仇星のアリア

麻島葵

プロローグ

 夜の森は、昼間よりも土の匂いが強く漂う。

 一歩踏みしめるごとに、くしゃり、と足下で腐葉土が音を立て、少女はそれに足を取られないように、懐中電灯を握りしめて慎重に歩を進めた。

「早く行こう、朱音ちゃん。流れ星見逃しちゃうよ」

数メートル先で、もう一人の少女がじれったそうに足踏みをしている。朱音と呼ばれた少女は、追いつくと不満げに言った。

「藍歌ちゃんは急ぎすぎ。それに、流れ星じゃなくて彗星だよ」

「どう違うの?」

藍歌と呼ばれた少女は邪気のない声で問う。朱音は、少し考えてから答える。

「大きさが違う。彗星のほうがずっと大きい」

「流れ星は小さいの?」

「うん。地球の表面ですぐに燃え尽きちゃうから、一瞬しか見えない。でも彗星は、もっと長い時間見える」

へぇー、と、藍歌は感心した声を上げた。朱音は誇らしげな気持ちになり、胸を張る。

「だから、ゆっくり見に行っても大丈夫だよ」

でも、と藍歌は言う。

「どっちにしろ、先生たちに見つかったら怒られるから、さっと行ってぱっと帰るのがいいよ」

「それは、賛成」

少女たちは意見の一致に笑い合った。近くの茂みががさがさと鳴り、彼女たちは途端に抱き合って息を潜めた。毛皮をまとった小さな影が、懐中電灯の光から逃げるようにして闇に消えるのが見えた。二人は再び顔を見合わせた。

「早く行こ」

「うん」

どちらからともなくそう言い、少女たちは黒い小径を急いだ。

 

 地平線を臨む小高い丘の頂上にたどり着くと、藍歌が歓声を上げた。

「すごいよ、朱音ちゃん。光の塊が落ちてくる!」

「藍歌ちゃん、静かに」

彼女ははっとして口を押さえる。しかし感嘆を隠せないのは朱音も同じだった。彼女は懐中電灯を消して藍歌と並び立つと、呼吸することさえ忘れて目の前の光景に見入った。

 初夏の星明かりの少ない夜空の中、地平線に向かいその彗星は流麗な尾を描いている。その輪郭は鮮明で、図鑑で見たどの写真よりも美しかった。夢の中で見る夕焼けにも、青空にも似た不思議な色をしている。それは宇宙の彼方から来たものにふさわしい色彩だと、朱音は思った。

「きれいだね」

藍歌が澄んだ、ちいさな声で言い、朱音も、うん、と答えた。

「お父さんとお母さんも見てるかな?」

「見てるよ、きっと」

藍歌は、そうだね、と安心しきったように言った。藍歌が、ねぇ、と弾んだ声を出す。

「先生と友達には内緒だけどさ、お父さんとお母さんには彗星を見たこと言っちゃおうよ。テントの隙間から見えたんだよーって」

「それ、嘘じゃん。よくないよ」

朱音は眉をひそめた。藍歌はなおも食い下がる。

「じゃあ、隠すの? こんなにすごいもの見て、朱音ちゃんは誰にも話さないなんてできるの?」

朱音は言葉に詰まり、藍歌のほうを見た。真っ暗で体の輪郭すら見えないけれど、藍歌と確かに目が合っている気がした。

「できない」

「でしょ、だから」

「だから、藍歌ちゃんと何度も話すよ。今日のこと思い出して、忘れないように、いっぱい言葉を使って、大人になっても……」

それきり朱音は黙ってしまった。虫の鳴き声が大きく聞こえる。藍歌は一度口を開き、閉じると、笑って言った。

「大丈夫だよ。姉妹なんだから、いやでもずっといっしょにいるよ」

「藍歌ちゃんは私のこといやなの?」

朱音が今にも泣き出しそうな声を出したので、藍歌はおかしくなってしまった。くすくす笑うのを止められないでいると、藍歌ちゃん、と少し怒った朱音の声が聞こえた。藍歌は笑いを噛み殺して言う。

「いやなわけないよ。それはときどき、厳しいなぁって思うときはあるけど、すごく優しいの知ってるし」

「厳しいかな、私」

自信なさげに言う朱音が、うなじの毛に指を絡ませているのが、藍歌には見えていなくても分かった。

「それも、朱音ちゃんのいいところだよ」

うん、と朱音がいちおうは頷いたのを確かめて、藍歌は目の前の夜空を指した。

「今日のこと忘れたくないんでしょ? 最後にもう少しだけ、見ておこうよ」

そうだね、と答える朱音の顔が明るさを取り戻していることを、藍歌は知っていた。

「きれいだね」

「うん。まるで世界の終わりみたい」

「世界の終わりには星が降るの?」

「たぶん、きっと」

「朱音ちゃんが言うなら、そうなんだね」

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