第1話
東側にうっすらと太陽の滲む曇天の下、広い敷地に植えられた木々の葉が枯れ色に色づきはじめている。
都心では名の知れた、大きな池のある公園。飼い犬の散歩をする人影も落ち着いたその中を、一人の男が歩いている。
年齢は二十代後半ほど。健康的な肌色をしているが、目元に刻まれた深いしわが彼の顔の印象をどことなく暗いものにしていた。紺色の撥水素材のブルゾンを着て、日焼けしたジーンズを穿いた体躯は細い。その足取りは速く、一見ウォーキングをしているようにも見えるが、色素の薄い瞳は周囲の景色をほとんどとらえていなかった。
やがて彼は、公園の奥まったところにあるベンチにたどり着いた。背後に暗緑色の葉を茂らせた林の迫るベンチには、すでに先客がいる。先客はジャケットを着た三十代ほどの男で、新聞を読んでいた。歩いてきた男は先客の座っているのとは反対側のベンチの端に腰掛けると、ポケットから手帳を取り出した。右手には黒い軸の万年筆が握られている。
「遅れてすみません」
手帳の男が生真面目に言うと、新聞の男はのどかな声で応えた。
「桐生さんはいつもそれだな。約束の九時からまだ一分も経ってない」
「でも大久保さん、時間には几帳面じゃないですか」
大久保と呼ばれた男はちいさく笑った。
「ただの職業病だよ。何時何分何秒、現行犯逮捕。俺のいる課はそんなのばかりだからな。最近は特に物騒でまいっちまうよ」
桐生と呼ばれた男の表情がかすかに険しくなる。周囲に人影はないが、響きを抑えた声で彼は問うた。
「今日ここに呼び出したということは、例の連続殺人事件についてなにか分かったんですか」
新聞をぱらりとめくると、大久保はしずかな声で答えた。
「結論から言おう。分からなかった」
桐生はじっと話の続きを待った。大久保は淡々と言う。
「そもそもあれらは、連続殺人事件ですらない。別々の場所で、別々の人間が、発狂し、周囲の人間を殺傷、その後死亡した。確かに共通点はあるし、別々の事件の加害者同士に接点のあったケースもある。しかし、それだけだ。なにかにふれた結果だと、君は推測した。もちろん関係者たちの背後は洗ったよ。しかし、それらしきものはなにもなかった。残念だけど、単なる偶然で、これ以上の究明のしようはない。そういうことだ、桐生さん」
「そんなはずありません」
桐生は万年筆を握りしめた。
「裏で糸を引いている者がいるはずです。でなければ、こんなひどい事件が起こるはずがない」
大久保は少し同情的な声を出した。
「君の気持ちは分からないでもないよ。身内が事件の一つに遭ったとなれば、原因を外に求めたくなるのも理解できる。しかし、これらはいずれも、加害者の頭の中に生まれたまやかしが引き起こした、不幸な事件なんだよ」
「まやかし、でしょうか。であれば俺が見たものも、そうだと言うんですか?」
大久保は気難しそうに唸った。彼はなおも新聞を読む、ふりを続けながら話す。
「君が犯行現場で見たという、鳩ほどの大きさで、三つの口を持つ昆虫か。そんなものが実在するとは信じがたい。俺も、君を診断した医師と同意見だ。君は極度のストレス下で、幻覚を見たんだよ。そうとしか、判断のしようがない」
「大久保さん」
思わず振り返りそうになった体を抑えて、桐生は低く言った。
「あなたがたはあの昆虫をまやかしだと決めつけた。けれど俺は、調査の結果あいつについて書かれた文献を見つけたんです。それには、あいつと非常によく似た昆虫の図がかかれていました。それから、あいつらは非常に残虐な性格をしている、という記述も」
「それはなんという本だ」
「『バビロンの炎上』。1960年代の本です。著者はイギリス人、ジョサイア・スミス。彼は獄中で淫蕩と残酷にまみれた内容のその本を書き、死亡しています」
正面の道を、親子連れが歩いているのを桐生の視界が捉える。彼らが行きすぎたのを確かめて、桐生は続けた。
「それだけじゃない。『ミサ・ジ・レクイエム・ペル・シュジャイ』というオペラの台本も、あいつらの所業に似た性質を帯びた異常な内容です。あの昆虫は、歴史上、実在した。そして、今この街のどこかにも」
大久保は疑わしげな声を出す。
「それらの本に信憑性はあるのか? 好事家ために書かれた作品のように聞こえるが」
「俺が見たものと一致しているのは確かです。こんな禍々しく具体的なイメージを、時代を超えて複数の人間が持っているのは偶然とは思えません」
「それは、そうだが」
仮説ですが、と桐生は切り出した。
「あの昆虫が人間の精神に這入り込み、残虐な行為をさせるのではないでしょうか? そうして人間の精神が壊れたら、新しい宿主に宿るためにその体を脱出するんです。高度な知性は、その大きな脳に宿っている。どこから来てどんな信条を持っているのかは分かりませんが……その行いを見れば、この世に生かしてはおけない生物なのは明らかです」
一陣の風が吹き、背後の木々が耳障りな葉音を立てた。大久保が、小さな、しかし落胆のこもったため息をつく。
「君の話は荒唐無稽に過ぎるよ。まだ違法ドラッグや伝染病を疑ったほうが現実的だ」
「でも、警察の調べではその線はなくなったのでしょう? なら、俺があのとき見たものが事件の引き金だ。あれは紛れもなく、現実だった」
「桐生さん」
大久保はたしなめるような声を出した。
「君はもう少し休んだほうがいい。聞けば、事件のあと医者のすすめを断ってすぐに調査をはじめたそうじゃないか。君にはトラウマを癒やし、遺された家族と向き合う時間が必要だ」
「そんなものは必要ない」
桐生は視界が明滅し、指先が冷たくなるのを感じた。一度目を閉じ、深く息を吸って、吐いた。目を開けると、視界はのどかな秋の公園に戻っていた。
「あの日を境に俺の人生は変わってしまった。視界にあの昆虫がちらついて離れない。あいつの正体を突き止め、二度とあんな事件が起こらないようにする必要があるんです。そうでなければ俺は、日常に帰れない」
絞り出すように言って、桐生は拳を握りしめた。大久保は考え込むように沈黙していたが、やがて口を開いた。
「君の推論を裏付けるものについて、ささやかではあるが心当たりがある」
「本当ですか」
胸の高鳴りを抑えて、桐生は訊いた。周囲の音が鳴り止む中、大久保は囁く。
「君の見たものを警察も、医者も、俺も幻覚だと言い、否定してきた。しかし俺たちにはそう言わざるを得ない理由があったのだ。俺も末端の刑事だ、多くは知らない。ただ……上層部が何かを隠していることは分かる。君のようにあの昆虫を見たという証言はあった。それがもみ消された痕跡を、俺は調査に携わるうちに目にしていた」
桐生は前のめりになってその話を聞きたくなるのを堪える。言葉を選んで、ゆっくりと彼は言った。
「そんなやばいものなら、大久保さんが俺に教えるのも……危険なんじゃないですか」
大久保はいつもと変わらない落ち着いた口調で答える。
「そうだ。だからしらを切ってきたが……君の話を聞いて、このままでは警察内部の腐敗が自分にも及ぶ予感がしてね。被害者を泣き寝入りさせることに加担したくないんだ。俺が警察官を志した理由に反するからな」
雲間から光が差し、桐生と大久保の上に木の葉の影を落とした。桐生が口を開きかけると、大久保が言った。
「その話はいい。俺は俺のエゴを通す。だから桐生くん、君にもそうしてほしい。自分の目的を忘れず、正しい方向に努力するんだ。岐路に立ったらよく考えて、間違っていると思ったらためらわず引き返すこと。いいな?」
丁寧に発せられた言葉の一つ一つを、桐生は胸に納めた。そうして少し笑う。
「ありがとうございます。大久保さんはときどきお父さんみたいなことを言いますね」
はは、と大久保が笑う。温かい声だ。
「親父って歳じゃないだろ。せめてお兄さんにしてくれ」
「頼りにしてますよ」
大久保は新聞をたたんだ。ゆっくりと立ち上がりながら、滔々と話す。その間も桐生の方を向くことはなかったが、彼の意識のほとんどが、自分に傾けられているのを桐生は感じていた。
「今までは非協力的ですまなかった。次はましな情報を持ってくるよ。場所は追って連絡する。近いうちにまた会おう」
周囲には誰もいない。桐生は大久保の方をまっすぐに見た。
「大久保さん」
大久保の足が止まる。実際の年齢よりもずっと長く年月を重ねているような背中に向かい、桐生は想いを告げる。
「あなたのような人に、一人でも出会えてよかった。それがあなたで、よかった」
「俺もだよ」
微笑の気配を残して、大久保は去って行った。桐生は手帳に戻るふりをして、ページの余白に大久保の後ろ姿をスケッチした。
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