
刈り上げられた短い髪。見慣れたジャケット。地面に落ちた、警察手帳。
そこに倒れているのは、大久保だった。
視界の端で何かが光り、大久保を凝視していた目がそちらに映る。
それは立っている人物が手にしている、刃物だった。
間違っていると思ったらためらわず引き返せ。
大久保の声が脳裏によみがえるのと、目の前の相手がこちらに詰め寄ってきたのは同時だった。
桐生は悲鳴を上げ、きびすを返してもと来た道に向かって走った。
走ろうとした。
途端地面に躓き、その場に倒れてしまう。土から鉄の匂いが強く漂った。地面を強く蹴る足音が、ゆっくりと近づく。感覚から受け取れる情報が、スローになっているのだ。立ち上がって逃げなければと思う。こんなところでやられるわけにはいかない。
立ち上がりかけた足がもつれ、倒れるようにして前に進む。しかし、その行く手を人影が遮った。
大久保を貫いた刃物が、自分にまっすぐ向けられている。
桐生は震える足で後ずさる。目の前の人物は今度はゆっくりと近づいてきた。まるで張り詰めた大気越しに伝わる桐生の恐怖を、愉しんでいるかのようだった。
喧嘩慣れしていない桐生でも、相手の意識にも動作にも隙がないのが分かる。
逃げ場がない。後退することしかできない。
片足のかかとが重さのある塊に触れた。大久保の体だった。ぴくりとも動かないのが、触れたかかと越しに伝わってくる。
生きているのか、死んでいるのか。
桐生の注意が大久保に逸れた一瞬のことだった。
気がついたときには目の前に彼を刺した刺客がいた。
都会の薄明るい空でも輝く一等星を背に、凶刃が鈍くきらめいている。
「うおおおお」
悪あがきのように両腕を構える。凶刃が振り下ろされる刹那、桐生は片腕でそれを受け止めようとした。
しかし、痛みは訪れなかった。
ブン、と何かが振り下ろされる音が、刺客の背後から聞こえた。同時に刺客が、横に退く。
誰かがそこに立っている。
暗闇に慣れた桐生の目に、彼女は映った。
小柄な、セーラー服を着た短い髪の少女。彼女は長い棒状のものを刺客に向けている。あれは、木刀だろうか。
刺客は後ずさりながら、小さく舌打ちをした。
少女は木刀を構え直し、刺客に向かっていく。
「はっ!」
刺客の間合いの外から、彼女は木刀を振るう。刺客は刃物を構えるのもそこそこに、彼女の攻撃を避けた。少女の立ち回りは流麗で、木刀を振り切っても次の動作に移るのが早い。刺客が彼女に近づく隙はなかった。
彼女なら、大久保を刺した凶悪犯を打ち負かしてくれるかもしれない。
桐生は戦いは少女に任せることにして、大久保に駆け寄った。
「大久保さん! 桐生です、大丈夫ですか」
しかし、襟をかき分けて触れた肌はすでに冷たかった。傷を確認する。血は背中側に広く滲んでいた。背後から心臓を一突き。おそらく、苦しまずに逝ったのだろう。それがせめてもの救いだった。
桐生は一度目を閉じ、再び開いて刺客を睨んだ。
何度目かの少女の攻撃で、刺客が大きく体勢を崩したところだった。
ここぞとばかりに少女が木刀を振り上げる。
やれる。
少女が木刀を振り下ろそうとしたそのときだった。
「避けろ!」
直感が働き、桐生は叫んだ。それは少女も同じだったのだろう。咄嗟に刀を構え直し、刺客が投げた刃物を木刀で弾いた。
その隙に、刺客はこの一角の入り口から通路に消えた。
二人の視線が刺客を追ったが、実際に追いかけることはしなかった。通路は入り組み、死角が多くどこから攻撃されるか予測できない。凶悪犯を逃すのは惜しいが、深入りはしないのが賢明だろう。
桐生はわずかだが安堵し、深く息を吐いた。
靴底が地面にこすれる音がして、桐生はその方を見た。少女がその場に膝をついて、息を切らせている。杖にしている木刀が震えていた。桐生は彼女に駆け寄り、目線を合わせて問う。
「君、大丈夫?」
少女は手の甲で額の汗を拭いながら短い呼吸を繰り返し、答える。
「はい、なんとか」
澄んだ声だった。彼女の目が一角の奥に向く。
「けが人は」
桐生は少し間を置き、言う。ビル風がひゅうと鳴いた。
「死んだよ」
うう、と少女の喉から嗚咽が漏れた。先ほどの勇ましい姿からは想像もつかない、至って普通の少女の反応だった。桐生はできるだけ優しく話した。
「助けてくれてありがとう。君は命の恩人だ。倒れている彼については……パトカーと、一応救急車も呼ぶ。本当に……助かった」
いえ、と少女は涙混じりに言葉を紡ぐ。
「大丈夫です。悲鳴を聞いて、助けなきゃって思って、自分の足でここに来たので」
「ありがとう。君はすごく、強かったよ」
彼女の剣の腕は見事だった。ただの剣道部の学生には思えない。気になること、伝えたいことがたくさんある。しかし桐生は、ひとまず名乗ることにした。
「俺は桐生文也。都内で記者をしている。君は?」
少女は一度咳払いをしたあと、はっきりした声で答えた。
「吾妻朱音です」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます